チャンス・メイク(エミリオ)
エミリオは、アメリカ合衆国はイリノイ州のシカゴに住む10歳の男の子だ。
幼い頃から地元シカゴが誇るアメリカンフットボールのプロチームに憧れ、いつかは自分もNFLの舞台に立ちたいと思いながら育った、ごく普通の子どもである。
けれど彼は、幼いながらにその夢が絶対に叶わないことを知っていた。
何故なら、エミリオは生まれつき体が弱かったのだ。
喘息持ちで、少し体を動かすとすぐに胸が苦しくなってしまう。ひどい時はそのまま倒れて病院行きだ。そのため過度な運動は控え、友達が校庭で遊んでいるのをいつも教室の窓から眺めていた。
最近は症状の悪化から家と病院を往復する日々で、そんな日常さえも遠い出来事になりつつある。
大人はみんな、希望を持って前向きに生きろという。
けれど、無理なものは無理だ。
だって足を動かそうとしても『鎖』が巻き付いているんだから。
この世界は公平でもないし、望んだものはちっとも手に入らない。
――ひたすらに「何を諦めるか」選ぶゲームなんだ。
そう、幼いエミリオは理解した。
理解してしまえば後は簡単だ。
多くを望まず、植物のように生きていけば良い。
くだらない夢は捨て、友達を羨むのは止め、テレビを眺めるだけ。
アメフトは好きだ。まるでチェスのような頭脳戦を繰り広げながら走る。正確無比なパスが描く美しい放物線。時折チームメイトさえも欺くクレバーな作戦。一瞬の間隙を貫く疾走。そしてやはり最後には、鍛えた体がものをいう力。
自分には何一つ無いものであるからこそ、輝いて見えた。
たとえ観戦すればするほど己が惨めになるとしても、いろんなものを切り捨てて、最終的に残ったのが大好きなスポーツだった。
そんなエミリオ少年には、最近どうしても解決できない悩みがある。
それは口癖だ。
――ごめんなさい。
この言葉が意識しなくても勝手に出てくるのだ。
学校で倒れてしまって、母親が迎えに来てくれた時。
兄の誕生日が自分の病気のせいで台無しになってしまった時。
父親が自分を心配して仕事を早く切り上げてきた時。
誰かから大丈夫かと声をかけられた時。
どんな時でも、つい「ごめんなさい」と言ってしまうのだ。
その度、家族も友達もみんな辛そうな表情を浮かべる。
だから場にそぐわない、言ってはいけない言葉なんだと理解していても。どうしてもエミリオの口はその単語を紡いでしまう。
なんてお荷物で、役立たず。
自分はきっと生まれてきたのが間違いだったのだろう。
切り株から生えるひこばえのように、何かに寄らないと生きていけない。
どうせ長くは生きられまいが、出来るのなら家族に迷惑をかけないよう、ひっそりといなくなってしまいたい。
まるで梢にぶら下がる小さい星みたいだ。
今にも消えそうな頼りない輝きで、喘ぎ喘ぎ点滅している。少し雲がかかれば見えなくなってしまうような、その程度の存在。
とても一番星にはなれそうもない――
その日も、エミリオは病院のベッドに横たわっていた。
つい先日容体が悪化して入院することになったのだ。もはや見慣れた風景。今日は朝から調子が良くて、昼の間ずっとうたた寝をしていた。
だから、こんな時間に起きてしまったのだろう。
窓から差し込む月の光。
その柔らかい明かりに瞼を突かれ、エミリオはふと目を覚ました。
「けほっ」
さて、今は一体何時だろう。
備え付けられたデジタル時計を確認しようとして――
「こんにちは、人類」
「……天使……さま……?」
消灯し、薄暗い夜の病棟。
その闇の中、月光を受けて輝く人影。
気がつけばエミリオの傍に――窓辺に『天使』が立っていた。
「夢……?」
絹のような銀の髪は月光により白く輝き、琥珀色の双眸がエミリオを射貫く。その背に広がる翼は、まるで聖書の中から飛び出してきたかのよう。もし自分にもあんな翼があったなら、自由に空を飛ぶことが出来ただろうか。そんなことを考える。
「け、ほ」
きっと寝ぼけているんだろう。
じゃなければ、こんな光景はあり得ない。
けれど十年付き合った体は、この苦しさが夢でないと教えてくれた。
「走りたいですか。外の世界を、自由に」
薄い桜色の唇が震え、鈴のような声が響く。
走る。それはエミリオにとって寿命を削る行いだ。
自分が出来ないから――だからテレビに映るスーパーマンたちにその願いを託して、一人でずっと眺めてきた。
何故、天使さまが目の前にいるのか。
分からないけれど、エミリオは問われるがまま口を開く。
「はし、こほっ……走り、たい……」
そんなの聞かれるまでもない。
自分の足でどこまでも行けるなら、今すぐこんな病室から出ていってやるのに。
「どうしてそんな――けほっ」
「無理に話さなくとも構いません。あなたの意思は十分確認できました」
白魚のような指が伸びてきて、エミリオの額を撫でる。
不思議なことに、それだけで体の熱が収まって少し楽になった。
「ならばこそ、あなたに“霊薬”を授けましょう」
そう言って天使さまがどこからともなく取り出したのは、一本のフラスコだった。
中に透明な緑がかった液体が泳いでいる。
「おくすり……?」
「あなた方の言葉で言うところの“ポーション”です」
その名前をエミリオは聞いたことがあった。
彼はあまりゲームを遊ばないが、スポーツ観戦の合間に見るニュース番組で、そのワードを目にする機会があったのだ。何でもダンジョンから発見された未知の薬品らしい。今まさに偉大なる合衆国の叡智を結集させ、研究を進めているというそれ。
「これを飲めば、その身に巣食う病魔はたちどころに去るでしょう」
手慰みに振られたフラスコの中で、薬液がちゃぷちゃぷと音を立てる。
「あなたは走る力を取り戻す。だからどうか、恐れないで」
エミリオの手にフラスコを渡して、天使さまが一歩引く。
もし、これで本当に病気が治るなら。
思わずエミリオの手が震える。
知らない人からもらったものを飲んだり食べたりしてはいけないと両親は教えてくれたけど、天使さまはきっと『人』じゃない。だから飲んだっていいだろう。
そう思ってフラスコを傾けようとしたところで――
「天使、さま」
「なんでしょう」
「やっぱり、もらえません」
エミリオはふるふると首を振った。
「けほ、けほっ……僕だけ、ズルはできないから」
この病棟には自分と同じように苦しんでいる人たちが沢山いる。中には友達も。自分だけが助かろうとするなんて、それは正しくない行いだ。神様に顔向け出来ない。いつか最後の審判が訪れた時、地獄に落とされてしまうだろう。
「私の目に狂いはなかったということでしょうか」
「……?」
天使さま――神様の御使いが、目を閉じてぽつりと呟く。
それからエミリオの頭を優しく撫でた。
「安心してください。あなたは“第一号”です。これからこの星に訪れる幸運。その兆しに過ぎない。兆し……スタート、ということです」
「僕だけじゃない……?」
「はい」
それは優しい気遣いか、はたまた悪魔の甘言か。
迷ったところで、結局誘惑には勝てなかった。
何よりエミリオを見る天使さまの目は、嘘つきと思えないほど澄んでいた。
だから覚悟を決めて一気にポーションを口にする。
「……んくっ……んくっ」
小さな口で必死に嚥下していくエミリオ。
いつもなら咽るはずなのに、何故かするりと喉を通過して。
甘い香り付けがされているのか、ほんのりとジュースみたいだ。
「ぷはっ」
一息に飲んでしまったので、空気を求めて思い切り口を開く。
するとすぐ、エミリオは違和感に気がついた。
「……くるしく、ない?」
その日の体調によるが、いつもだったら大きく息を吸うと胸が痒くなって、咳をしなければ気が済まない気持ちになるのだ。不思議とそれがない。どころか爽快ですらある。こんな気分は、ずっと昔に家族と山へ出かけて以来だ。
結局ほとんど父親に負ぶられて登頂したが、生まれて初めて『空気が美味しい』という言葉の意味が分かった、あの日。
今、その時に負けず劣らず体がすっきりとしている。
「あなたはもう動けるはずです」
エミリオの困惑を他所に、何でもない口調で天使さまが告げてくる。
確かに先ほどまであった胸の苦しさや倦怠感が無くなっていた。それでエミリオは起き上がるどころか、ベッドから降りて体を動かす。
「……!」
はじめはおっかなびっくり。
だんだんと挑戦的に。
跳んだり跳ねたりしてみても、ちっとも息が切れない。
「すごい! は、はは……!」
いつもだったら倒れてもおかしくない頃なのに。
今なら、どこへだって走っていけるような気がした。
思わずエミリオの顔に子どもらしい無邪気な笑顔が浮かぶ。
全てを諦めて、投げやりになっていたのが嘘のように――
それから一頻り笑って、動き回って、さすがに疲れたのか膝に手を突く。
再び顔を上げた時、そこには大粒の涙が浮かんでいた。
「夢をみても……いい、のかなぁ」
ぽろぽろと、堪えきれなかった涙が床に落ちていく。
ずっと、諦めるしかないと思っていた。
人生は何でもかんでも手に入らない。そんなの当たり前のことだ。だから限られた手札で最良の未来を目指す。たとえ配られた手札が他人よりどんなに少なくたって、それでやっていくしかないのだ。だから夢は夢のまま、こっそり畳んでいたのに。
「僕なんかが……やってみても、いい……のかな」
アメリカンフットボールの選手になりたい。
いくら元気になったところで、エミリオはもう10歳だ。今更努力したとて、憧れの地元チームはおろか、プロにさえなれない確率が高い。よくて万年補欠だろう。
けれど、それでも。
「あきらめなくて……いいのかなぁ……?」
どんなに困難だとしても、資格を得たのだ。
絶対に開けられないと思っていた扉に、僅かでも手が届くかもしれないのだ。
どうしてそれで、簡単に諦めてしまえる?
果たして、天使さまはそんなエミリオの胸中をお見通しだった。
「既にその答えを、あなたは持っているのではありませんか」
全てを見透かすような琥珀の目。
その瞳に見つめられ、エミリオはぎゅっと胸を押さえた。
「はい……!」
そうだ。これからどんなに遅いと馬鹿にされても。
自分は絶対、もう二度と諦めたりなんかしない。
「そうと決めたなら、泣いている暇なんてありませんよ」
「ごめん……なさい、僕、僕――」
「違いますね」
「え」
いかにも天使然とした冷たい表情が不意にほころぶ。
雪解けの春、冷たい雪の下から顔をのぞかせた新芽のように柔らかい微笑みを浮かべながら、天使さまが口にしたのは。
「小さき人類。こういう時は謝るのでなく――――ありがとうと。ただ一言、そう言えば良いんですよ」
エミリオの心を蝕む病、その処方箋だった。
単純だけれど大切な魔法のキーワード。
ごめんなさいの代わりにその言葉がやってきて、すとんと腰を下ろす。
「うん……」
エミリオは実は、ちょっぴりだけ自分が賢い人間だと思っていた。
体が動かせない分、人一倍頭を動かしていると。
けれどその実、ただの頭でっかちだったのかもしれない。
「ありがとう、天使さま!」
だって、こんな簡単なことにも気づけなかったんだから。
――エミリオ・ベーア。のちにアメリカンフットボールの世界で、シカゴの名門プロチームに所属した彼は、決して派手な選手と言えなかった。けれど技術に裏打ちされたプレイングの数々はいつもチームのピンチを支え、何度だって勝利に導いた。
正に縁の下の力持ち。そんな彼が、実は10歳の頃まで病弱だったことは、ファンならば誰もが知っている常識だ。
だからかエミリオは、現役中、州内州外を問わず様々な医療施設を訪れて、ファンサービスを欠かさなかった。のみならず引退後は私財を投げうってまで、難病の子どもたちを支援する活動に身を投じた。
何故そこまで出来るのか。チームメイトやマスメディアの取材に、いつも彼は笑ってこう返したという。
「人生は『何を諦めるか』を選ぶゲームじゃない。いつだって逆転の目があるんだ。それを僕はみんなに伝えたいんだよ。……あの人みたいに」
いつか来る未来。
けれど今はまだ、先のお話――




