わたしの居場所・下(明日原祈)
――ダンジョンが出来て半年。
変わるもの、変わらないものは数あれど、明日原祈の人生は大きく変わった。
それも彼女が望む方向に。
どん底だと思っていた人生に光が差しこんだ。
けれど、所詮はまやかしに過ぎなかったのかもしれない。
祈の人生に初めて暗い影が差したのは、彼女がまだ十歳の時だった。
両親との仲睦まじい三人暮らし。そこに父親が交通事故で亡くなったという連絡が飛び込む。十歳にもなれば死がどんなものかぐらい知っていた。もう二度と戻ってこない父の顔を思い出し、夜ごと泣き通した。
母は女手一つで祈を育てるため奮起するも、気力が持ったのは最初だけ。
すぐに新しい男を作ってあまり家へ帰らないようになった。
それでも時折赤ら顔で戻ってくる母を待つ日々。
父の死から三年。
泣いたところで無駄だと悟った祈は、もう泣かなくなった。
母を困らせないように文句も言わなくなった。
そうすると、母が再婚相手を連れてきた。
『今日からこの人が祈のパパよ』
そう言って紹介された相手は、最初、とても紳士的な男に見えた。
優しい声で祈の頭をよく撫でてくれた。
ところがその手が頭から、だんだんと肩へ行くようになり、胸や下腹部にまで伸ばしてくるようになった時、「あれ?」という違和感を覚えた。
自分が知らないだけで、こういうのも親子のスキンシップなのかもしれない。
嫌だと言えばせっかく帰ってきてくれた母がまたいなくなってしまう。
だから我慢して、我慢して、我慢して――
ある夜、ついにベッドにまで忍び寄ってきた『パパ』を突き飛ばして、祈は母に助けを求めた。さすがにこれはおかしい。母だって助けてくれるはず。
そう思っていたのに、
『あの人がそんなことするわけない!! そう……そうよ、むしろあなたの方から誘惑したんでしょ!?』
返ってきたのは鬼のような形相だった。
そして祈の頬を強く叩いた。
――ああ、お母さんは、もう私のお母さんじゃないんだ。
それから彼女は言った。
この売女が。その身を持って罪を償え。
最近ダンジョンとかいうのが出来て、稼げるらしい。お前みたいなのでもおこぼれぐらい貰えるだろう。許して欲しかったらダンジョンでも何でも、金を持ってこい。
それまで、もう二度とこの家の敷居を跨ぐな。
正常な精神なら、こんな不当な命令、従う必要などない。
けれど信じていた人に裏切られ続けた祈の精神は限界を迎えていた。
そうして言われるがままダンジョンに向かい……。
質の悪い二人組に絡まれ、勇と出会ったのだ。
誰も助けてくれないと思っていた暗闇から、掬い上げてくれる光に――
勇は知らない。
祈が今も稼いだ金を実家に送り続けていることを。
自分がヘドロのような人たちと付き合いがあることを。
絶対に、知らせてはいけないのだ。
彼ならば、きっと祈を助けようとしてくれるだろう。
いつだって小さな勇気を振り絞って、大きな敵に立ち向かう、そんな人だから。
だからこそ、知られたくない。
自分の体に――――そんな汚れた血が混じっていることを。
気がつけば、祈は母とその再婚相手が住むアパートの前まで来ていた。
入り口付近で女性が一人仁王立ちしている。
派手な化粧はこれから行く仕事のためか。
そこまでして自分をあの男に近づけたくないのかと呆れてしまう。
それが祈を守るためでないことくらい、聡い彼女には分かっていた。
「お母、さん」
「遅い! 電話したんだから、ちゃんと出なさいよ!」
「……ダンジョン、は、電波、届かない、から」
「ふん。相変わらず、言い訳だけは一人前ね」
昔はこうじゃなかった。
学校であったこと。友達とした何でもない話。新しく出来るようになった技。そうした当たり前の日常を、笑顔で聞いてくれる人だったはずなのに。
「ほら」
「……?」
「今月分、持ってるんでしょ。寄越しなさいよ!」
いつから、こんな醜い顔をするようになったんだろう。
「もう、振り込んだ、よ?」
「あれっぽっちで足りるわけないでしょ!! 大体、知ってるのよ。アンタ大層稼いでるそうじゃない。ならちょっとは親孝行しようと思わないわけ?」
「…………」
ダンジョンに配信機能が追加されてから、祈は時々、道行く人が自分のことをまじまじ見てくるようになったのを感じていた。
少数精鋭の勇者パーティー。そんな風に呼ばれることも珍しくない。
時折取材の連絡も来るほどで、勇も祈も気が向かないので断っていた。
どこかから、そんな話が母親に伝わったのだろう。
「でも――」
「なに、口答えする気!? 誰がここまで育ててやったと思ってるの!? この恩知らずが! どうせアンタもアタシのこと見下してるんでしょ!? 自分の方があの人に選ばれたんだって!」
「ち、ちが」
「うるさい!!」
ヒステリックに叫びながら、振りかざされた手の平。
避けることもせず、祈はただ黙って目を閉じた。
けれど。
「――ごめん、遅くなった」
今一番聞きたくて。
でも、聞きたくない声が、祈の耳朶を震わせた。
驚いて目を開けると、そこにはいつも彼女を守ってくれる背中があった。
どんな敵にも立ち向かう、祈にとっての英雄。
「どう、して」
「あんな青い顔してちゃ、そりゃ気になるよ」
どこから聞いていたのだろう。
きっと、失望したに違いない。
「ちょっと! アンタ何!? こっちは大事な話をしてるのよ! 邪魔しないでくれる?」
そうだ。頼むからいなくなってくれ。
自分が我慢していれば、全部丸く収まるのだから。
誰も傷つかずに済むのだから。
どうか、どうか――
「明日原さん」
普段、恥ずかしがって、なかなか目を合わせてくれない勇。
そんな彼が、この時だけは祈の目をじっと見つめてくる。
「君はどうして欲しい?」
あまりにも真っすぐな問いかけ。
だから、咄嗟に嘘が付けなかった。
「……助けて、くだ、さい」
「うん」
言った。言ってしまった。もう引き返せない。
そう思うのに、胸が熱くなって、ぽろぽろと涙が零れだす。
本当はずっと誰かに伝えたかった言葉。
「さっきから聞いてれば、いい加減にしてちょうだい! こっちは親子で大事な話をしてんのよ! 部外者はどっか行きなさい!」
「部外者なんかじゃありません」
「はぁ!?」
「彼女は――祈さんは俺の信頼できる仲間で……」
唐突に、祈は肩を抱き寄せられていた。
びっくりするのも束の間、耳元で勇に「少し我慢してて」と囁かれる。
こんな状況にも関わらず顔が赤くなるのを抑えきれない。
だがそれは序章に過ぎなかった。
「俺の大切な、パートナーです」
「ふぇ」
初め、何を言われたのかさっぱり分からなかった。
だがそのおかげで、祈は大声を上げずに済んだ。
「な、な、な」
「だから部外者じゃありません」
「何よそれ!?」
暮れなずむ住宅街にヒステリックな声が響く。
「その子はまだ未成年なのよ!?」
「……ダンジョン新法の改正、知らないんですか? 探索者の裾野を広げるために、もうすぐ成人年齢が引き下げられるんですよ。それに未成年だというのなら……そんな子どもを、あなたはどうされていましたか?」
祈の肩を掴む手に力が籠る。
目線を上げれば、勇はこれまでに見たことがない表情を浮かべていた。
ああ、この人は怒るとこんな顔になるんだ――
「祈さんはあなたの所有物じゃない」
「……うるさい」
「叩けば何でも言うことを聞く、都合の良い道具じゃない」
「うるさいって言ってるでしょ!」
「いくら身内でも恫喝は立派な犯罪ですよ。祈さんのパートナーとして、これ以上見過ごせません。だからもしまだ、食い下がるようでしたら……」
不意に勇がポケットからスマートフォンを取り出し、目の前に掲げる。
「ここから先は、しかるべき場所で続きを聞かせてもらうことになりますが」
「……チッ」
さすがに分が悪いと思ったのだろう。
祈の母はその目に憎悪を浮かべ、勇を睨んだのち、踵を返す。
だがぼそりと一言、捨て台詞を吐くのを忘れなかった。
「淫売が」
その一言で、彼女の中の祈がどんな人間として描かれているか、全て分かった。
同時に、もう二度と元の関係に戻れないのだろうとも。
それは寂しいことのはずなのに、何故だか安心感があって。
そう思ってしまう自分にこそ、祈は寂しさを覚えるのだった――
◇ ◇ ◇
「ほんっとおおおおに……ごめん!」
土下座だった。
誰が見ても100点満点をつけるほどの、完璧な土下座だった。
人気のない夜の公園で勇が頭を下げている。
「悪気があってつけてたわけじゃないんだ! その、いろいろ変なことを言ったのも明日原さんを助けるためで、だから、ええと……不審者として通報しないでいただけないでしょうか……」
これが先ほどあんなにも雄弁に啖呵を切っていた人だろうか。
一人ベンチに座らされた祈はひたすら困惑していた。
「あ、の」
「は、はい!」
「わたし、怒ってない、です。むしろ、助けてくれて……ありがとう、ございました」
「……そう? よ、よかった」
こうして話していると、祈は初めて勇に出会った時のことを思い出す。あの時も助けてもらったのは自分のはずなのに、何故だか勇の方が狼狽していた。
ただ当時と違うのは、その口調が流暢になっていることだ。
初めはどもりがちだった喋り方がだんだんと滑らかになっていって、最近ではすっかり詰まることもなくなった。何なら陽気な冗談も飛ばす。
おそらく今の勇こそが本来の姿なのだろう。
「これで明日原さんに嫌われて、明日からパーティー解散ですって言われたらどうしようかと……」
明日原さん。先ほどは名前で呼んでくれたのに、もうすっかり元通り。
それに異を唱えるのはきっと求めすぎだ。
だって己は薄汚れている。彼とあまりにも正反対で――
「話、してもいい、ですか。わたし、の、話」
「……うん」
「昔は、こんなんじゃ、なかったんです」
そう言って、祈はぽつぽつと過去の出来事を話し始めた。迷惑かもしれないが、助けに入ってくれた勇には聞く資格がある。きっと黙っていれば触れないでいてくれたろう。だがそれではあまりに不義理だ。
父親が死んでしまったことで親子関係にヒビが入ったこと。
だんだんおかしくなっていく母。
新しい『パパ』と耐えることが出来なかった自分。
何度か止まりながらも、最後まで伝えようと言葉を紡ぐ。
魚が酸欠であえぐように。苦しんで口を動かす。
勇は時折相槌を打つだけで、ずっと静かに聞いていた。
「明日原さんは……頑張ったんだね」
「いい、え」
慰めの言葉に、祈は小さく首を振る。
「わたしは、良い子になれません、でした。お母さんに、とって、の。だから……繋ぎとめられなかった、です。結局、怒らせたまま。わたしが、もっとしっかり、していれば」
「明日原さん。それは違うよ」
はっきりと断言する、力強い言葉だった。
普段人の意見を真っ向から否定しない勇にしては珍しい。だから祈は弾かれたように顔を上げた。
「これは俺の持論……というか経験則だけど、時間を置いて、距離を離して、一度引いてみることで解決する問題もあると思うんだ。よく時が解決してくれるって言うでしょ? その瞬間にはどうしようも出来ないことって、いっぱいあるんだよ。……本当に」
「でも」
「でもも、ヘチマもありません! ま、年の功だと思ってさ。小うるさい年長者の意見だけど、聞いておいてよ」
そう言ってへにゃりと笑う。
あくまで自分を悪者にする、甘く優しい台詞。
そこに寄りかかりたいと思う自分と、頼ってはいけないと思う自分。
両方がせめぎ合うのを祈は感じていた。
「あと、泊まるところはどうしてたの?」
「ネカフェ、とか、休憩スペースのある、温泉施設、とか」
「え。よく無事だったね」
勇が目を丸くする。
今更落ちる好感度もないだろうが、祈は恥ずかしさから身を縮こませた。
「そうなると、さすがにこのまま帰すわけには……でも、うーん……」
服はコインランドリーで洗っているし、シャワーだって浴びている。
だが恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
「そうだ! 明日原さん、良かったらウチにこない?」
「……へ?」
「あ、や、違う! いや違わないんだけど、そうじゃなくて! ウチの家族はあんまり細かい事気にしない人たちだし、もし明日原さんの事情を話していいんだったら、きっと二つ返事で受け入れてくれると思うんだ。下の妹と弟たちはちょっとうるさいかもしれないけどっ、だからそのぉ、下心があるわけじゃなくてですね……」
「ふ、ふふ。はい。わかって、ます」
わたわたと手を振る勇。別に聞いてもいないのにあれこれと言い訳を積み重ねる様を見ていると、思わずくすりとしてしまう。何だか祈は久しぶりに笑った気がした。
どうしてこんなに優しくしてくれるのか。
きっと聞いたところで、彼はのらりくらりと躱してしまうだろう。
どれだけ自分がお荷物で役立たずと言っても、否定して、背中を預ける仲間が――明日原祈がいてくれるから戦えるんだと、そう臆面もなく言ってしまうような人だ。
迷いはある。けれど、結局自分の心に嘘はつけない。
「小浪、さん。明日からまた――うう、ん、今日からまた、どうか、よろしくお願いします。不束な、わたしですが」
いつか、勇が自分を必要としなくなるその日まで。
もう君はいらないと言われる日まで。
許される限り、隣に居続けたい。
それが偽らざる本当の気持ち。
なんて小ズルいやつなんだと祈は思う。
だって、分かりきっているから。
祈にとっての英雄が、そんな台詞を言うわけないと――




