パーティーの黄金比・下(胡条実夏子)
午後三時。
胡条実夏子が仕事を終え、ダンジョンを出た時、外では夏日がぎらぎらと輝いていた。
「暑……」
思わず手を庇にして太陽を見上げてしまう。
それから光に目を慣らすように周囲を見回した。
ある日、代々木公園の中に突如として現れたダンジョン。
今日も静かに東京の街を見下ろす塔の周りには、ぐるりとフェンスが走る。
以前はフェンスの内側にいくつもテントが立ち並び、物々しい雰囲気を醸し出していたが、今はゲートを残すのみ。機能のほとんどを探索者協会へ移したため、前よりもすっきりとしていた。
それからもう一つ、変わったところがあるとすれば。
フェンスの周りで管を巻いているデモ隊の存在だろうか。
「ダンジョン、反対―!」
「ダンジョン省を許すなー!」
「浦梅は辞めろー!」
「争いのない世界を!」
「日本政府は人殺しだー!!」
プラカードを掲げ、気炎を上げている人々を見て、実夏子はよくやるものだと冷笑を浮かべた。そんなことに時間を費やすぐらいなら、真面目に働いた方がマシだと。
(……それを言うならモンスター殺し、じゃないかしら)
関わり合いにならないよう、そそくさと守衛に挨拶し、家へ向かう。
胡条一家が住むマンションは駅近の好立地。それでも電車を乗り継いで30分はかかる。きっともう息子が学校から帰って、一人留守番をしているだろう。
(途中でスーパーに寄って……それから……)
協会のパート職員になって、以前よりも早く帰れるようになったとはいえ、どうしても専業主婦のようにはいかない。息子が寂しい思いをしていないか、心配で心配で、今すぐ家に飛んで戻りたいところだが、待ったをかけて行程表を組み立てる。
夕飯の素材や頼まれていた文房具を買い、クリーニングに出していた夫の仕事着を受け取ってから、マンションのエレベーターに乗り込むと、既に16時半を越えていた。
これから始まる家事を思うと、ほんの少し気が重い。
だが自分で選んだ道だ。
家族仲も、少なくとも実夏子は良好だと思っている。
――胡条実夏子は元々、良家のお嬢様だった。
由緒正しい血筋の娘として、どこに出しても恥ずかしくないよう厳しく躾けられた。
その窮屈な世界が嫌で大学の卒業を機に家を飛び出し――職場結婚の末、子宝にも恵まれた。夫の稼ぎだけでも何とか暮らしていけないことはない。それでも共働きを選んだのは、子育てにお金がいくらあっても足りないことと、何より実夏子自身の問題だった。
旧家という箱庭が嫌で逃げた実夏子にとって、誰にも寄りかからず、一個人として自立するということは、自身のアイデンティティを守るため重要なことだった。
だから子どもが大きくなって小学校へ進学してから、また働きに出ることを選んだ。
あるいは、プライドのせいと言ってもいい。
自分が自分であるために選んだ道へ、文句を言うわけにもいかないだろう。
「ただいま帰りました」
鍵を開け、自宅の扉を開く。
見れば、玄関には小さな子ども用の靴がきちっと揃えられていた。
息子の靴だ。それなのに、少し待ってみても返事がやってこない。
以前なら、いの一番に玄関まで迎えに来てくれたというのに。
(……あの子、またゲームかしら)
先ほどまで何とか我慢していた溜め息が、ついに零れそうになる。
この頃、実夏子は大きな悩みを抱えていた。
そのせいで職場でも、気を抜くと溜め息を漏らしてしまう始末。
今日もそんな油断を同僚に気付かれてしまった。
その悩みとはズバリ――息子がテレビゲームにはまってしまった、ということだ。
ともすれば教育虐待を受けて育った実夏子は、自分の子どもに対し「自由に伸び伸びと育って欲しい」という願いを抱いている。自分がされて嫌だったことを子どもにはすまいと、おおらかな気持ちでいることを心掛けている。
だから進級して、息子に新しい友達ができ、その友達の家で遊んだゲームをねだられた時も、少し迷いはしたが買い与えた。
まず宿題を片付けること、夜は遊ばないこと――といった約束の元に。
けれど、
「伸児」
「…………」
「伸児!!」
リビングのドアを潜ると、案の定、実夏子の息子――胡条伸児がテレビゲームに熱中していた。床に放り投げられたランドセルから教科書や筆箱が飛び出している。
「……あっ、ママ。おかえりなさい」
今気がついたというように、伸児が振り返った。
実際、テレビの音量からして、実夏子が帰って来たことに気がつかなかったのだろう。
何から注意したものか。
思わず冷たい声が出そうになるのを抑えて、実夏子は言った。
「宿題はもうやったの?」
「……まだ」
「お母さんとの約束、覚えてるよね」
「……はい」
「なら電源切るわよ」
「あ、ま、まって! セーブしてないから!」
そう言って時間を引き延ばす気か――という言葉を、何とか喉の奥に引っ込める。
前にも似たようなことがあった。その時は実夏子が無理やり電源コードを引き抜いて、大喧嘩になったのだ。
確かに、やりたい事は自由にやらせてあげたい。
けれど“自由”と“野放図”は全くの別物だ。
将来のためにならないし、何より我儘な性格に育ってしまうかもしれない。
夫に相談したら、理解は示しつつも「やり方がよくない」という。
実夏子がやったのは積み上げ途中のトランプタワーを横から崩してしまったようなもの。息子が怒るのも当然だと言われたのだ。「まぁ最近のゲームは僕らの頃と違って大体オートセーブだけどね」とも笑っていたが。
「……お母さん、台所にいるから、ちゃんと終わらせなさいね」
「はーい」
時々、実夏子はこう思うのだ。
子どもの将来のため、とは言うけれど。
その実、浅ましい嫉妬心から叱りつけているだけなのではないか、と。
だって、自分が子どもだった時は、そんな風に好きなことなんて出来なかった。
ずるい、妬ましい、不公平だ――そんなわけがないのに、つい考えてしまう。
普通の家庭で育たなかった自分が、親になる資格なんてあるのだろうかと。
(……笑顔。笑顔よ、実夏子)
果たして今、自分は笑えているだろうか。
棚を開け、食材をしまう、その動作に一々感情が漏れてやしないだろうか。
自問自答しながら、リビングの方を覗き見る。
そこではまだ伸児がコントローラーを手にテレビと向き合っていた。
実夏子は、自身でも体温がかっと上がるのが分かった。
「伸――――」
怒鳴るように名前を叫ぼうとした、その時。
画面いっぱいに表示された「GAME OVER」の文字が目に飛び込んできた。
「またまけちゃったぁ……」
さすがの実夏子でも、ゲームオーバーが何を意味するかは知っている。
これで今日のところはゲームを止めるだろう。
そう胸を撫で下ろしながらも、一つの疑問が頭によぎった。
(あのゲーム、そんなに難しいのかしら)
伸児はまだ小学二年生だ。しかし、親の贔屓目かもしれないが利発な子である。
実夏子からしてみればたかがゲームに苦戦するなんて、という思いが強い。
前はゲームのことをよく知らないから喧嘩になってしまったが。
歩み寄る気持ちと、少しの興味から、思わず実夏子は聞いていた。
「それ、どんなゲームなの?」
「えっ?」
振り返った伸児の顔はぽかんとしていた。
「う、うんとね、作ったキャラクターでパーティーをつくって、ぼうけんするの」
「冒険? どんなところを?」
「あのねあのね、めいきゅう、っていうんだけど――」
自分が好きなものを親に説明するのが嬉しいのだろう。
伸児の口調はたどたどしいながらも熱が籠っている。
微笑ましいような、自分の子供時代を思い出し、胸が締め付けられるような。
――ああ、この子はそういえば、こんな風に笑うんだった。
そんなことを思いながら、辛抱強く話を聞いたところ、伸児が遊んでいるのは、冒険者を作成して部隊を編成し、迷宮の最奥を目指すRPGであることが分かった。
少し前なら、実夏子には何のことやらさっぱり分からなかったろう。
けれど探索者協会での職務経験が、思わぬところで発揮された。
職場――ダンジョンのそれに当てはめて、何となく理解することが出来たのだ。
「みてみてっ、これがぼくのパーティーだよ!」
一通りの説明を終えた伸児が、嬉々として画面を切り替える。
「この子がアーチャーでね、この子がソーサラーでね、この子はネクロマンサーなんだよ! あとクレリックの人と、ガンナー! とってもつよそうでしょ!」
「ええ、そうね…………?」
息子謹製の冒険者たち。
そこに表示されたメンバーを初めはあまり分からないなりに、ぼんやりと見ていた実夏子は、ふと胸中で首を傾げた。
(……何かひっかかる、ような)
アーチャーは現実のダンジョンで言うところの〈弓士〉だろう。一部当てはめられないものもあるが、直訳すれば大体何のことかは分かる。
だとすれば。
――前衛と後衛のバランスが大事なんですよ。つなぎなし、お肉100%の……。
不意に呼び起こされた言葉。
配信台を見ていた同僚が、したり顔で語っていた理論。
それに照らし合わせてみれば、このパーティーはとても歪と言えないか。
「でも、ちっともボスがたおせないんだぁ」
コントローラーを投げ出して、伸児が口を尖らせる。
「――もしかして、バランスが悪いんじゃないかしら」
気がつけば、実夏子はそう口にしていた。
「え? そんなことないよっ、ちゃんと『かいふくやく』も入れてるもん!」
「うーん、なんて言ったらいいのかしら……」
前衛だの、後衛だのといった言葉は小難しい。
何かに喩えるのが一番だが、さて何に喩えたものか。
少し考えて、伸児がゲームに熱中しだす前は、サッカーに夢中だったことを思い出した。今でも夫と一緒にテレビ観戦しているところを見かけるくらいだ。
「たとえばサッカーでFWしかいないチームがあったら、どう思う?」
「えー? そんなの、へんだよ」
「どうして?」
「だって……ぬかれたら、まもる人がいないもん」
「そうね。守る人は大事。お母さんが言いたいのもそれと同じよ」
話していると、実夏子自身、漠然とした感覚が地に足ついてきた。
将棋でもチェスでも何だってそうだ。一つのコマだけじゃ戦えない。それぞれの役割を持つ者たちが結束して、はじめて強敵を打ち破る。
「このパーティーは攻める人ばっかりじゃない?」
「うん」
「じゃあ、どうしたらいいのかしら」
「……パラディンを入れる?」
「それって、どんな人?」
「うんとね――」
それから火力偏重パーティーの大改造が始まった。
このゲームは控えにいるメンバーにも経験値が入るタイプの作品だ。伸児が初期に作ってお蔵入りにしていたベンチのキャラクターたちも、画面外ですくすくと育っていた。
ゆえにメンバー入れ替えが容易だったこともあり、実夏子は装備やスキルといったゲーム的知識を息子から教えられながら、パーティー編成に口を出す。ゲームというものを知らなかっただけで、仕組みさえ分かれば計算式と同じだ。
「やった! かったー!」
「……まぁこんなものね」
ともすれば「ママはあんまりしゃべんないで!」とまで言われるほど熱心に監督した結果、生まれ変わった伸児のパーティーは難関を突破。迷宮の更に奥深くへ進むことが出来るようになったのだが。
(最近のゲームってこんなに難しいのね……。毒ダメージ? っていうのかしら、痛すぎない?! ちゃんと対策しなさいってことなんでしょうけど――――あ!)
妙な達成感に満たされていた実夏子は、ふと時計の針を見て立ち上がった。
「嘘、もうこんな時間!?」
親子の仲が少しだけ修復された、その代償に。
その日、胡条家の晩御飯はレトルトカレーになったという……。
この日を境に、実夏子にとってゲームは“よく分からないもの”から“ちょっとだけ分かるもの”に変化した。相変わらず伸児が没頭しすぎれば口酸っぱく注意するのは変わらないものの、時々口を挟んだり、夫と一緒に遊ぶようにもなった。
――伸児くんちのママはゲームが上手いらしい。
そんな噂が学校で流れ、胡条家に遊びに来たスマッシュなブラザーズを、実夏子が困り顔で蹴散らすようになるのは、また別の話。




