魂の一杯(招福軒・大将)
時代に取り残され、寂れていくばかりの商店街。
その一角でラーメン屋を営む「招福軒」の大将は、一人塞ぎ込んでいた。
近頃彼の店に訪れるのは、片手で数えられるだけの客か猫ぐらいであるからだ。
大将が店を構えた当初は、まだ通りに活気があった。毎日近所の家族連れや常連客で賑わい、小ぢんまりとした店舗は常に笑顔で溢れていた。それが年々少なくなっていき、ある時からぱったりと客足が途絶えてしまった。
原因は分かっている。
人口流出と大型施設の台頭――ではない。
質の悪い地上げ屋による仕業だった。
地域一帯の再開発計画。ベッドタウンの需要を見込まれ、あちこちで交渉が始まる中、目の上のたんこぶになったのが、大将たちが居を構える商店街だった。開発計画が始まった当初、まだ半数ぐらいは開いていた店がどんどんシャッターを下ろし、商店街は急速に寂れていった。
これも時代の流れか。そう思いながらも経営を続ける店主たち。
彼らを次に襲ったのは巧妙な嫌がらせの数々だった。
質の悪いストリートダンサーやスケートボーダーなど、それまで一度も見かけたことがなかった人種が突然押し寄せ、通行の邪魔や買い物客に絡むようになったり、深夜も爆音で暴れるバイクが横行するようになったのだ。
治安の悪化により、ただでえ少なかった客足はさらに離れていった。
『シゲさん、もう無理だよ。これ以上は続けられない』
『ナベさん……』
『俺ぁ施設に移ることにしたんだ。息子夫婦に迷惑もかけられないしな。シゲさんもあんまり意地、張りすぎるんじゃねぇぞ』
警察は大して役に立たなかった。
最初は負けてたまるかと奮闘していた店主たちも一人、また一人と商店街を去っていき、気がつけば大将のラーメン屋はシャッター街にぽつんと浮かぶ孤島になっていた。
嫌がらせは枚挙に暇がなく、「招福軒」のレビューはどこを見ても最低点だ。今更新規の客が来ると思っていないが、あまりの徹底ぶりに感心してしまう。
それに大将はこの頃、身体の衰えを感じていた。
まず腕が上がらない。慢性的な腰痛や頭痛はしょっちゅうで、一日立っているのもキツい。気がつけば腰を下ろすことが増えていく。
作れば作るだけ赤字になり、丹精込めたスープを廃棄する度、彼は涙を堪えていた。
もうかつての客はほとんど来ないのに、何をやっているのだろう。
それでも、まだ僅かに来てくれる常連やかつての笑顔を活力にして、気力だけで厨房に立ち続ける日々。
――ここらが潮時か。
そんなことを思いながら、今日も表に暖簾を出す。
そんなある日のことだった。
彼の店に突然『天使』がやってきたのは。
その日も店内は閑古鳥が鳴いていた。
朝から店を開けているにも関わらず、日暮れになってようやく一人客が来る。最近たまに来店してくれる近隣の大学生だ。彼がいつもの座敷席に座ったところで、招かれざる客もやってきた。
「相変わらずシケた店ねぇ」
開口一番、そう喧嘩腰で入って来たのは地上げ屋の女だ。
最近毎日訪れるので、よほど暇なんだろうと大将は思っている。
「いい加減こんな店畳んじまいなさいよ。意地張ってるのはあんただけさ」
「……客じゃないんなら帰んな」
「アッハッハ! こんな寂れた店に客なんて……あら失礼、奥に一人いたのね」
「営業の邪魔だ」
「こーんな星1のとこに来るなんてよっぽどアンテナが低いのねぇ」
「誰のせいだと……」
大将の城「招福軒」に質の悪いレビューが寄せられ始めたのは最近のこと。
誰が犯人かなど考えるまでもなかった。
どうせ何を言ってもこの女には響かないだろう。
けれど自分のラーメンを楽しみに来てくれた客のことを馬鹿にするのだけは、何があっても許せなかった。
訂正させてやる。
喧嘩沙汰で営業停止になったとしても、と大将が腕まくりした時。
「こんにちは。大将さん、やってますか」
鈴の音を転がすような声がした。
「へいらっしゃ――」
長年染みついた経験から咄嗟に挨拶しようとしたところで、固まった。
店の入り口に『天使』が立っていたからだ。
床まで届きそうな銀の髪。形の良い頭の上できらめく小さな王冠。ぞっとするほど整った相貌。琥珀色の瞳は一切濁りがなく、己を映し出している。何より目を引く背中の翼は病的なまでに白かった。
ニュースに疎い大将でも知っている。
世界をダンジョン一色に塗り替えた超常的存在。
迷宮事変の日、初めて見たその姿は今でも脳裏に焼き付いていた。
「二人です。空いてますか?」
「え、あ、ああ……」
「だそうです。ほらフクレ、あそこに座りましょう」
そんな天使さまが慣れた動作でカウンターに腰かける。
「大将さん、濃厚しょうゆ一つお願いします」
注文されれば受けないわけにもいかない。
混乱しながらも、大将はいつも通り自慢の一杯を用意する。
(俺は夢でも見ているのか……? もし不味かったら殺され……)
どんなに思考が乱れていても、身についた技は裏切らない。
気がつけば地上げ屋の女も消えていた。
満足にあがらない腕で苦心して湯切りする。
温めておいた器にスープ、麺、具材を載せていけば完成だ。
「……へいお待ち」
不備はない。それでも天使の前に己が一品を供する際、大将の手が僅かに震える。
果たして、反応やいかに。
(これは……どっちだ?)
器を覗き込む表情は変化が無いようにも、品定めしているようにも見える。
心なしか瞳が輝いている気がするのは願望からか。
「いただきます」
けれどそんな不安は、いざ天使が箸をつけ始めた瞬間に吹き飛んだ。
天使でもちゃんと手を合わせるんだな、と思ったのも束の間、小さい口にするすると麺が吸い込まれていく。れんげも使って一度に複数の味を楽しもうとする手際の良さ。おまけにトッピングとライスまで頼む余裕ぶり。
何よりも頬を赤くして一生懸命食べるその姿は、今まで何度だって見てきた。
一人一人、鮮明に覚えている。
「綺麗に食べてくれてありがとう。美味しかったかい?」
幸せそうにお腹をさする天使に、大将は思わず聞いていた。
「ええ、とっても」
屈託のない笑顔。それは紛れもなく自分が作り出した笑顔だ。
その笑顔に引き出されて、忘れがたい思い出が蘇る。
美味しかった。
ありがとう。
また来るね。
今日もやってる?
そんな言葉が聞きたくて厨房に立ち続けてきた。
今だって――
(……そうだ。一人でもいい。俺のラーメンを食べに来てくれるヤツが一人でもいる限り、止めてなんかやるものか)
身も心も削られ続ける日々。
そのせいで薄れていた大切な初心を、大将は取り戻そうとしていた。
「そんなわけで、これはお礼です」
ふと天使がそう言って、指をぱちんと鳴らす。
いやお礼を言うのはこちらの方だ、と大将が返そうとしたところで、
「ちょっと体を動かしてみてもらえますか」
「お、おお……? 腕が上がる!? 腰が痛くない……!」
先ほどまでがちがちに固まっていた体が嘘みたいに軽くなっていた。
若かりし頃には遠く及ばない。
けれど常にあった体の痛みが吹き飛んでいる。
信じられない現象に唖然としている間に、天使は消え失せていた。
慌てて大将が店から出ると、既に背中が遠くなろうとしている。
夕日が純白の背に降り注ぎ、茜色にきらめく。
思わず見とれそうになる自分を叱咤して、大将は大きく口を開いた。
「またいつでも食べにきてくれ!」
聞こえているのか、いないのか。
そのまま天使は夕闇に溶け、見えなくなる。
それでも大将はしばらく手を振り続けたのであった。
明けて次の日。
心機一転、体も軽くなった大将がいつものように暖簾を出そうとすると、そこには予想外の光景が広がっていた。
「な、なんだこりゃあ!?」
なんと「招福軒」の前に行列が並んでいるではないか。
もしかしてまだ寝ぼけているのかと頬を抓るも、しっかり痛い。
(もしかして昨日言ってたアレの効果か? 嘘だろ……?)
そういえば常連の大学生から、昨日あの後、天使さまから許可をもらったので「招福軒」のレビューを投稿していいか聞かれていた。よく分からないまま二つ返事で許可したものの、まさかこんなことになるなんて。
仕込んだ鍋が足りるだろうか。
一瞬不安になった己を叱咤する。
(お客さんの腹を空かせたまま、帰らせるわけにゃあいかねぇな!)
雨の日も、風の日も。客がいる限り自分は厨房に立つだけだ。
そうして大将の、いつもと少し違う一日が始まった。
――以降、「招福軒」はあの天使さまが立ち寄った店として注目を集める。
嘘か誠か、最初はもの珍しさから訪れる客ばかりだったが、大将の腕に惚れ込みリピーターが増えると、その行列を見込んで商店街でも営業再開する店が増えていき、メディアで取り上げられる事態に。
強引な地上げ事例までもが報道されると、商店街そのものを応援する動きが活発化し、やがて賑わいを取り戻していくのだが……それはまた別のお話。
なお再生の中心となった「招福軒」はいつも混みあって、元の常連でないと予約さえ取れないほどの人気ぶりを誇った。けれどどんなに忙しくても大将が手を抜くことはなかったという。
後に弟子入りした常連客が、どうしてそんなに頑張れるのか聞いた時、大将はこう言った。
「またいつ食べに来ても、恥ずかしくない皿が出せるように。それだけさ」
語る瞳は、カウンターのとある一席を穏やかに見つめていたという……。




