勇者が生まれた日・下(小浪勇)
「はっ……はっ……!」
東京摩天楼、第一層。
薄暗い洞窟型のダンジョンで今、小浪勇は息を切らして走っていた。
「ギャッギャッ!」
その背中を追いかけて、三体のゴブリンがついてきている。
分岐路を進むのはもうこれで何度目か。出口がどこにあるか見当もつかない。
少し開けた空間に出た時、部屋の端に岩が転がっているのに気がついて、勇はその陰に身を隠した。
「ギィ……?」
遅れて広間に入ってきたゴブリンたちが、きょろきょろと辺りを見渡す。
幸い彼らは勇に気がつかず、そのまま奥へ抜けていった。
「……ぶはぁっ」
抑えていた息を吐きだして、荒く呼吸を整える。
挫けそうになりながらも何とかダンジョンに辿り着いた勇。はじめに狙いを定めたのは、一人でふらふらしていたゴブリンだった。
しかし七年ぶりに体を動かしたことや、人型のモンスターを殴ることへの抵抗感から、どうも攻め切ることができず、時間をかけている内に増援が来てしまったのである。
何とか逃げ切ることは出来たものの、すっかり足が震えていた。
(キッツイな……何故か職業も決まらないし……)
事前の説明では、ダンジョンに入れば誰もが職業を決められるという。
だが勇の場合「計測中」と言われたまま続きの言葉が聞こえてこなかった。
それゆえ、どう戦えばいいのか分からなかったというのもある。
(もう帰ろうかな……でも道が分かんないや、はは)
結局まともに戦えず、逃げることしかできなかった。
そんな自分に落ち込んで地面へ体を投げ出す。
と、その時。微かに足音が聞こえてきた。
ゴブリンが戻って来たのか。そう思い岩陰から覗くと、勇と同じ探索者と思しき三人組がこちらへ近づいてくるところだった。
「なんか聞いてたよりずっと余裕っすねー」
「マジそれな! ビビリすぎなんだよアイツら」
三人の内二人は勇と同い年くらいの若い男たちだった。
髪を金と青の派手な色に染めて、探索に来たとは思えないほどラフな格好。
いかにもその辺で拾ったような鉄パイプを持って、談笑しながら歩いている。
「祈ちゃんもそう思うっしょー?」
「……え、あ……はい」
最後の一人は制服に身を包んだ少女だった。
恰好から察するに高校生だろうか。
長い前髪で表情を隠して、男たちの少し後ろをついてきていた。
「テンション低いなー。祈ちゃんの代わりに俺たちが戦ってあげてるんだからさぁ、せめて盛り上げようとか思わないわけ?」
「……すみま、せん」
「チッ」
明らかに異質な三人組だ。取り合わせが合ってなさすぎる。
彼らを見ていると勇はどうしても心がざわつく。
胸を押さえて成り行きを見守っていると、
「……この辺でいいか」
不意に青髪の男が胸につけていたカメラを外し、地面に叩きつけた。
それを見たもう一人の男も同じようにカメラを壊す。
「おっと、ゴブリンに壊されちまった」
「あー俺も壊されちったー」
棒読みでうそぶき、肩を竦める男たち。
「…………え?」
ぽかんと少女が口を開く。岩陰に隠れた勇もまったく同じ気持ちだった。
そんな少女を見て男たちがにやにやと笑う。
「何、してるんですか」
「あ~? まだわかんねぇのかよ」
「祈ちゃんみたいな役立たず、つれてく理由なんて一つしかないっしょ」
少女の顔色が真っ青になる。
彼女は大声を出そうと口を大きく開いたが、体を金髪の男に、口を青髪の男に抑えられ、壁際に押し込まれてしまった。
「んんー……!」
「祈ちゃんさぁ、〈祈祷師〉……だっけ? 一人じゃ戦えないんでしょ? だったらふさわしい『振る舞い』があると思わない?」
「声出すんじゃねぇぞ。大声出したら殺すからな……って、ここじゃ死なねぇんだっけ。じゃ壊しても問題ないか」
「えー、俺の分もちゃんと残しといてくださいよ」
勇の心臓が早鐘を打つ。
ゴブリンに追われていた時よりも早い鼓動でドクドクと脈打っている。
(け、警察! 警察呼ばなきゃ……!)
咄嗟にスマートフォンに手をかけるが圏外の表示。そこでようやくダンジョンの中と外は通信が遮断されていることを思い出す。
つまりこの場に助けは来ない。
(どうする!? 助け、助けないと!)
慌てて岩陰から飛び出そうとする直前で、勇の体は硬直していた。
ゴブリン一匹まともに倒せないのに出ていって何になるのか。
それに過去が冷静に語りかけてくる。
つまらない偽善はやめておけ。どうせ自己満足に終わるだけだ、と。
「んー! ん-……!!」
下を向き、耳をふさぎ、嵐が過ぎ去るのを待てばいい。
この七年間ずっとそうやって生きてきたじゃないか。
同じ間違いを犯すなんて愚の骨頂だ。
所詮他人は他人、助ける価値なんてありはしない――
「ぁ、の……や、め……」
気がつけば、勇は男たちに話しかけていた。
本当は「やめろ」と言いたかったが、上手く声が出なかった。
「は? 誰お前」
「あー……はいはい」
金髪と青髪の男が互いに目配せする。そのまま一人は少女を抑えたまま、金髪だけが勇の方へ歩いてきた。
「たまにいるんすよねー。正義漢っていうの? まぁ……」
とりあえず出てきたはいいものの、何をすればいいか迷っている勇と。
初めから邪魔者を排除するつもりでいた金髪の男とでは、動きが違った。
慣れない動作で木刀を構える勇の腹に、男の拳が突き刺さる。
「雑魚がいきがってんじゃねーよって話」
「うっ」
「邪魔なんだよゴラァ!」
腹を抑え、膝をついて地面へ倒れこんだ勇を、男が何度も踏みつける。
勇はただ頭を抱え、体を丸めて耐えるしかなかった。
「そこで見てなよ、ヒーローくん」
そういって金髪の男は背を向けた。
もう一人の青髪はこちらに目を向けず、少女の服を剝ごうとしている。
(……まぁ、無理だよな)
地に転がったままその光景を眺めるしかない勇の胸に広がったのは、どうせこうなると思っていたという諦観と、一抹の懐かしさだった。
――小浪勇は中学生まで品行方正な優等生だった。
文武両道、友達もたくさんいて、サッカー部のレギュラー。
正に順風満帆。そんな彼の人生に暗雲を落としたのは、高校選びに失敗したことだった。
勇は四人兄弟だ。自分の下に三人弟妹がいる。
だから家計に負担をかけないよう近場の公立校に進学することを選んだ。
友達はみんな私立や少し遠くとも進学校を選ぶ中、自分ならどこでもやっていけるという自信があった。しかし勇は知らなかったのだ。世の中には「会話が通じない」人間もいるということに。
進学先は当時の勇の偏差値から見てかなり下の学校だった。
話が合う人間もなく、孤独な学生生活がスタートを切った。
周囲の環境に腐らず、自学自習していける向上心が勇にはあったから、そんな学校でも苦労しながら勉学に励もうとした、そんな折。
彼のクラスでいじめ事件が起きた。
標的となった女生徒へのいじめは、無視や持ち物が無くされるといった軽いものから、机が汚される、個人情報をばらまかれる、水をかけられるといったものに段々エスカレートしていき、それまで真っすぐな人生を歩んできた勇の義侠心に火をつけた。
彼は犯人探しに精を出し、それを白日の下にさらけ出すことに成功した。
そして、勇へのいじめが始まった。
恰好つけだとか、ヒーロー気取りだとか、いろいろ理由をつけられて。
けれど勇は安堵した。
標的が自分に移れば女生徒へのいじめは止むだろう。
それに自分なら耐えられる。だって正しいことをしたのだから。
実際それから勇は己に対するいじめに全て反発した。
机にラクガキがあれば担任に直談判して学級会を開き、持ち物が無くなれば警察に相談した。殴られれば殴り返したし、複数人に囲まれた時も耐えて耐えて耐え忍び、後で一人ずつお返しをしてやった。
負けてたまるかという意地と。
何より自分は『正義』の人間なんだという屋台骨が彼を支えていたのである。
しかし――
『紗亜矢、あんなに頑張ってるんだから小浪くんと付き合ってあげたら?』
『知らないわよ。アイツが勝手にやったことでしょ』
『ひっど~。元はと言えばアンタが瑠樹の男取ったのが悪いのに』
『そうだっけ? もう忘れたわ、アハハ』
――その大前提が崩れたとしたら。
『キモ、勘違い男。誰が助けてなんていったのよ。ヒーローごっこもほどほどにしといたらぁ?』
助けたはずの相手まで、自分を攻撃してきたら。
きっかけは相手が悪かったとしても、いじめはいじめだ。
自分は一人の人間を救ったんだ。
けれどその救った人間が、広がるいじめの輪の中で、醜悪な顔を見せてきたら?
勇は抵抗する気力を失った。
自分が英雄気取りの痛い人間だと思い知らされ、常に嘲笑が聞こえるようになった。
そして、外へ出られなくなった。
――今も同じだ。
英雄気取りで出ていって、殴られたまま地に伏せている。
変わろうと思うのが烏滸がましかったのだ。
「へっへ、手こずらせやがって」
「俺こっち使わせてくださいよー」
他人を救うことが出来るのは選ばれた人間だけだ。
資格もないのに手を伸ばせば、自分を傷つけることになるのだから。
ただ動かず、じっとしていればいい。
薄闇の中、少女は地面に押し倒されていた。
汗で張り付き乱れた髪。その隙間に覗く瞳から涙が零れ落ちようとしている。
事に至るため男の手が少女の口から離れた、刹那。
「だれ、か……助けて……」
――勇は立ち上がっていた。
寸分のためらいもなく、木刀を支えに立ち上がっていた。
何かを考えてのことではない。それはほとんど反射だった。
「あん? チッ、またかよ。俺は先に楽しんどくから片付けとけや」
「えー、ずりぃっすよ! はぁ……しゃーねーか」
勇は黙って木刀を構える。
そこにへらへらと近づいてくる金髪の男。
さっきと同じ構図だが、今度は相手が武器を持っていた。
「だりーから死んどけな、マジ」
彼我の距離があと十歩、というところで男が大きく踏み込んだ。
勇の頭めがけて鉄パイプが唸りを上げる。
対して、勇は木刀を真っすぐ上から下に振り下ろしていた。
「は――ぶぇ!?」
間の抜けた声を上げて、金髪男が吹き飛ばされる。その手から弾き飛ばされた鉄パイプが、遅れて乾いた音を鳴らした。
カラァン……という金属音。
青髪の男が少女から目を離してそちらを見やると、仲間が昏倒していた。
「あぁ!?」
男は四つん這いのまま、慌てて後ろを振り返る。
そこには再び構えを取る勇の姿があった。
何故かその手に持つ木刀がほんのり光って、赤く輝いている。
「くそっ、しくじりやがったな!」
ぎゅっと地面を握りしめた後、青髪の男が体を起こす。
取るものも取りあえず駆けてくる男を迎え撃つべく、勇が前のめりになった瞬間、
「これでも喰らえッ」
男の手から砂粒が放たれた。
先ほど起き上がる際に握りこんでいたものだろう。
まったく予想していなかった目つぶしを受け、勇が踏鞴を踏む。
「っ……!」
「へっ馬鹿が! オラァ!」
「かはっ――」
しっかりと体重の乗った拳が勇の鳩尾に吸い込まれる。
たまらず吐き出された呼気に、にやりと笑う男。
だが勇は衝撃の中、薄目を開けて相手をしっかりと見定めていた。
後ろへ倒れるように見せかけ、体を回転させた一撃を放つ。
「――ぅ、らああああああッ!」
「がひゅ!?」
木刀が赤い軌跡を描き、男の首に吸い込まれた。
奇声を上げた男は白目を向いて、二三歩後ろへ下がるような動きを見せる。だがその足搔きも束の間、ポリゴンエフェクトを弾けさせ、消えていった。
(勝っ、た?)
訪れる静寂。
緊張の糸が切れ、脱力する勇に。
――ピロン。
ふと、電子音が聞こえた。
『計測が完了しました。あなたの職業は〈見習い勇者〉です』
「……!?」
鈴の音を転がしたような声。
どこかで聞いた気がするその声の主を追って首を巡らせるも、それらしい人影は見当たらなかった。
(俺が、勇者? そんなわけ……いや今はそれよりも……)
襲われていた少女が衣服の乱れを直して、こちらへ歩み寄ってくる。
足を痛めたのかその動きはどこかぎこちなかった。
「あの……ありがとう、ございました」
「……ぃや」
「怪我、私の、せいで」
「ぇ……ぁ……」
ぽろぽろと涙を流す少女。先ほどまでの恐怖と、安堵と、そして申し訳なさが綯い交ぜになっているのだろう。
勇はどうしていいか分からずオロオロしてしまった。
(こういう時は、こういう時は、ええっと……)
先ほどまでの戦いよりも、よっぽど頭を回転させて正解を探す。
七年という時間は勇からコミュニケーション能力を奪って余りあった。
「だ、だい……じょうぶ」
悩んだ結果、勇は笑った。
もしかしたらまた裏切られるかもしれない。
けれどこの瞬間だけは、間違いなく救うことが出来た少女を安心させるため。
「俺、痛みには強いから」
にへらっと笑って、そう返すのだった。
――職業〈見習い勇者〉は、勇気を持つ者がなれる職だ。
けれど勇気の大きさはその選定にまったく関係がない。
必要なのは、他者のために勇気を振り絞ることが出来るか否か。
それが出来る者の上に〈勇者〉の冠は光り輝く。
たとえ小さな勇気でも、いやむしろ小さいからこそ、頼りないその火を燃やして立ち向かえる者だけが〈勇者〉に選ばれる。
〈勇者〉が最初に覚える基本スキル【心火点燈】。
その効果は勇気を力に変えること。
未だレベル0の勇がそのスキルを発動したのは、偶然でも奇跡でもなかった。
――とある天使が巻き起こした騒動は波紋のように広がっていく。
世界が変わるか、自分を変えるか。
世界がファンタジーに変わっていく中で、それに突き動かされて、青年もまた変わろうとしていた。見習いだろうと、英雄に。




