1. 三回目のデート
洸暉くんの真剣な横顔をじっと見つめていたら、不意にこっちを向かれて目が合った。
「ん?何見てんの?」
爽やかな笑顔に、胸がきゅんとする。
「……ちゃんと前見て!運転に集中してくださいっ!」
照れ隠しについ大きな声を出してしまう。
はいはい、と言いながら余裕のある笑みを口元に浮かべる洸暉くんに、あたしはまた見惚れてしまう。
目的地までは三時間もかかったけど、びっくりするくらい一瞬に感じられた。
その横顔を見ていられるだけで十分幸せなのに、友達のバカ話とかで笑わせてくれたり、しりとりをしたり、楽しくて仕方がなかった。
無事に辿り着いたのは、県外の大きな花火大会。有名で、一度行ってみたいとずっと思っていた。勇気を出して誘ったら、洸暉くんは張り切って車を出すと言ってくれた。
大学の友達はほとんど免許を持っているけど、あたしはまだ教習所にすら通っていない。だから運転できる人って、すごくカッコイイと思う。
「運転お疲れ様っ!」
「うぃー。それよりお腹空いた、なんか食おうか」
「うん!」
花火大会の会場の近くにあるショッピングセンターに車を停めて、人混みの中を歩いていく。
浴衣を着ている女の子がちらほら目に入る。
あたしは浴衣を着てこなかった。代わりに、今日のために買ったワンピースを着てきた。水色の、ノースリーブに膝上の丈。ママに借りたネックレスと香水で色付けして、今日のあたしは一段と可愛いはず。
出店が立ち並ぶ河川敷を、洸暉くんの後ろをついて歩いていく。
人が多いせいではぐれそうになり、たまに少し距離が空いて、その度にあたしは追いかけ、彼は振り返って待ってくれる。
それがもどかしくて、あたしは勇気を出すことにした。
触れて握った、彼の大きな手はとても温かかった。
洸暉くんは一瞬驚いた顔をしたけど、すぐに優しく微笑んでぎゅっと握り返してくれた。
頭ひとつ分大きい洸暉くんを見上げて、あたしは今世界で一番幸せ者だと思った。
「将来さぁ、子供何人欲しい?」
「えっ!?」
レジャーシートを敷いて、洸暉くんが買ってくれたチーズハットグを一緒に食べていたら不意にそう聞かれ、思わず吹き出しそうになってしまった。
「こ、子供?」
だってあたし達、まだ付き合ってもいないのに。気が早すぎるよ洸暉くん……!
「ふ、二人は欲しいかな?」
「二人かぁ。俺は三人は欲しいんだよなぁ。自分が三人兄弟だから」
「三人かぁ。へー、いいね!」
「うん。俺、男三兄弟の末っ子だから。同じように男三兄弟が理想だな〜」
「ふふっ、賑やかそうだね」
「めっちゃ仲良いよ、うちの家族。写真見る?」
「見る!」
なんだかプロポーズされたような気分だ。
あなたの子供なら、三人でも四人でも産みたいよ。
洸暉くんは嬉しそうに、家族の写真を見せてくれる。仲良さげで、幸せそうな、とてもいい写真だった。
あたしもいつかこの中に混じれたら……なんて期待をしてしまう。
二人のお兄さんは、よく日に灼けてキリッとした男前な感じの洸暉くんとはあまり似ていなかった。
「洸暉くんが一番カッコイイな」
口が勝手にそう言っていた。気付いたときにはもう遅くて、顔がどんどん熱くなっていく。
そんなあたしに洸暉くんは「だろ?」と得意げに笑った。
あぁ、好き……!
彼への好きが溢れて止まらない。
共通の友人、陽介によれば、今日くらいに告白してくるだろうということだった。
ずっとあたしの恋バナを聞いてくれている同じ大学の陽介は、洸暉くんと同じサッカー部。
食堂で見かけた洸暉くんにあたしが一目惚れして、それを言ったら陽介が紹介してくれたのだ。
だから洸暉くんがするあたしの話も聞いているはずで、今日告白されるのはほぼ間違いないと信じたい。
あたし、ついに洸暉くんと結ばれてしまうの?さっきからにやけてしょうがない。
付き合って、結婚して、彼の子供を産んで、いつかこの瞬間を思い出して余韻に浸ったりするのだろうか。
もうあたしの中では妄想ストーリーが暴走している。
やがて始まった花火は、想像以上に綺麗だった。
暗い夜空にこれでもかというほど全面に咲き乱れる、赤や黄、白やオレンジの花火は本当に美しくて、さすが有名な大会だ。遠かったけどここまで来てよかったと思った。
「……今まで見た花火の中でナンバーワンだわ」
花火を見上げながら、洸暉くんが呟いた。
「あたしも……!」
本当に、心の底から、今日の花火が今までの人生で一番綺麗だと言える。そしてこれからも、こんなに綺麗な花火を見ることはないだろう。
だって今あたしの隣には、洸暉くんがいるから。
視界全体にぶわあっと広がり、ゆっくり雪崩れるフィナーレに心を奪われ、洸暉くんの息を呑む音が聞こえ、最後の火花が消えてしまった後にあたしは目を閉じた。
この瞬間を噛み締めるように、刻み込むように。
再び歩く人混みの中、当たり前のように彼の方から手を繋いでくれた。きゅん、きゅん、きゅん……!
飛び跳ねたいくらいに嬉しくて、幸せだった。
なかなか進まないけれど、もういっそのことずっと止まっててもいいとすら思えてしまう。
だけどなんとか駐車場まで辿り着いて、再び車に乗った。
「さ、帰るか!」
「うん!」
帰りたくない、二人でどこかへ行きたい。そう言ってしまいそうなのをぐっと堪える。
陽介を信じて、この帰り道どこかしらのタイミングで告白されることを期待する。想像しただけでドキドキするし、わくわくする。
早く付き合いたいよ……!
思っていた以上に帰りの渋滞はひどくて、車の中であたし達はまた二人きりの時間を楽しんだ。
「この曲知ってる?」
「知らない」
「めっちゃ良いよ」
彼が流してくれた、知らないラッパーの知らない曲を、あたしはすかさず自分のスマホにダウンロードする。
他にも教えてと言い、教えてくれる全ての曲をしっかりダウンロードした。
家に帰ったら、ゆっくり全部聴こう。ていうか今日、本当にこのまま帰っちゃうのかな?
朝まで一緒にいたいけど、まだ気が早いよね。でももし告白されたら恋人同士になるわけだから、それなら良いかな?
なんて一人で考えていた、その時だった。
洸暉くんの好きなHIPHOPらしき賑やかな曲が終わり、次の曲へと切り替わる。そのわずか一秒の間。
「ぷぅぅ……?」
タイミングを待ち構えていたように、やけに高めな音が鳴った。
どんなかんじ……?と、あたし達の関係に質問しているみたいな愚かな音。
それは間違いなく、あたしの肛門から出たあたしのおならだった。
自分で出しておきながら、まず頭が真っ白になった。
そしてようやく理解できたときには最悪な気分。嘘、嘘だよね?何かの聞き間違いだよね?
おなら?いや、まさか。こんな大事な時に、こんなおかしな音出るなんてありえない。
やがてすぐに次のHIPHOPが流れたけど、二人きりの静まった車内で、今の音が洸暉くんに聞こえなかったはずがない。
「え、まさか今おならした?」と笑いながらいじってくれれば、どれだけ救われただろう。
「あ、この曲もめっちゃ良いよ!」
どことなく気を遣っているような妙に明るい彼の声に、死にたくなった。
「へぇ!なんて曲?これもダウンロードしよっと!」
必死に感情を押し殺して無理矢理だした自分の声が、我ながらかなり痛々しい。
全てを悟ったあたしの頭の中では、今日一日の流れと、これまでの彼との思い出が走馬灯のように流れていた。
優しくて、カッコよくて、キラキラしている洸暉くん。そんな彼に恋する、楽しくて、でもたまに切ない、今までとは違うあたし。彼を好きな自分のことを好きだと思えるくらい、完璧で綺麗な恋だった。
家に着く頃には、きっと付き合えていた、はずだった。
けれどこれが女の勘というやつか。もうあたしと彼が付き合うことは絶対にないということを確信した。
おちゃらけなタイプの彼がいじってこず、逆に変に気を遣ってくれていることに、悲しかなあたし達の距離を思い知った。
決しておならで笑い合えるような恋人同士にはなれない。そう言われたような気がした。
やっと渋滞は動き出して、洸暉くんが走らせる車は高速道路に乗った。
しかしこれからまた三時間、地獄のような時間を過ごさなければならないと思うと吐き気がする。
行きはあんなに幸せの絶頂にいたのに。あのおならさえなければ、全てが完璧だったのに。
悔しくて悔しくて、時間って巻き戻させないのかな?なんて馬鹿なことを真剣に考えてしまう。
見事に打ち砕かれた、あたしの恋。
彼からの告白はもう絶対にないだろうから、いっそのこと自分の方から思いを告げてみようか、なんてことも思い付いたけど「おならした後に告白されてさすがに焦ったわ〜」なんて友達同士でネタにされそうですぐにやめておいた。
「でさぁ、その時一人の奴がやばいって言い出して、そうしたら本当に女の影があって!俺達もマジで怖くなってきて、もうさすがに帰ろうかって話になって、そしたら今度は俺達にもはっきりと声が聞こえて……」
運転しながら真剣に語ってくれているのは、地元の仲良しグループで廃墟の学校に行ったときの怪談話だ。
しかし全然内容が頭に入ってこない。あたしはずっと、さっきのおならを引きずっている。
幽霊よりも何よりも、あの時あの瞬間におならをしてした自分が一番怖い。
帰り道はサービスエリアのフードコートで晩ご飯を食べた。
洸暉くんはあたしにうどんを奢ってくれたけど、もう最後のお情けにしか思えなかった。
おならで全てが台無しになったあたしは、もうこのデートを楽しむ気すら起きなくて、彼の話に適当に相槌を打ちながら一人で静かに失恋していた。
なんやかんやであたしのマンションの前に到着し、やっとこの地獄の時間から解放された。
車から降りるとき、告白されるかもしれないなんていう期待はもう完全に消えていたし、実際本当に告白されなかった。
「またな!ありがとう、楽しかったわ!」
ニカっと白い歯を見せてお世辞を言ってくれる洸暉くんに、精一杯の作り笑いで「あたしも!本当にありがとう!」と返した。
ハグもキスもしなかった。人混みの中で手を繋いだのがあたし達のマックス、いやクライマックスだった。
遠ざかる車が角を曲がって見えなくなるまで、あたしはずっと目をそらさなかった。
ありがとう、洸暉くん。
ひと夏の思い出を、短い青春を、ありがとう。本当は一生忘れたくないけれど、できれば今すぐにでも全部忘れたいよ。
複雑すぎてこんなに涙が溢れてくるのも、何もかもあのおならのせいだ。
あの一発のおならのせいで、あたしの大きな恋は儚く散った。
自分の部屋に戻り、電気も点けないままベッドにダイブした。
涙が止まったと同時に強い睡魔が襲ってきて、起きたら全部夢だったらいいのに、また今日の朝に戻ってやり直せたらいいのにと願いながら眠りに落ちた。
**
陽介の笑いはいつまでも止まらなかった。
「あのさぁ、いい加減しつこいよ」
最近ようやく飲めるようになったビールを煽り、あたしは彼を睨んだ。
思えばこうして二人で飲むのは初めてだ。
これが大人のよく言う“ヤケ酒”というやつだろうか。今日はあたしの失恋話を聞いてもらうため、大学の講義終わりに居酒屋へ来た。
「いや、花恋、おならって……しかもそのタイミングで……ははははは!面白すぎるだろお前」
「ちょっと、本当に怒るよ!こっちはマジで落ち込んでるっていうのに!」
「わかってるよ、ごめんごめん。……あっははははは!」
あたしはため息を吐いて、このど失礼野郎を睨んだ。
そして一口、また一口とビールを飲む。うん、この喉ごしが良いな。まだちょっと苦いけど。
それにしても、もうかれこれ一時間以上笑い続けているこの男はどうにかならないのだろうか。
「ねぇ、笑いすぎ!……っていうか、洸暉くん、あれからあたしなことなんか言ってた?それがずっと聞きたかったの」
「え?あぁ」
真剣な話をするためにこうして会っているのに、ずっと爆笑してやがるからまともに会話ができていなかった。
「そうそう、言わなきゃと思ってて」
「うん」
目尻に流れた笑い涙を拭い、ようやく陽介の声のトーンが通常時に戻った。
ビールをごくごく飲んでから、彼は言った。
「洸暉、おならの話なんて全くしてこなかったよ。ただ、もう花恋を狙うのはやめようって」
「……へ?」
おならをネタにされて笑われてなんていなかった。そしてやっぱりあたしはちゃんと狙われていた。そして、狙うのをやめられた。
あたしにとって大きすぎる情報だった。
「なんかさ、花火見てるときとかはめっちゃ良い感じだったらしいんだけど、帰り道の途中から花恋が全然喋らなくなってテンション低くて、これ無理だって思ったらしい」
「……な、な、な……なんてこと……」
それはつまり、あたしが自分のしたおならを気にするがあまり面白くない態度になってしまい、洸暉くんはあたしを狙うのをやめたということ……?
「こんなことってあるのでしょうか、神様?」
「だははっ、俺神様じゃねぇし!」
他人事だと思ってまた爆笑し始める陽介に、もう腹も立たない。
「まぁ、あれだな。洸暉が花恋のおならに気付いたかどうかは別として、狙うのをやめた理由はおならではないってことだな。多分」
「そんな、うそだぁ……」
ぷぅぅ……?というあの音のせいで、あたしは一人悩み、苦しみ、泣いた。そして彼とあたしが実ることはなくなった。しかも本当の原因はおならではなく、あたし自身だったと……?
「まぁまぁ、そう落ち込むなって!もしかしたら本当の本当の理由は、やっぱりおならかもしれないし!」
「うん、それもありえる。陽介には建前上そう言っているだけで、実は本当におならで冷めたとか」
「ないとは言い切れない」
「あああぁぁぁ……!」
テーブルに突っ伏し、頭を抱え、あたしは悶える。
「まぁ、それも人生だ」
陽介の手があたしの頭にぽんと置かれる。顔を上げると、くしゃくしゃでいたずらな笑顔があった。
「次の恋を見つけるべし」
にかっと白い歯を見せて「今日は飲もうぜ」とあたしの手元にあるジョッキを近付けてくる。
「新しい恋、ねぇ……」
もう飲めると思っていたのに、やっぱりビールはまだ苦い気がした。
あれから、洸暉くんからLINEはきていない。それが全ての答えだろう。
今はとりあえず、馬鹿にしつつもこうして一緒にお酒を飲んでくれる目の前の男友達を大切にしよう。
また新しい恋ができますように。
次は、たった一度のおならでこんなに悩まないような、安心できる恋がいいな。あたしのおならなんて、笑って吹き飛ばしてくれるような人……。
それが目の前にいる彼だとあたしが気付いたのは、もっとずっと後になってからのお話。
Fin.
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