白い結婚のはずが!?
アレックスは気が重かった。自分はこれから大事にしなければならない人を傷付ける。
多くの人々に祝福された日だというのに、アレックスの足取りは重く、溜め息も長くなる。今日はアレックスの結婚式だった。もう夜の帳がおり、あとは寝室で休むだけだ。
だが、アレックスの気はまだ休まらない。なぜなら、寝室では妻が待ち受けている。きっと初夜の支度をして。
ギャルブレイス侯爵家の嫡子であるアレックス。他に兄弟もいないため、後継争いなどなく順当に家督を継いだ。騎士団で若くして一部隊の副隊長を務めていることもあり、十九で侯爵となった。以前から侯爵家の業務は、ほとんどアレックスに任されていたため引継ぎに手間取ることもなかった。
家督を継いだため、結婚は必要な課程だった。妻は伯爵家の令嬢で、家柄も申し分ない。
そう、申し分のない人物なのだ。だからこそ、告げなければならない事実が辛い。
避けては通れぬと解っていながら、アレックスは翌日に持ち越しできないかと逃げの思考でいた。女性の涙をみるのは苦手なのだ。
どんなに重い足取りであっても、進んでいる以上目的地にはいつかは着いてしまう。とうとう眼前に現れた寝室のドアに、アレックスはこくんと唾をのむ。結婚の宣誓をするときより緊張していた。
ドアをノックすると、中から返事が返る。それを確認して、アレックスは寝室に入った。
夫婦の寝室には、妻となったブレアがベッドの縁に座っていた。妻の寝間着姿にアレックスはほっと安堵する。膝下まであるワンピースのようなネグリジェだ。特に透けてもいない。際どい攻めた下着のようなものだったらどうしようかと思っていたのだ。慎ましい妻で助かった。
「先に休んでいてよかったのに」
「あなたの方が疲れているのに、私だけ先に休むなんてできませんわ」
こちらを気遣ってくれる妻。挨拶周りのとき、重要な相手と挨拶をしたあとは疲れているだろうと妻を先にさがらせたのだ。ドレスで着飾り、大衆の前にいては食事もままならないだろうと思ってのことだ。きっと朝から時間をかけて身支度をし、最低限の食事しかできていないことだろう。そんな妻を思えば、残りの挨拶周りを一人でするなど容易いことだ。
結婚式の披露宴では目の前に食事があっても、招待客の歓待に終始し、新郎新婦はほとんど手を付けられない。だから、食事がとれたか確認すると、充分にとれたと返り、アレックスは安堵する。
「あんなに美味しそうな料理が前にあるのに、手を付けられないなんて地獄だっただろう」
「ふふっ、そんなに空腹でいらしたんですね。アレックス様こそちゃんと食事されたのですか?」
「もちろん。僕は早食いが得意なんだ」
「あら、よく噛んで食べないといけませんわ」
身体が資本の騎士団に所属しているのだ。食事は欠かさない。そう主張したかったのに、注意されてしまい拗ねるとブレアはころころと鈴を転がすように笑った。その仕草ひとつをとっても可憐だ。
「ありがとうございます」
「ん?」
唐突に礼を述べられ、アレックスは首を傾げる。
「私の緊張をほぐそうとしてくださったのでしょう?」
「いや、それ、は……」
これからのことに妻が緊張している可能性はあった。けれど、アレックスはそれ以上に緊張していたので、そこまでの配慮ができていない。本当にただブレアが心配だっただけだ。
言葉が泳ぎそうになるのを堪え、アレックスは意を決して伝える。妻の想定していることは起こらないのだと。
「ブレア」
「はい」
「誓いを交わし、君はギャルブレイス家の者となった。すでに家族となった君に、僕は誠実でありたい」
「そう言っていただけ、嬉しいですわ」
喜ぶブレアの微笑みに胸が痛くなる。自然とアレックスの眉が寄った。
「君を大事にしたい。それは本心だ。けれど、君をそういう意味で愛することはできない」
アレックスの言葉の意味を、ブレアは咀嚼する。
「夫婦の営みができない、と?」
ゆっくりと、けれど確かにアレックスは肯いた。
「白い結婚となること、本当に申し訳なく思う」
沈痛な面持ちの夫に、ブレアは怒ることも悲しむこともなく、ただ問うた。
「アレックス様は女嫌いでは、と実しやかに噂されてましたが、そのためでしょうか?」
ブレアと婚姻を結ぶまで、アレックスは婚約者ももたず、浮いた話もなかった。整った顔立ちにさらさらの髪、筋肉が付きづらい体質のためすらりとしたシルエットの体躯で、騎士団のなかでは女性受けのよい容姿をしていた。夜会の際に、令嬢から告白されたことは何度もある。しかし、アレックスはどの令嬢も断り謝罪をするばかりだった。泣き落としも色仕掛けも効かないものだから、振られた令嬢たちは女嫌いだからだと納得するようになっていった。
「いや、女性は可愛らしいと思う。嫌ったことはない」
アレックスは女嫌いではない。女性は愛らしい存在だと感じる。ただ求められた形で愛を返せないだけだ。
「もちろんブレア、君にも非はない。僕自身の問題なんだ」
妻のブレアも愛らしい容姿をしている。社交界では人形姫と謳われた妻だ。顔どころか頭が小さく、細い首に華奢な身体。腰まである長い髪はやわらかく、夜会で見かけるたび愛らしさに、アレックスは、かならず一度は見惚れた。華奢すぎて胸元が物足りないという意見も一部の男性にはあり、ブレアは恋慕の対象というより鑑賞用の扱いであった。女性らしい丸みある凹凸が少なかろうと、アレックスは特に気にならない。婚姻相手となり、話すようになって知ったがブレアは理知的で人柄もよい。これまで妻に縁談がなかったことの方が不思議に思うほどだ。
それほどに魅力的な妻をないがしろにするようなことになり、アレックスは良心の呵責に苛まれる。
「理由をお伺いしても……?」
「ああ、君には明かそう」
妻となるブレアに偽ることなどできない。アレックスはシャツのボタンを順番に外し、自身の胸元を晒した。はらりと巻いていた白い布が床に落ちてゆく。
「この通り、僕は、女性を抱くことはできない」
ブレアは晒された夫の肌に小さく瞠目した。夫の胸元にはふくらみがあった。大きくはないが、布で巻いて潰さなければ存在が判る程度には小さくない。
同性相手では子を生すことはできない。必然的に白い結婚になる。
「子どもは養子をとるつもりだ。僕なりに君を大事にしたいが、愛することだけはできない。それをどうか許してほしい」
ギャルブレイス侯爵家には、子どもが一人でアレックスが嫡子になるしかなかった。物心つく前から、アレックスは男として育てられた。幸い、身体を動かすのが好きだったので男として生きる方が性に合っていた。女性特有の腹痛については、胃腸が弱いのだということで騎士団では罷り通った。アレックスの背丈が百七十を超えていて、肩幅もしっかりしていたため、胸さえ潰せば誰も女だと思わない。
愛らしい女性をみるのは好きだが、自分がそうなりたいと羨望を抱くこともなかった。唯一、跡継ぎの問題だけがずっと気がかりだった。
家督を継いだ直後、両親がマキオン伯爵家との婚姻をとりつけたときは、さすがに驚いた。どう説明するつもりなのかと両親を責めたが、二人は明かさなければ気付きようがないと断じた。
これから一生添い遂げる相手に真実を告げずにいるなど、アレックスにはできなかった。家族になるのだから、ブレアには誠実でありたい。たとえ、それで嫌悪されてもいたしかたないと覚悟をしていた。
「ちょうどよいですわ」
詰られるだろうと肚をくくっていたアレックスは、朗らかな声音に俯いていた顔をあげる。しかし、一体何がちょうどいいのか。
訊き返すより前に、手を引かれアレックスはベッドに身を沈める。妻の行動が予測ができないものだったので、強く引かれた訳でもないのに簡単にバランスを崩してしまった。
ブレアの長い髪がベッドに散らばる。その髪の檻に閉じ込められ、ブレアの唇が蠱惑的に曲線を描くのを見上げる。そんな表情もできるのだな、とアレックスは胸中で呟く。
「奇遇ですね。私も、男性に抱かれる趣味はないんです」
見上げる妻が、ネグリジェのリボンを解き、肌を覗かせる。アレックスは白い指が解く仕草に見入ってしまい、つい覗いた肌の部分を注視する。
「……ずいぶん、慎ましやかなんだな」
全体的に華奢だとは思っていたが、妻の胸は想像していたより平らだった。これでは胸筋の分も含めてふくらんでいるアレックスの方が胸囲がある。
思わず零れたアレックスの感想に、ブレアは可笑しげだ。
「あら、下も見せた方がよろしいでしょうか」
ブレアがネグリジェをつまみ、裾を脚の付け根まで引き上げてみせる。どうせあとでみせることになるのだから構わないという妻に、アレックスは動揺する。女性にしては筋張った太股の先が予想できてしまい、これ以上みてはいけない気がした。
「そこまでしなくても大丈夫だ! その、君があまりにも愛らしいからにわかに信じがたいだけで……」
「ありがとうございます。けれど、そうして慌てるアレックス様はとても可愛らしいですよ?」
「かわ……!?」
頬の輪郭をなぞられ、微笑まれる。可愛いなどといわれたのは初めてだ。これまで格好いいと評されるばかりで、女性らしくなるつもりもないため、それでよいと思っていた。しかし、ブレアにそう評されるのは悪い気はしない。むしろ、なんだか頬が熱い。
奇遇にもほどがある。まさか妻も性別を偽っていたとは思わない。
「しかし、君はどうして……?」
「母は娘がほしかったそうなのですが、生まれなかったもので」
マキオン伯爵夫人は、一人は娘がほしいと望んでいた。だが、希望に反して生まれるのは男子ばかり。そのため、跡継ぎにも影響しない三男のブレアを娘として育てることにしたのだ。
愛でれば愛でるだけブレアが愛らしく育つものだから、父親や兄たちも娘、妹として可愛がった。ブレアも可愛らしい装いをすることを好ましく感じ、嫌悪感などなかった。筋肉逞しい体躯の男性を魅力的だと感じるが、憧れはしない。いかに女性らしくなるか、と腐心する方がよほどやり甲斐があり、楽しかった。
気付けば人形姫などと呼ばれるほどに可憐を極めてしまっていた。どうしたって女性らしくなりきれない体躯がかえって人形らしいと、周囲からは異性というより愛玩対象として信仰されたのは幸いだった。同性に迫られるのは、さすがに気分が悪い。
「なるほど?」
経緯を説明され、アレックスはわかるようなわからないような心地だった。他人のことはいえない境遇だが、ブレアの家族もなかなか斜め上の考え方をしている。
ともかく、ブレアも自分と同様に性別を偽っていたと判明した。自分よりずっと、いや女性のなかでも抜きんでて可憐な妻が男性だとは思いもしなかった。
「君も大変?、だったのだな」
「ふふ、楽しく過ごさせていただきましたよ。おかげで、アレックス様が女性だと気付けましたし」
「え」
ぱちくりとアレックスは妻を見返す。明かす前から、自分の本来の性別を知っていたとは寝耳に水だ。
「女性よりも女性らしくなろうとすれば、自然と目が肥えるものです」
「そういうものなのか」
目指すならとことん極めるのがブレアの信条らしい。妻はかなりの努力家なようだ。アレックスは感心してしまう。
「ところで……、そろそろ退いてくれないか」
覆いかぶされた体勢で、アレックスは気まずい。さらに、お互いはだけたままだ。この状態が続くのは、居たたまれない。そう思い提案したのだが、ブレアはきょとりと小首を傾げた。
「どうして?」
「どうしてって」
「初夜ですのに、触れ合わずにどうするのです?」
妻が初夜を決行する気でいると知り、アレックスはぎょっとする。
「白い結婚だと言ったじゃないか!」
「それは同性であれば、でしょう。私とアレックス様なら世継ぎもできます」
「ん? 言われてみれば……?」
思いがけずどちらも本来の性別が外見と逆だった。アレックスが問題視していた点が解消されている。
「はい。私とアレックス様で愛し合っても、何も問題はありません」
ブレアの微笑みに頷きそうになったが、アレックスは別の懸念点に気付いた。眼前に迫る妻を、どうにか押しとどめる。
「も、問題あるだろう……!?」
「どこにです?」
「だって、ほら、僕のようなみてくれじゃ、何の可愛げも……」
「アレックス様は可愛らしいですよ。私のために胸を痛めてくださるところも、初めてお会いしたときから私には可愛らしい女性ですわ」
ブレアのいう初めて、がアレックスにはわからない。というか、初対面から気付かれていたとは。そちらの方が驚きだ。
アレックスに身に覚えのない初対面は、デビュタントのとき。まだヒールのある靴に慣れていなかったブレアは、足首を痛めていた。それでもブレアはたおやかに微笑み続ける。だから、誰も可憐な彼の痛みに気付くことはなかった。そのはずだった――
挨拶を一通り済ませたあと、お嬢さん、と声がかかる。振り向くと、眉を下げた騎士服の青年がいた。いや、背丈はあるがまだ肉付きが未熟だ。よくみるとブレアと年頃は近そうだった。
笑いかけられるばかりのブレアに対して、唯一弱り顔で声をかけてきたのは彼、いや彼女、アレックスだけであった。
そのときアレックスは名乗ることなく、ただ自分の身を案じていた。体幹がぶれているから足を痛めているのではないか、そういってブレアの答えを待つより先に、横抱きにし休憩室のひとつへ運んだ。断りをいれながらも自然に足首に触れる様子に、名も知らぬ相手が女性だとブレアは気付く。触れ方に微塵も下心がなかった。同世代でそのような清廉潔白さを感じるということは、相手が同性に触れていると思っているからに他ならない。
医者を呼んで手当てがおわるまで、アレックスは見守っていた。怪我をした自分より痛ましそうな表情をする彼女を、ブレアはずっと眺めていた。処置が施されたのを見届け、安堵の笑みを浮かべるところといい、誰かのために表情をくるくる変える様が可愛らしいと感じた。彼女はなんと心優しい女性だろうか。
それから気付けば彼女を目で追っていた。アレックスは騎士になるだけあり、困っている者、傷付いた者に気付いては心を砕く人間だった。自分もそのうちのひとりでしかないとブレアは知った。息をするように人助けをする彼女は、自分のことなど覚えていないだろう。それでもよかった。どんなにアレックスが令嬢に言い寄られようと、彼女は断る。誰のものにもならないのなら、安心だ。
心根がまっすぐな彼女は、仮初であろうと婚約者をもとうとはしないだろう。ならば、アレックス同様、誰とも婚約しないままの自分と巡り合うときがくる。ブレアの読み通り、機は熟し現在に至る。
アレックスは、自身の性別を承知のうえで嫁いできただけと思っている。だが、それだけではないと知っているのはブレアだけだ。
「君にそう言われると、なんだか気恥ずかしいな……」
自分が可愛いと囁けば、頬を染め視線を逸らす彼女。彼女の愛らしさを知るのは自分だけでいい。
アレックスは自身の一挙一動が妻を煽っているとは気付いていない。その無頓着さすら、ブレアには愛しかった。
「では、懸念を払われたことですし……」
「いや、ちょっと待っ」
「なんでしょう。それとも、アレックス様は髪の長い男は嫌いですか?」
「え。男の好み?」
問題を払拭したというのに、まだ抵抗をみせるアレックスに、ブレアは拗ねる。そこまで躊躇されるということは、自分は彼女の好みから外れているのだろうか。
訊かれてはじめて、アレックスは自身に異性の嗜好性を問いかけた。
「女性の好みしか聞かれたことがなかったから、考えたこともなかった。けれど、ブレアの長い髪は嫌いじゃない。むしろ、綺麗で触ってみたいぐらいだ」
考えた末に、現在感じていることをアレックスは正直に述べる。夫の答えに、ブレアは満足げに微笑んだ。
「なら、アレックス様の好みを私にすればいいだけですわね」
「ブレア?」
妻の笑みに、アレックスは逃げられないと本能で察知した。自分の方が身体が大きいというのに、どうしてか彼の腕の中から逃げるという選択肢が浮かばなかった。
「私はもうあなたのものですから、髪だけと言わず、好きなだけ触れてくださいな」
寛容な言葉を口にしながら、ブレアは夫に覆いかぶさり、アレックスを腕の中に閉じ込めてくる。
親指で唇をなぞられると痺れるような心地がした。桜色の唇に塞がれ、アレックスの鼓動はいつになく高鳴る。二人の鼓動が溶けあう頃には、白い結婚の心づもりなどとうに忘れ去っていたのだった。