河童
水底に射しこむ柔い光が水に揺蕩い、透明な青の濃淡が、ゆらりと移りゆく。
ほの明るい光を浴びて水底の景色に浮かび上がるのは、上空を鳥のように泳ぐ小魚の群れと、花を拾い集める椿のしなやかな魚の下半身。緋彩の鱗の艶めくさまを、ぼんやりと眺める晶は、ぽそっ、と呟く。
「……数学と物理に縁のない文系の俺でもわかる。人間が地上と同じように、水中を動き回れるわけがないって」
「冥路とは、現世の理から一歩外れた……、そんな場所なのですよ」
傍らに両膝をついて、さらりと言ってのけた祐樹を一瞥し、晶は、再び椿に視線を投げた。
「それから、あの子」
「はい?」
「一度、川に落ちて。二度目に川に落ちる前に、……椿を見たんだ」
首を傾けて晶の視線を追った祐樹が、椿の姿を認めて、口許をほころばせる。
「ええ。僕は椿から、冥路に生じた変則的な径に人が落ちたのだと、報せを受けました。流れに掬われ路に惑わされた人間が、同じ所を廻っている、と」
神妙な面持ちをした晶は、初めて椿を見た時のことを思い返す。
そう――。
少女はあの時、川端の石に腰掛けて、膝下から着物ごと水に浸していた。
そして、忽然と姿を消したのだ。
「椿は、その、……人魚に見えるけれど、人、じゃないのか? それに、さっき生者ではないって、聞いたような気がしたんだけど……?」
晶は口ごもりながら、小声で尋ねた。
祐樹は、「ええ」と相槌をうった。
「椿は生前、人の行き交う道路脇の、水嵩も浅い水路に迷い込んだ、人魚だったのです」
目を瞬かせる晶の顔を見つめた祐樹は、悼む響きをもつ声音で、淡々と言葉を紡いでゆく。
「泳ぎの達者なはずの人魚であるのに、そんな場所に迷い込むくらいですから。彼女は元々、死の際にあったのかもしれません。……人魚は、人とは違います。肉体が死しても輪廻転生する人の魂とは異なり、人魚には魂という概念がなく、死ねば、身体も心も、記憶もすべて、泡となって消えてしまう運命にあります。しかし、水路に迷い込んだことが余程怖く、悲しかったのでしょう。彼女は事切れる前に泣いて、……泣いて。あまりにも泣いたものだから、想いを宿す髑髏ひとつ、現世に遺して逝ってしまったのです。空になった髑髏のすすり泣く声が、ひどく悲愴なものだったので――」
一度言葉を区切った祐樹の瞳が、物憂げに陰る。
祐樹は想いを馳せるように瞼を伏せ、ひどく思い詰めた口調で言った。
「独り、冥路で過ごすことを寂しい……、と。そう思ってしまった僕は、彼女の髑髏を連れて帰ったんです」
「え……」
晶は跳ねる勢いで椿に顔を向け、凝視する。
真白の着物を纏う、愛らしい和風人魚には身体がある。
今しがた、晶の頬や髪に椿の手が触れたのだから、幻などではない。
「えっ、え? だって、椿には身体が……」
咽で閊える言葉を押し出し、しどろもどろに訊くと、祐樹は困ったような、晶の反応を窺うような、繊細な微笑を浮かべる。
「ええ。彼女の身体も生前の記憶も、心さえも泡となって消えてしまいましたが、ひとつの髑髏と強い想いが遺されました。その髑髏自体に刻まれた記憶を基に、悲しみに沈んだ想いを身体に換えたものが、あの子です。……唯一遺った想いを失い、自分自身の名すら解らない、まっさらなあの子に『椿』と名付けたのは、僕です。ですから、今の椿は、生きていた時の彼女とは、まったく別の存在なのでしょう」
祐樹は密やかに吐息をもらして、きゅっと唇を噛んだ。
頭上で群れて泳ぐ薄鈍色の小魚が数匹、身を捩ったのか。銀の刀身を思わせる鋭い光が、きらり、きらりと閃く。
重々しく視線を持ち上げて、祐樹は、それらを見遣った。
しばしの沈黙の後、引き結ばれていた祐樹の唇が薄らと開き、声がこぼれる。
「髑髏に……、本来命尽きたものに、仮初の身体や生を与えるなんて、摂理や道徳に反することだと判ってはいるのです。いつか僕は、お咎めを受けるやもしれません。だけど、椿が傍にいてくれることで、僕は確かに救われているのです」
胸に片手を当てて、罪を告白するかの沈んだ口調で語り、祐樹は憂える瞳を伏せた。
椿が生まれた経緯を聴く晶の頭で、別の事柄と結びついて、繋がる。
「想いを身体に変える? それって、さっきの……?」
「はい。先程、晶の想いを花に変えた、あれと同じです」
「……」
涼しい顔で、事も無げに言う祐樹に衝撃を受けて、晶は言葉を失う。
驚愕の表情で祐樹を注視する晶の胸に、じわじわと湧き上がるのは懐疑心だ。
祐樹を同じ人間だと思っていたが、もしかしたら違うのかもしれない。
「椿が人魚なら、祐樹は河童とか、そういう何かか?」
祐樹の顔がまっすぐに晶を向いて、硝子玉を思わせる澄んだ濃褐色の瞳が、不思議そうに見開かれた。
「河童? 僕が……、ですか?」
「うん。ほら、河童って河の童って書くだろ?」
晶が真顔で応えると、祐樹は、その顔に明らかな戸惑いを浮かべる。
「でも、河童って……、確か頭に皿を乗せて亀の甲羅を背負った、嘴のある、全身緑色の妖怪みたいな、あの河童ですよね?」
――妖怪。
人間とは似ても似つかない河童の姿を想像して、気まずくなった晶は視線を逸らし、指先でぽりぽりと頬を掻く。
「いや、まぁ。……うん」
「晶さんは――」
「晶、でいいよ。歳だってそんなに変わらないだろ? 俺は十六だけど、祐樹は?」
年齢を尋ねられた祐樹は、ふ、と表情をやわらげ、はにかむように伏し目がちになる。
「十四です。……じゃぁ、晶は、どうしてそう思うんです?」
物言いは丁寧なまま、ほのかに緊張の滲む硬い声で、祐樹は尋ねた。
「どうして、って」
晶は、ぐるりと辺りを見回して、小さく唸る。
人魚と行動を共にし、不思議な水底へ晶を連れ込み、しれっとしている時点で普通ではない。
その上、髑髏に身体を与えたり、人の想いを花に変換したりするなんて芸当が、人間にできるとは到底思えない。
河童でないにしろ、祐樹は椿と同様に人ならざるものではないかと、晶は疑念を抱いたのだ。
だがしかし、どことなく不安そうに瞳を陰らせる祐樹に、それをそのまま伝えてしまうことは躊躇われた。
「椿が人魚だって気づかなかったのもあるけれど……。祐樹も水底で平気そうだし、俺は現実の河童なんて見たことがないからさ。祐樹もそうかもしれない、って思ったんだ」
婉曲的な表現で伝えて、晶は、ちらと祐樹の表情を窺い見る。
祐樹は腑に落ちたといわんばかりに、頷いた。
「ああ、なるほど。でも僕は、河童ではなくて人間ですよ。晶と同じく冥路に生じた淵に落ちて、以来、冥路に身を置く人間です」
くすくすと可笑しそうに笑って、祐樹は軽く呼気を弾ませた。
そして、ほぅ……、と吐息を漏らし、水底から上空を仰ぐ。
「刻々と様相を変化させる空は、いつだって綺麗で、飽きることなんてないんです。でも、冥路に長く居続けると、少しばかり時間が余って。……色々なものが視えて、聴こえるようになるんです。そこに『何か』があることを知ってしまえば、できることは徐々に増えていきました。想いを別の形に換えるのも、冥路を満たす『不思議の力』を知ったから。僕にできるのは、ほんの些細なことです。ただ、在るものを別の形に変えるだけ。……折り紙で、鶴を折るようなものです」
「折り紙で、……鶴?」
祐樹の言い回しに違和感を覚えた晶は、小首を傾げる。
年下であるにも拘わらず、祐樹の口調が妙に大人びている。育ちが良く、おっとりとしているのかもしれないが、なんだか妙なずれを感じる。
まるで授業の文学国語の題材となる、書籍にあるような畏まった物言い。
「長く……?」
思いがけず、晶の口から疑問がこぼれた。
空恐ろしさが身体の芯を突き抜け、体温を根こそぎ奪ってゆく。
「冥路に長く……って、何時から?」
咽を通る声が、ぎこちなく掠れるのを耳に捉えながら、晶は、改めて目の前の少年をじっくりと見つめる。
するり、と祐樹の視線が滑り、晶を捉えた。
静謐さを湛えた濃褐色の澄んだ瞳が、ほのかな寂寥を灯して、微かに揺れる。
藍い水中に在って、白銀の月明かりに染まる冷たい雪のような青白い肌をして。祐樹は、水面に落ちた月影の如く、淡く、儚く微笑んだ。
「さぁ……? 何時からでしょう。時を数えることなんて、とっくに止めてしまいましたから」
――さらさらと吹き抜けてゆく、微風を思わせる穏やかな声音で、祐樹は言った。




