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水底に咲く花  作者: 和奏
水底
9/29

河童


 水底(みなそこ)に射しこむ(やわ)い光が水に揺蕩い、透明な青の濃淡が、ゆらりと移りゆく。

 ほの明るい光を浴びて水底の景色に浮かび上がるのは、上空を鳥のように泳ぐ小魚の群れと、花を拾い集める椿のしなやかな魚の下半身。緋彩(ひいろ)の鱗の(つや)めくさまを、ぼんやりと眺める晶は、ぽそっ、と呟く。

「……数学と物理に縁のない文系の俺でもわかる。人間が地上と同じように、水中を動き回れるわけがないって」

冥路(めいろ)とは、現世(うつしよ)(ことわり)から一歩外れた……、そんな場所なのですよ」

 傍らに両膝をついて、さらりと言ってのけた祐樹を一瞥し、晶は、再び椿に視線を投げた。

「それから、あの子」

「はい?」

「一度、川に落ちて。二度目に川に落ちる前に、……椿を見たんだ」

 首を傾けて晶の視線を追った祐樹が、椿の姿を認めて、口許をほころばせる。

「ええ。僕は椿から、冥路に生じた変則的な(こみち)に人が落ちたのだと、報せを受けました。流れに掬われ路に惑わされた人間が、同じ所を廻っている、と」


 神妙な面持ちをした晶は、初めて椿を見た時のことを思い返す。

 そう――。

 少女はあの時、川端の石に腰掛けて、膝下から着物ごと水に浸していた。

 そして、忽然と姿を消したのだ。

椿(あのこ)は、その、……人魚に見えるけれど、人、じゃないのか? それに、さっき生者ではないって、聞いたような気がしたんだけど……?」

 晶は口ごもりながら、小声で尋ねた。


 祐樹は、「ええ」と相槌をうった。

「椿は生前、人の行き交う道路脇の、水嵩(みずかさ)も浅い水路に迷い込んだ、人魚だったのです」


 目を瞬かせる晶の顔を見つめた祐樹は、悼む響きをもつ声音で、淡々と言葉を紡いでゆく。

「泳ぎの達者なはずの人魚であるのに、そんな場所に迷い込むくらいですから。彼女は元々、死の際にあったのかもしれません。……人魚は、人とは違います。肉体が死しても輪廻転生する人の魂とは異なり、人魚には魂という概念がなく、死ねば、身体も心も、記憶もすべて、泡となって消えてしまう運命(さだめ)にあります。しかし、水路に迷い込んだことが余程怖く、悲しかったのでしょう。彼女は事切れる前に泣いて、……泣いて。あまりにも泣いたものだから、想いを宿す髑髏(されこうべ)ひとつ、現世(うつしよ)に遺して逝ってしまったのです。(から)になった髑髏のすすり泣く声が、ひどく悲愴なものだったので――」

 一度言葉を区切った祐樹の瞳が、物憂げに陰る。

 祐樹は想いを馳せるように瞼を伏せ、ひどく思い詰めた口調で言った。

「独り、冥路(ここ)で過ごすことを寂しい……、と。そう思ってしまった僕は、彼女の髑髏を連れて帰ったんです」


「え……」

 晶は跳ねる勢いで椿に顔を向け、凝視する。

 真白の着物を纏う、愛らしい和風人魚には身体がある。

 今しがた、晶の頬や髪に椿の手が触れたのだから、幻などではない。

「えっ、え? だって、椿には身体が……」

 咽で(つか)える言葉を押し出し、しどろもどろに訊くと、祐樹は困ったような、晶の反応を窺うような、繊細な微笑を浮かべる。


「ええ。彼女の身体も生前の記憶も、心さえも泡となって消えてしまいましたが、ひとつの髑髏と強い想いが遺されました。その髑髏自体(そのもの)に刻まれた記憶を基に、悲しみに沈んだ想いを身体に換えたものが、あの子です。……唯一遺った想いを失い、自分自身の名すら解らない、まっさらなあの子に『椿』と名付けたのは、僕です。ですから、今の椿は、生きていた時の彼女とは、まったく別の存在(もの)なのでしょう」

 祐樹は密やかに吐息をもらして、きゅっと唇を噛んだ。

 頭上で群れて泳ぐ薄鈍色の小魚が数匹、身を捩ったのか。銀の刀身を思わせる鋭い光が、きらり、きらりと閃く。

 重々しく視線を持ち上げて、祐樹は、それらを見遣った。

 しばしの沈黙の後、引き結ばれていた祐樹の唇が(うっす)らと開き、声がこぼれる。

「髑髏に……、本来命尽きたものに、仮初の身体や(せい)を与えるなんて、摂理や道徳に反することだと判ってはいるのです。いつか僕は、お咎めを受けるやもしれません。だけど、椿が傍にいてくれることで、僕は確かに救われているのです」

 胸に片手を当てて、罪を告白するかの沈んだ口調で語り、祐樹は憂える瞳を伏せた。 


 椿が生まれた経緯を聴く晶の頭で、別の事柄と結びついて、繋がる。

「想いを身体に変える? それって、さっきの……?」

「はい。先程、晶の想いを花に変えた、あれと同じです」

「……」

 涼しい顔で、事も無げに言う祐樹に衝撃を受けて、晶は言葉を失う。

 驚愕の表情で祐樹を注視する晶の胸に、じわじわと湧き上がるのは懐疑心だ。

 祐樹を同じ人間だと思っていたが、もしかしたら違うのかもしれない。


「椿が人魚なら、祐樹は河童(かっぱ)とか、そういう何かか?」

 祐樹の顔がまっすぐに晶を向いて、硝子玉を思わせる澄んだ濃褐色の瞳が、不思議そうに見開かれた。

「河童? 僕が……、ですか?」

「うん。ほら、河童って(かわ)(わらし)って書くだろ?」

 晶が真顔で応えると、祐樹は、その顔に明らかな戸惑いを浮かべる。

「でも、河童って……、確か頭に皿を乗せて亀の甲羅を背負った、(くちばし)のある、全身緑色の妖怪みたいな、()()河童ですよね?」


 ――妖怪。


 人間とは似ても似つかない河童の姿を想像して、気まずくなった晶は視線を逸らし、指先でぽりぽりと頬を掻く。

「いや、まぁ。……うん」

「晶さんは――」

「晶、でいいよ。歳だってそんなに変わらないだろ? 俺は十六だけど、祐樹は?」

 年齢を尋ねられた祐樹は、ふ、と表情をやわらげ、はにかむように伏し目がちになる。

「十四です。……じゃぁ、晶は、どうしてそう思うんです?」

 物言いは丁寧なまま、ほのかに緊張の滲む硬い声で、祐樹は尋ねた。


「どうして、って」

 晶は、ぐるりと辺りを見回して、小さく唸る。

 人魚と行動を共にし、不思議な水底へ晶を連れ込み、しれっとしている時点で普通ではない。

 その上、髑髏に身体を与えたり、人の想いを花に変換したりするなんて芸当が、人間にできるとは到底思えない。

 河童でないにしろ、祐樹は椿と同様に人ならざるものではないかと、晶は疑念を抱いたのだ。

 だがしかし、どことなく不安そうに瞳を陰らせる祐樹に、それをそのまま伝えてしまうことは躊躇われた。

「椿が人魚だって気づかなかったのもあるけれど……。祐樹も水底で平気そうだし、俺は現実の河童なんて見たことがないからさ。祐樹も()()かもしれない、って思ったんだ」

 婉曲的な表現で伝えて、晶は、ちらと祐樹の表情を窺い見る。

 祐樹は腑に落ちたといわんばかりに、頷いた。

「ああ、なるほど。でも僕は、河童ではなくて人間ですよ。晶と同じく冥路に生じた淵に落ちて、以来、冥路に身を置く人間です」

 くすくすと可笑しそうに笑って、祐樹は軽く呼気を弾ませた。

 そして、ほぅ……、と吐息を漏らし、水底から上空を仰ぐ。


「刻々と様相を変化させる空は、いつだって綺麗で、飽きることなんてないんです。でも、冥路に長く居続けると、少しばかり時間が余って。……色々なものが視えて、聴こえるようになるんです。そこに『何か』があることを知ってしまえば、できることは徐々に増えていきました。想いを別の形に換えるのも、冥路を満たす『不思議の力』を知ったから。僕にできるのは、ほんの些細なことです。ただ、在るものを別の形に変えるだけ。……折り紙で、鶴を折るようなものです」


「折り紙で、……鶴?」

 祐樹の言い回しに違和感を覚えた晶は、小首を傾げる。

 年下であるにも(かか)わらず、祐樹の口調が妙に大人びている。育ちが良く、おっとりとしているのかもしれないが、なんだか妙な()()を感じる。

 まるで授業の文学国語の題材となる、書籍にあるような(かしこ)まった物言い。

「長く……?」

 思いがけず、晶の口から疑問がこぼれた。

 空恐ろしさが身体の芯を突き抜け、体温を根こそぎ奪ってゆく。

「冥路に長く……って、何時(いつ)から?」

 咽を通る声が、ぎこちなく掠れるのを耳に捉えながら、晶は、改めて目の前の少年をじっくりと見つめる。


 するり、と祐樹の視線が滑り、晶を捉えた。

 静謐さを湛えた濃褐色の澄んだ瞳が、ほのかな寂寥を灯して、微かに揺れる。

 (あお)い水中に在って、白銀の月明かりに染まる冷たい雪のような青白い肌をして。祐樹は、水面に落ちた月影の如く、淡く、儚く微笑んだ。


「さぁ……? 何時からでしょう。時を数えることなんて、とっくに止めてしまいましたから」


 ――さらさらと吹き抜けてゆく、微風を思わせる穏やかな声音で、祐樹は言った。


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