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水底に咲く花  作者: 和奏
水底
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花雨


 下半身が魚の少女は、すぐに少年を連れて晶の許へと戻ってきた。

 少年は、河原で出会い、晶を連れて川へと飛び込んだ祐樹という男子学生だった。


 晶の傍らに膝をついて、そろりと顔を覗き込んだ祐樹は、眉尻を下げて気遣わしげに口を開く。

「すみません。椿(つばき)と――、この子と目を合わせたのですよね。椿は、生者ではないから……。その、死者である彼女と目を合わせ、視認してしまうと、生きている人には通常見えないものが……、死者や人ならざるものが、見えるようになる人もいるので……」


 訥々(とつとつ)と語る祐樹が言葉を区切り、申し訳なさそうに目を伏せ、吐息を漏らした。

冥路(めいろ)に生じた変則的な(こみち)に迷い込んで、きっと見慣れないものも、たくさん見てしまったのですよね。それに時間がなかったとはいえ、乱暴な手法で淵に連れ込んでしまって、怖い思いをさせてしまって、ごめんなさい」


 ……祐樹の言うことが、半分も理解できない。

 思考の停止した晶は、一度、目を瞬かせる。まじまじと祐樹の瞳を見つめると、彼は安心させるかのように、柔和に微笑んでみせた。

「今、あなたが抱えている強い想いを、やわらげさせてください。生きていれば、再び同様の想いや感情が湧くこともあるでしょう。ですから、あくまでも一時的な処置となりますが……。それでも、少しだけ楽になるかと思います」

 生者に施すのは初めてなのですけれど……と、独りごちた祐樹は真剣に表情を改め、晶の身体を仰向けにする。

 間近く膝を寄せて、祐樹は晶の胸許に指先を落とし、触れた。

 くるん、と祐樹の指先が晶の胸許で時計回りに円を描く。すると、晶の胸や腹の底に淀む嫌な感情が、ぐるりと渦を巻いて、形を成そうとするのが判った。

 腹の中を掻き回されているかのような、胸焼けにも似た不快感に、晶は思わず眉をひそめる。

 ほろ……、と。

 胸から浸み出した『何か』がひとつ、転がり落ちた。

 祐樹の指先が、そっと晶の胸許を離れ、まっすぐに天を指差す。

 まるで、それが合図であったかのように、腹の底から押し上げられた『何か』が、晶の身体から引きずり出され、瞬時にして柱の如く噴き上がった。

 

 天高くに伸びた『何か』――暖色の塊――は、ふ、と勢いを弱めて、はらりと形を崩す。

 はらはらと(ほど)けて散り、水中に揺蕩うのは、たくさんの花。すべて同一種でありながら、花弁の色彩は、黄色から橙色、濃い赤橙色(せきとうしょく)と多彩だ。

 花柄(かへい)で切断された、親指と人差し指で作る輪ほどの小花が、花雨(かう)となって、しんしんと水底(みなそこ)に降ってくる。


 大きく目を見開く晶と共に、喉を反らして空を見上げていた祐樹が、しみじみと言った。

「冥路を往く死者であれば、精々一輪か二輪しか咲くことはないのに。こんなにたくさんの花を咲かせるなんて……。やっぱり、生者の――、生きている人の想いは、強い」

 おもむろに視線を下ろして、一息ついた祐樹は、晶に微笑みかける。

「あなたの想いを、そっくりそのまま別の形に換えさせてもらいました。想いを糧に咲いた花だと、そう解釈していただけると助かります。えぇ、と。……名前を訊いても構いませんか?」


「名前、は――」

 奇妙な感覚に囚われて、晶は、しばし戸惑う。

 先程までは確かにあった虚無感や、自分に対しての失望感が、すっぽりと胸から抜け落ちていた。

 晶は、くるくると円を描いて舞う花を……、或いは小魚に悪戯に啄まれながら遅々として水中を沈下してくる花を、眺めあげる。

 片腕を伸ばして、顔の上に舞い降りてくる一輪の花を、指先で捕まえた。

 想いを糧に咲いたという花を翳し、晶は凪いだ心で、客観的にそれを見つめる。

 ……季節になれば。

 そこかしこで見かける、ありふれた花。

 よく知る花だった。

「――晶。……白河(しらかわ)(しょう)

 鮮やかな暖色の花弁が幾重にも重なる花姿は、こんもりと(まる)く、小さな手毬を彷彿とさせる。

 だが。

 健気に、可憐に咲く橙色の花に詰まっているのは、晶の絶望。


『私の二十年を返してよっ!!』


 母の吐き捨てた言葉が、耳の奥に深く刻み込まれている。

 二十年前、白河晶という人間は、まだこの世に存在しない。

 母には、父が不貞行為を働く前に生まれた和真が、ひとりいれば……。

 母の面差しによく似た、気が利く和真が、ひとりいれば、よかったのかもしれない。

 泣き叫ぶ母から目を背けて、耳を塞ぐ子供なんて。

 母をひどく傷つけた父に似た、苦しむ母を支えることのできない薄情な自分なんて、要らない子供だったのかもしれない。

 もしも本当に、そうだとしたら。

 生みの親に、存在を否定されるような子供は……。

「生まれてきたことに、意味なんてあったのかな」

 こうなることが判っていたら。

 あの本の胎児のように、生まれる前に訊いてくれていたのなら。

 この世に、生まれてなんて――。


「晶さん、ほら」

 すぅ、と耳に沁みこむ祐樹の明るい声が晶の意識を惹き付け、沈みかけた思考を遮る。

 祐樹の視線の先には、突然の花雨に、ほんのりと顔を輝かせる人魚の少女の姿があった。椿は興味深そうに空を見上げ、一輪、また一輪と降ってくる黄色や橙色の花に、小さな手を伸ばす。

 そんな椿に向けられる祐樹の眼差しは、慈しむように優しい。

「たとえ、どんな意図をもって生み出されたものだとしても。ひとたび生まれてみれば、新しく意味を持つものや、まったく別の存在意義を持つものだって、あるのかもしれませんよ」

 陰りのないまっすぐな声音で祐樹が触れたのは、おそらく、晶の想いから咲いたのだという、……花の話。


「……」

 上半身を起こして座り直した晶が、ゆっくりと首を巡らせる。

 降り積もる花に彩られ、暖色に染まってゆく水底と、一心に花を集める椿に目を留めた。

 椿は、腕に抱えるたくさんの花を見下ろして、眩しそうに目を細める。白い指を伸ばして花を一輪摘まみ取ると、それを耳許に挿して髪を飾った。

 幾重にも重なる暖色の花弁は、つまみ細工の髪飾りにも似て、着物を纏う椿の黒髪に華を添える。

 小首を傾げた椿は、髪に挿した小花に指先を伸ばして触れると、ふわぁ、と顔をほころばせた。

 身体の内から喜びを溢れさせたかのような椿の微笑みは、春先の明るい陽だまりを思い起こさせ、晶の心をあたたかにする。

 暗い想いから咲いた花であるのに、あたかも椿の髪を飾るために咲いたかのような花に、晶は小さな希望を見出す。

 記憶が消えたわけでもなく、考え方が変わったわけでもない。

 けれど。

 今すぐには無理でも、……いつか。

 あの花のように自分の(せい)に意味があったのだと思える日が……、生まれてきてもよかったのだと、そんなふうに思える日が来るのだろうか。

「……そうなると、いいな」

 胸に灯った(かす)かな願いを唱えると、腹の底に居座る悲観的な気持ちがほんの少しやわらいで、ほぐれてゆくのを感じた。


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