混迷
暗い。
暗い景色の中に、ぼんやりと家の扉が見える。
ここは、家の玄関扉の前だ。
『……私の二十年を返してよっ!!』
母の泣き叫ぶ声が、家の外にまで響いている。
家の壁に物が当たる音がして、茫然と立ちつくしていた晶は、はっとして我に返った。
母が父に怒鳴り散らし、暴れているのだと、状況はすぐに理解できた。
家に入ろうとして、晶は、自分の足が動かないことに気づく。
早く、ふたりの間に入って、母を止めないと。
母が壊れてしまう。
壊れてしまったら、もう元の優しい母に戻らないかもしれない。
母が、この世界からいなくなってしまう。
早く、早く早く……!
母を止めに家に入らないといけないのに、晶の足は、いうことをきかない。
ものすごい剣幕で、父に詰め寄る母の顔が見えるのに。
身体が動かず、家に入ることができない。
止むことのない母の叫び声に、晶の心は苛まれてゆく。
切迫感だけが募ってゆき、俯いて頭を抱えた晶は、目を瞑る。
どうしよう……、どうしたらいいのか、わからない。
――息が、苦しい……!
「……っ、は! はぁ、はぁっ、……っぁ、はぁ……っ!」
息苦しさに、晶の意識が現実に引き戻される。
薄らと目を開いた晶は、自分が砂地に横たわっていることを認識する。
速く荒い呼吸を繰り返す晶の腕や足は痺れて、硬直していた。
ぐるぐると晶の脳裏を巡る母の叫び声は、数年前の記憶。
(夢……?)
眠りに就いていたために、身体に変調をきたしていたことに気づけなかったのだと、判った。
兎に角、息が、息が苦しい。
「……っ」
速く乱れた呼吸を落ち着かせようとして、晶は息を止めた。
息苦しさから逃れようとして、晶は、たったひとつの真実に縋りつく。
(……夢、だ)
頭に響く母の声が、ほんの少し遠のいて、硬直していた腕が、ぴくんと震えた。
強張った腕が、わずかに緩むのを感じた晶は、無我夢中で母の声を振り払う。
(これは夢だ、夢だ、夢だ……!)
大丈夫だ。
今ここに、母はいない。
それに、もう二度と、母があんなふうに泣くことも暴れることもない。
何故なら、母の心を壊す存在は、なくなったのだから――。
記憶にある母の声が、ぼやけて霞み、やがて完全に聞こえなくなった。
急速に緊張が解けて、呼吸が楽になってゆく。
息苦しさから解放された晶の身体から、力が抜ける。ぐったりとした晶が、吐き出す息の中に微かな声を織り交ぜる。
「……嘘、だろ」
強い虚無感に襲われて、ぴくりとも動かせない指先を……、緩んだ掌に在る薄鈍色の小石を、晶は、ぼんやりと瞳に映した。
垣間見えた自分自身の本意が信じられずに、茫然自失となる。
音も無く、……静かに。暗い絶望が、重く圧し掛かってくる。胸に湧きだした冷ややかな失望が、晶の内側を浸潤してゆく。
守りたかったはずの母の声を突き放し、実の父の死に安堵を覚えるなんて。
薄情なんてものじゃない。
「こんなの……」
――最低じゃないか。
ふわ……、と薄影が舞い降りて、晶の頬に細い指が触れた。
「気がついた?」
過剰な感情を含まずに、物静かに尋ねる声は、真白の着物に身を包む幼い少女のもの。
少女の深潭を思わせる黒い瞳が、晶の顔を覗き込む。刹那、少女の瞳は痛々しいものを見たかのように、そっと伏せられた。
長い睫毛が少女のきめ細かな白い肌に薄い陰を落とし、より一層、彼女の表情を物憂げに彩る。
幼い声が暗く沈んだ。
「病んだ小魚みたいな眼から、悲しみが溢れている。……知らない場所で迷うのは、怖くて苦しくて、とても辛いものなのでしょう? 祐樹に教えてもらったから、知っている」
「……」
指先を動かすどころか、瞬きする気力すらない。
応えずにいると、頬に触れていた少女の指先が、つい、と離れ、労わるように晶の頭に触れた。
二度、三度と掌を滑らせて、晶の髪を優しく撫でた少女は、囁く。
「少しだけ待っていて? 今、祐樹を呼んでくるから」
身を退いて、軽やかに少女が翻ると、細く艶やかな黒髪が頭の動きにあわせて、ゆったりと靡く。やや遅れて、着物の袂が緩慢に宙を泳ぎ、胴を締める淡い桃色の兵児帯が、やわらかに弾む。
とん、と地を蹴る少女の身体が宙に浮かび上がり、虚を映していた晶の双眸が、微かに見開かれた。
少女と、彼女を中心とする碧い景色が、晶の目に飛び込んでくる。
高い……、ずっと高いところにある空には、透明な青白い薄玻璃をいくつも浮かべたかのような水面が、ゆらゆらと揺らめいている。まるで空を映す広い湖面を眺めているような……、否、水底から滄溟を見上げているような、不思議な光景だった。
幾筋も差し込む細く透きとおった光芒は、やわらかな光の薄衣のように、水紋の動きにあわせて近づいては離れ、時として折り重なり明るみを増す。刹那の光は碧い景色を彩る綾となって、息を呑むような美しい濃淡を織り上げる。
冴え冴えとした滄溟の空を舞うのは、小鳥ではなく薄鈍色の小魚の群れ。小魚が身を捩るたびに、青みを含む白銀の光芒が弾かれ、鋭い銀の欠片となって煌めいた。
そんな目を疑う景色の中でも特に奇異であったのは、幼い少女の容姿だった。
着物の裾から覗くのは、人の持つ二本の足ではなく、緋い魚の下半身。しなやかに尾部が翻ると、光沢のある滑らかな鱗が微かな光を受けて、艶めく。
視界に収めたものに理解が追い付かない晶の目の前で、繊細な硝子細工を思わせる緋く透明な尾鰭が、優美に水を蹴った。
水底の砂泥を持ち上げた水が、くるくると小さな渦を巻き、晶の視界の一部を曇らせる。生じた不可視の水の塊が、晶の頬を優しく圧して、とろりとほどける。遅れて、水底をまろぶ砂粒が肌をくすぐった。
肌に密着するのは空気でなく、しっとりとした夜風を彷彿とさせる冷ややかな水。
髪の揺れる感覚は、水中に潜った時の、それ。
落水した記憶は、確かにあった。けれども、なんだかおかしい。
視界は地上にいるのと変わらず鮮明で、音もはっきりと聞こえている。
何よりも、普通に呼吸ができている。
目を醒ましているようで、実は半睡半醒の状態なのだろうか。
上空を泳いでいた小魚の一匹が、すい、と晶の許へと下りてきた。
人間が珍しいのか。
小魚は臆することなく、ひらひらと晶の周りを泳いで観察している。やがて晶の目の前に留まると、まるで餌を欲しがるかのように、或いは何かを訴えるように、ぱくぱくと大きく口を動かし始めた。
――白昼夢に、迷い込んだのかもしれない。
どこか他人事のように思いながら、晶は遠ざかってゆく少女の後ろ姿を、ぼぅっと見送った。




