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水底に咲く花  作者: 和奏
水底
7/31

混迷


 暗い。

 暗い景色の中に、ぼんやりと家の扉が見える。

 ここは、家の玄関扉の前だ。


『……私の二十年を返してよっ!!』


 母の泣き叫ぶ声が、家の外にまで響いている。

 家の壁に物が当たる音がして、茫然と立ちつくしていた晶は、はっとして我に返った。

 母が父に怒鳴り散らし、暴れているのだと、状況はすぐに理解できた。

 家に入ろうとして、晶は、自分の足が動かないことに気づく。

 早く、ふたりの間に入って、母を止めないと。

 母が壊れてしまう。

 壊れてしまったら、もう元の優しい母に戻らないかもしれない。

 母が、この世界からいなくなってしまう。

 早く、早く早く……!

 母を止めに家に入らないといけないのに、晶の足は、いうことをきかない。

 ものすごい剣幕で、父に詰め寄る母の顔が見えるのに。

 身体が動かず、家に入ることができない。

 止むことのない母の叫び声に、晶の心は苛まれてゆく。

 切迫感だけが募ってゆき、俯いて頭を抱えた晶は、目を瞑る。

 どうしよう……、どうしたらいいのか、わからない。


 ――息が、苦しい……!


「……っ、は! はぁ、はぁっ、……っぁ、はぁ……っ!」

 息苦しさに、晶の意識が現実に引き戻される。

 (うっす)らと目を開いた晶は、自分が砂地に横たわっていることを認識する。

 速く荒い呼吸を繰り返す晶の腕や足は痺れて、硬直していた。

 ぐるぐると晶の脳裏を巡る母の叫び声は、数年前の記憶(もの)

(夢……?)

 眠りに就いていたために、身体に変調をきたしていたことに気づけなかったのだと、判った。

 兎に角、息が、息が苦しい。

「……っ」

 速く乱れた呼吸を落ち着かせようとして、晶は息を止めた。

 息苦しさから逃れようとして、晶は、たったひとつの真実に縋りつく。

(……夢、だ)

 頭に響く母の声が、ほんの少し遠のいて、硬直していた腕が、ぴくんと震えた。

 強張った腕が、わずかに緩むのを感じた晶は、無我夢中で母の声を振り払う。

(これは夢だ、夢だ、夢だ……!)

 大丈夫だ。

 今ここに、母はいない。

 それに、もう二度と、母があんなふうに泣くことも暴れることもない。

 何故なら、母の心を壊す存在(もの)は、なくなったのだから――。


 記憶にある母の声が、ぼやけて霞み、やがて完全に聞こえなくなった。

 急速に緊張が解けて、呼吸が楽になってゆく。

 息苦しさから解放された晶の身体から、力が抜ける。ぐったりとした晶が、吐き出す息の中に微かな声を織り交ぜる。

「……嘘、だろ」

 強い虚無感に襲われて、ぴくりとも動かせない指先を……、緩んだ掌に在る薄鈍色(うすにびいろ)の小石を、晶は、ぼんやりと瞳に映した。

 垣間見えた自分自身の本意が信じられずに、茫然自失となる。

 音も無く、……静かに。暗い絶望が、重く圧し掛かってくる。胸に湧きだした冷ややかな失望が、晶の内側を浸潤してゆく。

 守りたかったはずの母の声を突き放し、実の父の死に安堵を覚えるなんて。

 薄情なんてものじゃない。

「こんなの……」

 ――最低じゃないか。


 ふわ……、と薄影が舞い降りて、晶の頬に細い指が触れた。

「気がついた?」

 過剰な感情を含まずに、物静かに尋ねる声は、真白の着物に身を包む幼い少女のもの。

 少女の深潭を思わせる黒い瞳が、晶の顔を覗き込む。刹那、少女の瞳は痛々しいものを見たかのように、そっと伏せられた。

 長い睫毛が少女のきめ細かな白い肌に薄い陰を落とし、より一層、彼女の表情を物憂げに彩る。

 幼い声が暗く沈んだ。

「病んだ小魚みたいな(まなこ)から、悲しみが溢れている。……知らない場所で迷うのは、怖くて苦しくて、とても(つら)いものなのでしょう? 祐樹に教えてもらったから、知っている」

「……」

 指先を動かすどころか、瞬きする気力すらない。

 応えずにいると、頬に触れていた少女の指先が、つい、と離れ、労わるように晶の頭に触れた。

 二度、三度と掌を滑らせて、晶の髪を優しく撫でた少女は、囁く。

「少しだけ待っていて? 今、祐樹を呼んでくるから」

 身を退()いて、軽やかに少女が翻ると、細く艶やかな黒髪が頭の動きにあわせて、ゆったりと靡く。やや遅れて、着物の袂が緩慢に宙を泳ぎ、胴を締める淡い桃色の兵児帯(へこおび)が、やわらかに弾む。


 とん、と地を蹴る少女の身体が宙に浮かび上がり、虚を映していた晶の双眸が、微かに見開かれた。


 少女と、彼女を中心とする碧い景色が、晶の目に飛び込んでくる。

 高い……、ずっと高いところにある空には、透明な青白い薄玻璃(うすガラス)をいくつも浮かべたかのような水面が、ゆらゆらと揺らめいている。まるで空を映す広い湖面を眺めているような……、否、水底(みなそこ)から滄溟(そうめい)を見上げているような、不思議な光景だった。

 幾筋も差し込む細く透きとおった光芒は、やわらかな光の薄衣(ヴェール)のように、水紋の動きにあわせて近づいては離れ、時として折り重なり明るみを増す。刹那の光は碧い景色を彩る綾となって、息を呑むような美しい濃淡を織り上げる。

 冴え冴えとした滄溟の空を舞うのは、小鳥ではなく薄鈍色の小魚の群れ。小魚が身を捩るたびに、青みを含む白銀の光芒が弾かれ、鋭い銀の欠片となって煌めいた。

 そんな目を疑う景色の中でも特に奇異であったのは、幼い少女の容姿だった。

 着物の裾から覗くのは、人の持つ二本の足ではなく、(あか)い魚の下半身。しなやかに尾部が翻ると、光沢のある滑らかな鱗が微かな光を受けて、(なま)めく。

  

 視界に収めたものに理解が追い付かない晶の目の前で、繊細な硝子細工を思わせる緋く透明な尾鰭が、優美に水を蹴った。

 水底の砂泥を持ち上げた水が、くるくると小さな渦を巻き、晶の視界の一部を曇らせる。生じた不可視の水の塊が、晶の頬を優しく圧して、とろりとほどける。遅れて、水底をまろぶ砂粒が肌をくすぐった。

 肌に密着するのは空気でなく、しっとりとした夜風を彷彿とさせる冷ややかな水。

 髪の揺れる感覚は、水中に潜った時の、それ。

 落水した記憶は、確かにあった。けれども、なんだかおかしい。

 視界は地上にいるのと変わらず鮮明で、音もはっきりと聞こえている。

 何よりも、普通に呼吸ができている。

 目を醒ましているようで、実は半睡半醒(はんすいはんせい)の状態なのだろうか。


 上空を泳いでいた小魚の一匹が、すい、と晶の許へと下りてきた。

 人間が珍しいのか。

 小魚は臆することなく、ひらひらと晶の周りを泳いで観察している。やがて晶の目の前に留まると、まるで餌を欲しがるかのように、或いは何かを訴えるように、ぱくぱくと大きく口を動かし始めた。


 ――白昼夢に、迷い込んだのかもしれない。


 どこか他人事(ひとごと)のように思いながら、晶は遠ざかってゆく少女の後ろ姿を、ぼぅっと見送った。


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