怪異
目を瞑った直後、再び川に呑まれた晶は、速く激しい水流に巻き込まれた。
氷水に包まれたかのように鋭い痛みを感じた身体が、硬直する。収縮した肺から押し出された空気が口から零れた。晶の身体に纏わりついていた空気と共に、気泡となって、肌を転がり離れてゆく。
遠のきかけた意識を繋ぎ止めるかのように――。
唐突に水の圧から解放され、ふわりと衣服が暖かな空気を含んだ。
覚えのある感覚に、晶は止めていた呼吸を再開する。
「今から配るプリントを、明日までの宿題にする。当てるから、そのつもりでいるように! 号令!」
数学の教科担任の声が、晶の耳に飛び込んでくる。
「また、ここに……?」
半信半疑の声をこぼし、晶は周囲の状況を確認するために瞼を開けた。
「え……?」
教室の風景が、夕暮れ時のように薄暗い。
ぱっ、と窓に目を遣ると、屋外の景色は眩しいのを通り越して、真っ白で何も見えない。建物の外と内の明暗の差異のようで、そうではない。
きっちりと空間が隔てられたかのような、互いが交わることのない、不自然な色彩だった。
「キ、キキキキキキ……、キ、りつ」
低く不鮮明な声で、学級委員が呟く。
かた……、かた、かたかた、と。
椅子の足が床を打ち、教室のあちらこちらで乾いた音を立てた。音に合わせて、生徒がひとり、またひとりと立ち上がる。
ゆらり、ゆらりと微かに揺れて、生徒は皆一様に透明な薄闇色に染まり、深く俯いている。
……なんだか様子が、おかしい。
「レ、れい」
「あぁぁぁ、りがとう、ござい、マシ……タ」
椅子に腰かける晶は、ぐるりと教室を見渡した。
俯く生徒たちの顔を、するりと垂れた髪が隠す。色濃い影が差して、誰ひとりとして表情が読み取れない。
晶は、恐るおそる隣の席の女子生徒の顔を覗き込もうとする。
「……佐々木?」
――瞬間。教室に、完璧な闇が落ちてくる。
椅子を弾いて勢いよく立ち上がる晶は、慌てて首を巡らせる。だが、視界は墨一色に閉ざされたまま。
窓はおろか、教室に射し込む一筋の光すらない。
「な、に? 停電……?」
窓が消えてしまうだなんて、有り得ない。
何が起きているのか、理解できない。
晶は振り向きざま、背後にいるはずの友人の名を呼ぶ。
「大知、……直哉!」
――潮が引くように、すぅ……、と闇が遠のいてゆき、教室に再び仄暗い景色が戻ってくる。
「晶、もう帰るなら一緒に……」
いつの間にか目の前に立っていた直哉に、晶は、びくりと肩を震わせる。
「なお……っ!」
兎も角、直哉に異変を伝えようとした晶は、息を呑んで言葉を失う。
他の生徒と同様、深く俯く直哉に、いつもの快活さがない。
「俺も俺も、帰るー」
近づいてくる大知に顔を向けた晶は目を見開き、次いで困惑し、眉をひそめた。
項垂れ、目を合わせようとしない大知の顔を、そろそろと覗き込む。
「……大知?」
名を呼ばれても、大知は、ぴくりとも動かない。肩に触れて前を向かせようと、晶は彼に手を伸ばす。
――ほんの刹那、闇が鋭く閃いた。
闇に視界を奪われ、怯んだ晶は、伸ばしかけた腕を引っ込めて、ふたりの様子を窺う。
大知も直哉も、不自然なまでに無反応だった。
そして大知が、二度繰り返した言葉を、もう一度口にする。
「あのさ、試験前なのに国語の授業で課題が出てたじゃん。日本の近代文学作品の中からひとつ選んで感想文を書けって。……お前ら、もう何か読んだ?」
吐き出された覇気のない声に、大知の意思が感じられない。大知であるはずなのに、まるで大知を模した魂のない人形と対面しているかのような異様さを感じとり、晶は戦慄する。
(一度外へ……!)
この場を離れたい衝動に駆られた晶は、大知の脇をすり抜ける。廊下へ出ようとして、教室の扉の引き手に、手をかけた。
「! ……開かない!?」
どんなに力任せに引いても、教室の扉はびくともしない。
――ぱたぱたぱた……、と、せわしなく闇が点滅する。
流れるように自然に、晶の口が開いた。
慌てて片手で口を押えるも、指の隙間から声が零れてゆく。
「いいよ。運動部は忙しいもんな。その代わり俺の感想文と被らないように、あらすじとか要点を詳しく説明することになるけど、時間ある?」
晶の双眸が、驚愕に見開かれた。
止めようとした。けれど、止められなかったのだ。
何か得体の知れない力が働いているのだと、晶は漠然と理解する。
――圧を伴う闇が教室を呑み込み、轟々と列車の如く駆け抜けて行った。
闇が霧消し視界が晴れると、目に飛び込んできた景色に、晶は呆然となる。
「どうして、……河原に?」
教室にいたはずなのに。それに、ひどく薄暗い。
霧消したはずの闇が、濃度の高い黒い霧となり、ぞわぞわと足許に蠢いている。
近くに腰を下ろしている大知が、顔を上げずに囁く。
「内容、ガ……重すぎ。ソレ、……れた、ちが読……」
抑揚のない大知の低い声が、消えそうに掠れて、よく聞き取れない。
座り込む大知が黒い霧に呑まれてしまいそうに思えて、晶は咄嗟に彼の腕を取った。立ち上がらせようとして力いっぱい腕を引くが、大知は岩のように動かない。
「大知、ここから離れるぞ……! 直哉も!」
振り向き、直哉に腕を伸ばした晶の顔が恐怖に引き攣り、色を失う。
そこにあったのは、人の形をした色濃い影の塊。おそらく、さきほどまで直哉であったものだと、晶は直感する。
「う、うわ……っ」
尻もちをついた晶が、ずるずると地を這って後退る。影の塊から逃げ出そうとして、腰を浮かせた。
――ざぁ……、と黒い霧が空高く舞い上がり、上空に溜まってゆく。
「動かないで……! そこでじっとしていて……!」
静かに誡める声が、すぐ背後で聞こえた。誰かの腕が、するりと晶の腕に絡みつく。
「……っ!」
恐慌をきたした晶が、声にならない悲鳴を上げた。
腕を振りほどこうとして暴れると、絡みついた腕は、ますます強く絞めつけてくる。
「大丈夫だから落ち着いて! 暴れないで……!」
耳許で懇願する声は、大知や直哉のものではない。知らない少年の声だった。
呼吸を荒くする晶が、声の主を確認すべく、隣を見遣る。
夏の学生服を着用した少年の、訴えかけるような濃褐色の瞳が間近くあった。
驚きが不意を突き、晶の全身を支配していた恐怖が、わずかに麻痺した。
「……誰?」
すっぽりと、暗闇に包まれた世界で。
制服の袖口から覗く少年の腕や顔色は、透けるように白かった。薄闇を纏うかのような慎ましい白肌は、周囲と真逆の色彩でありながら調和し、馴染んで見える。
少し幼い面立ちをした少年の肩幅は狭く華奢で、巻き付く腕も細くしなやかだ。歳は晶よりも下で、十四、五くらい。……中学生だろうか。
晶と視線を重ねた少年は、ほっとしたように表情をやわらげる。
「僕は、祐樹といいます」
「祐樹?」
学校では聞いたことのない、知らない名だった。
ええ、と小さく頷いて応えた祐樹は、しっかりと捕まえた晶の腕に視線を落とし、焦ったように早口でまくし立てる。
「川に落ちる前に拾った小石を、まだ持っていますか? 捨ててしまったりしていませんか? 僕の連れが、一部始終を見ていたそうなのですが」
「小石……?」
眉根を寄せて、晶は、しばし考え込む。
もしかして。
晶は、制服ズボンのポケットに右手を滑り込ませる。
拳に握った手を引き出して開くと、ほのかな青みを帯びた薄鈍色の小石があった。
真剣な眼差しで小石を見つめる祐樹が、そっと指先を伸ばし、小石に触れる。
すると、滑らかな小石の表面が、まるで水面に立つ波紋の如く、小さく波打った。
祐樹は安堵するかのように、ほぅ、と吐息を漏らす。
「これです。決して、この小石を無くさないでください。おそらくこれが、あなたの命綱になるから」
「命綱……?」
「そう。この小石は、現世に在りながら冥路と重なるこの場所で、長く、永く磨かれた特別なもの。冥路に生じた変則的な径に迷い込んだあなたと、現世を繋ぐ命綱であり、同時に錨としての役を得た、大切なものです」
そう言って、祐樹は両手で晶の手を包み込み、再び小石を握らせた。
「冥路の、径? ちょっと訳が分からな……」
――空に舞い上がった黒い霧が凝って闇となり、下降し始めた。
背後から風を思わせる闇の圧を感じ、ふわ……、と晶の髪が靡く。
「あなたがひとりで淵に近づけば、逆巻く渦に巻き込まれてしまいます。……動かないでください」
祐樹は、闇が流れてゆく方向に視線を滑らせる。
真っ暗な視界で唯一、ぽっかりと浮かんで見える景色は、晶が川に落ちた箇所と、そのすぐ川下にある淵。
状況を呑み込めずに、ぽかんとする晶に、祐樹は淵を指差し、視線を誘う。
「冥路とは、生者の住む現世と死者の往き着く冥界を繋ぐ、通路のようなもの。径とは、冥路から細く岐れた様々な小道のことです。あの淵は、現世の川の流れと冥路が複雑に絡み合って生じた綻びでもあるのです。淵に向かって、川を流れてくる木の葉が見えますか?」
「木の葉? ……ああ」
白泡の立つ急な流れを、一枚の木の葉が滑り下りてくる。
淵の手前に生じた小さな渦に呑まれた木の葉は、一旦水に引き込まれて沈み、ぽっと水面に浮き出る。
木の葉は反転する流れに乗り、するすると川を遡上する。やがて本流に吸い寄せられて再び川を下り始め、渦に巻き込まれる。
それを、何度も繰り返す。
「淵に落ちきることもできずに、冥路に発生した逆巻く渦に巻き込まれる木の葉。喩えるならば、それが今のあなたです」
木の葉は何度か渦に巻き込まれると、少しずつ流れから外れて、水面に浮き上がってこなくなる。
……ゆっくりと本流の外へ、水底へと落ちてゆく。
「このままだと、あなたは現世でも冥界でもない、冥路からも外れた歪みに落ちてしまいます。それに本来、渦に巻き込まれるはずのあなたが留まることで、この場が不安定になっています。一旦ここから離れたいのですが、……構いませんか?」
控えめに尋ねる祐樹が、細かな話はその後で、と付け加えた。
二度、三度と同じ時間を繰り返した自分が、水の流れに巻き込まれる木の葉に等しいのだと、それだけを理解した晶は、戸惑いながらも祐樹に訊き返す。
「でも、さっきも身体が勝手に川に寄っていったんだ。……離れるって、どうやって?」
――闇の流れが速くなり、背中に感じる圧が一層強くなる。
にこ、と祐樹はやわらかに微笑んだ。
「大丈夫。現世と冥界の影響を受けない僕が、一緒だから――」
晶の腕に絡められた祐樹の腕が緩んで滑り、しっかりと手首を掴んだ。
「ついてきてください」
ぐっ、と晶の手を引いて、祐樹が駆けだす。
祐樹の向かった先は、闇が流れ込む渦から、わずかに逸れた川下にある淵。
「え……?」
川辺で、晶が足を止めるよりも早く振り返った祐樹は、両手で晶の手首を思いきり引っ張った。同時に地を蹴り、淵に背面を向けたまま飛ぶ。
祐樹に手を引かれ、淵に落ちてゆく晶の視界に、真白の着物に身を包んだ幼い少女の姿が映り込む。
水底から祐樹と晶に両手を差し出す少女は、二巡目に目を合わせた――。
淵の手前にある岩に腰を掛け、川に着物の裾を浸していた少女だった。