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水底に咲く花  作者: 和奏
夏陰
5/27

循環


 息を止めて目を瞑った、直後――。

 瞬時にして晶の全身は、水に呑み込まれた。

 水の勢いに巻き込まれて、転がされ、もみくちゃになりながら川底に押し込まれる。

 肌を刺す、鋭利な刃物のような山の水の冷たさに、一瞬意識が遠のきかけて……。

 ふと、身体を締め付けていた水圧が緩むのを感じた。

 息苦しさを堪えきれずに、口から息を吐き出して、晶は妙な違和感に襲われる。

 口からこぼれた空気は気泡とならずに霧散して、肌に水の動きを感じない。

 自然と息を吸い込んだ晶の耳に、声が飛び込んできた。


「今から配るプリントを、明日までの宿題にする。当てるからそのつもりでいるように! 号令!」


 直哉や大知のものでないその声に、晶は、ぱっと目を見開いた。

「……え」

 川に落ちたはずなのに、視界に映るのは見慣れた教室の景色。

 腰掛けているのは自分の席で、黒板に記されていた数式は、今日の六限目の授業のもの。

 動揺しながらも教室を見渡す晶は、制服の襟元に触れた手を、うなじに這わせる。

 制服も肌も、髪も乾いている。


「起立」

 学級委員の声に、あちらこちらで椅子が騒がしい音を立てる。

 思考の停止した晶は、号令に従うことができない。

 教壇に立つ数学の教師が、直立する生徒たちに遮られて見えなくなった。

「礼!」

「ありがとうございました」


 ゆっくりと目を瞬かせた晶は、半信半疑で呟く。

「……夢?」

 夢を、みていたのだろうか。

 ――否。

 夢、という感じではない。

 耳の奥に残るはっきりとした直哉や大知の声、眼底に焼き付いた鮮明な川の景色、そこかしこに漂う夏の青い香りを身体が鮮明に覚えている。

 ……忘れようのない、肌を突き刺す水の冷たさ。

 あれは、たった今『体験』したものだ。


「晶」

 遠慮がちに名前を呼ばれ、びくりと小さく肩を震わせた晶が、振り返った。

 直哉は、晶と顔を合わせると、怪訝そうに小首を傾げる。

「? びっくりした顔をして、何かあった?」

「いや……」

 直哉の顔をしげしげと見つめて、晶は答えに詰まる。

 

「晶、もう帰るなら一緒に……」

「俺も俺も、帰るー」

 直哉の言葉を遮ってやってきたのは、大知だ。

 晶の脳裏に、先程大知と交わした会話が過る。

「あ、もしかして、サッカー部は試験前で休み……?」

「そうだよ。な? 直哉」

 大知に同意を求められた直哉の頷く顔が、晶の記憶にあるものと、ぴたりと一致する。

 げんなりとして溜め息を落とす大知の顔にも、見覚えがある。


「あのさ、試験前なのに国語の授業で課題が出てたじゃん。日本の近代文学作品の中からひとつ選んで感想文を書けって。……お前ら、もう何か読んだ?」

 覚えのある声音で、一言一句違わずに繰り返される大知の言葉に、晶の背筋が凍り付いた。

 じっとりと、掌に嫌な汗が滲む。

 拳に握ろうとして動かした指先が、制服ズボンに引っかかった。

 布越しに揺れる微かな重みを太ももに感じて、晶は、右手を制服ズボンのポケットに滑り込ませる。

 指先に伝わるのは、滑らかで冷たい感触。

「……小石」

 河原で拾った小石が、ズボンのポケットに残っている。

 偶然でも、夢でもない。


 ――夢でないのなら、これは過去だ。


 確証を得て、晶の全身が総毛立った。

 直哉と大知の言動は、晶の知る過去を辿るもの。

 川での出来事を口にしない直哉と大知の様子から、この状況をおかしいと感じているのは、晶ひとりだけ。

 動揺する晶の口から、『ふたりと自分の違い』の答え合わせをすべく、細い声が零れる。

「もしかして……、前に、ふたりして職員室に呼ばれたりした? 巻末の後書きを感想文で提出した、とかで」

「えぇ!? どうして知ってるの?」

 直哉が驚いて双眸を見開くと、大知は、ばつが悪そうな渋い顔をする。

「なんだ、見られていたのか。一応、ちょっと変えて提出したんだけど、ばれちゃってさ。だからさ、もしも直哉か晶が本を読み終わっていたら、感想を聞かせてほしいと思って」

「俺は、まだ読んでないんだ。晶は?」


 やはり直哉も大知も、この会話を覚えていない。

「……読んだよ」

 力ない声で直哉に応え、晶は、過去に戻ることになった原因に考えを巡らせる。

 ふたりと一緒に下校して、河原へと下りたところまでは、特におかしなところは思いつかない。

 ただ、時間が教室に戻る直前に、晶だけが川に落ちている。

 そこだけが、ふたりとは違った。

 川に落ちたことが原因なら、落ちなければいいだけのこと。

 落ちさえしなければ、このおかしな出来事も終わるはずだと、晶は考える。

 

「どんな話だったのか、内容を教えてくれ」

「俺にも……!」

 大知と、彼に便乗する直哉に応えるべく、ふたりに視線を向けた晶の口から、言葉が勝手に滑り落ちてゆく。

「いいよ。運動部は忙しいもんな。その代わり俺の感想文と被らないように、あらすじとか要点を詳しく説明することになるけど、時間ある?」

 驚愕の表情で目を瞠った晶は、言い終えるや否や息を呑み、口を引き結ぶ。

 それは間違いなく、一度は自分の口から発せられた言葉。

 ふたりの頼みを断る心算(つもり)はなく、確かめるために、川へ足を運ぼうとも思っていた。

 しかし、言葉は晶の意思を置き去りにして放たれた。まるで、あらかじめ定められた流れの上を無理矢理なぞらされているかのような、薄気味悪さがあった。


「もう下校しないとまずいから、教室は駄目だな。んー、ちょっと回り道して帰ろうぜ」

「俺は時間大丈夫だけど、晶は? まだ家の方が落ち着いていないだろうし、試験勉強だってできていないだろ? 遅くなると、まずいんじゃないの?」

 明るい顔の大知と、表情を曇らせ気を遣う直哉を交互に見て、晶は、教室の壁掛け時計で時刻を確認する。

 ――十五時三十分。時間も同じ。

「いや、……大丈夫だよ」

 一度目とはまったく違う心境で、晶は、ふたりに答えた。



 校舎から一歩足を踏み出すと、真夏の太陽のまばゆい白光(はっこう)に灼かれた景色が、白く褪せて見える。

 特に変わりのない、二度目の夏の景色だった。

 晶は鞄から出した高機能携帯電話端末(スマートフォン)の画面を一瞥し、日時を確認する。

 ――6月29日 木曜日 15:40――

 

 帰り道を逸れて、ふたりと共に河原へと下りた晶は、課題の書籍のあらすじと内容を、かいつまんで説明する。

 晶は時折、わざと記憶にあるものと違う受け答えをするのだが、それに対してふたりが反応を示すことは、特になかった。

 逸らしても結局、同じ会話に行き着いた。


「内容が重すぎないか? それ、高校生(おれたち)が読むような本なのか?」

 書籍の内容について大知が感想を呟くと、直哉が「まぁ、確かに」と、拾った小石を手の内で弄ぶ。

 直哉の手から放たれた石は、川面をよっつ跳ねてから、水に呑まれて消えた。

 書籍を鞄にしまった晶は、右手に触れる適当な小石を拾って、それを見つめる。

 ……何の変哲もない、ただの小石だった。

 一瞬。

 制服ズボンのポケットに在る小石を投げてみようかと考えて、晶は思い留まる。

 小石を持っていたからこそ、この不思議な現象を、夢でなく現実だと認識できたのだ。

 ポケットの小石を手放すのは、川に落ちずにすんでからにしよう。そう決めて、立ち上がった晶は、溜め息をこぼした。


 拾ったばかりの小石を眺め下ろして、思う。

 ――水切りをしないで、川に投げ入れてみようか。


 おもむろに水辺に近づいて、晶は、できるだけ遠くに小石を放った。

 とぷ……、と水音を立てて、小石は川に吸い込まれてゆく。

「お、結構飛んだな!」

 小石が着水するまでを目で追っていた直哉が、明るく声を弾ませ、足許に視線を落とした。

 水面に生じた波紋が水の流れに歪み、白泡に消されてゆくのを眺めていた晶の双眸が、大きく見開かれる。


 夏の景色を映した、視界の端。

 ちょうど先程、晶が落水したあたりだろうか。

 季節や景色と不釣り合いな真白の着物に身を包んだ、幼い少女の姿があった。

 飛沫を散らして(せわ)しなく流れる水の、川面から突き出た岩に腰掛ける少女は、着物が濡れるのも厭わず膝から下を川に浸し、まっすぐに晶を見つめている。肩に着くかつかないかの艶やかな漆黒の髪と同じ、大きな黒い瞳に、水紋に揺らされて散る夏の白光を湛えながら――。


「えっ……」

 忽然と現れた少女に目を奪われ、晶は、しばし呆然とする。

 そして、少女が水に足を浸していることに気づいて、はっと我に返った。

 白泡の立つあの辺りは、川幅が狭く流れが急だ。

 速い水の流れに足を掬われれば、身体の小さな少女は、あっという間に水に押し流されてしまうだろう。

 ひやりとして、晶は少女に声を投げた。

「危な――!」


「おーい!」


 川上から直哉と自分を呼ぶ大知の声に、ほんの刹那、晶は少女から視線を外す。

「ちょっと待って! そこに小さな子供が……!」

 ぱっ、と淵に視線を投げると、既に少女の姿はない。

「……え?」

 晶の視線を追う直哉が、怪訝そうに眉根を寄せる。

「子供? どこに?」

「今、確かに……」

 まさか、目を離した一瞬の隙に、水へと落ちてしまったのだろうか。

 少女を探しに川下へと足を向けた晶の背後で、大知の声がする。


「あ、……っぶね! わっ」


 大知を振り返った晶の口から、予期しない言葉が勢いよく放たれた。

「おい、靴!」

 自分の声を耳で聞き、晶は色を失う。

 大知を見ていなかったのに。

 革靴のことは、すっかり頭から抜け落ちていたのに。

(なん、で?)

 次の瞬間、晶の身体は背後から押し出されるようにして、勝手に淵に向かって走り出していた。

 止まろうとしても、身体は、いうことをきかない。

(声がでない……!)


「晶、止せ! お前……っ!」

 大知の制止の声を聞きながら、一度通った岩を迷いなく渡った晶は、川上から流れてくる革靴に、目一杯腕を伸ばす。

 指先が革靴の踵に引っかかると同時に、すぅっと、身体が川面に引き寄せられてゆく。


 ――落ちる。


「晶!」

 晶を呼ぶ直哉の切羽詰まった声が、河原に響き渡った。


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