落水
川面を滑り、水の香りを含む爽やかな微風が、汗ばんだ首筋から熱を奪ってゆく。
猛暑に火照る身体に涼を感じて、晶は川に視線を投げた。
緩やかに蛇行して流れる川には、大きめの岩がごろごろとしている。
川の水面は忙しなく踊り、どこひとつ切り取っても同じ動きをしていない。流れがなだらかに見える個所にも小さな漣が立ち、透明な水は留まることなく、ゆるりと力強くうねる。
大きな岩の間を通り抜ける水は互いにぶつかり合い、空気を含んで白く泡立ち跳躍する。川は、ひとつの大きな生き物であるかのように生き生きとして見えた。
河原の岩に腰を下ろし、晶が選んだ書籍のあらすじを一通り聞き終えた大知が、げんなりとした顔を俯け、吐息交じりに呟く。
「なぁ、教えてもらっておいてなんだけどさ……。それ、ちょっと内容が重すぎないか? 高校生が読んで感想を書くような本なのか?」
「まぁ確かに。親の遺伝を残したくないから、胎児が生まれてくるのを拒否するとか……、失業者を国が殺して、その肉が市場に出るとか、ちょっときついかなぁ。ただでさえテスト前で憂鬱なのに、やる気っていうか、生きる気力すら削がれそう。……っていう感想なら書けそう。あれ? むしろ書きやすいのかな?」
肩を竦めて苦笑いする直哉を一瞥し、大知は辟易として言い捨てる。
「無理無理! 俺は人肉とか、ぜーったいに無理! もしも家族や知り合いの肉だったら、どうするんだよ!」
話は終わりだといわんばかりに大知は腰を上げて、大きく伸びをした。
「変なこと言うなよ! そんなの誰だって嫌に決まってるだろ。……ねぇ?」
直哉に同意を求められて、晶は視線を上げることなく書籍を鞄にしまう。
「まぁ、ね……」
薄らと口を開いて、止まる。
些細な死の話が、邂逅したばかりの死と結びつく。
視界に映る現実の景色が曖昧になり、記憶が覆いかぶさってくる。有無を言わさず脳裏で再現されるものに、思考が奪われる。
受付を済ませ、母の後について小走りで進む病院の廊下。
ナースステーションの看護師が、カウンターから顔を突き出して示すのは、すぐ近くにある一枚の扉。
扉を開けた母がベッドに駆け寄り、その脇に立つ医師と看護師は沈痛な面持ちをして、わずかに俯いていて。
薄暗い、静かすぎる個室に違和感を覚えた晶は、次いで気づく。
ベッドと医師の間にあるモニターは真っ暗で、何も映してはいない。
父の命を繋ぎ止めているはずの、人工呼吸器の音が聞こえない。
その意味を漠然と知るも、晶の心は凪いでいて何も感じない。
「……薄情、だよな」
自分の口から零れる掠れた声が、晶の意識を現実に引き戻した。
はっとした晶は、急ぎ言葉を継ぐ。
「ああ、死んじゃったんだ。って思うけれど――」
父の死に動揺しない自分自身に、衝撃を受ける。
哀しむ母の姿に打ちのめされ、懸命に治療してくれたのであろう医師の沈んだ顔に、深い罪悪感を抱く。
ただ、それだけ。
「――食べないよ」
無感情な氷の声音で、晶は静かに呟く。
「……」
何かを言いかけた直哉が、気まずそうに晶から視線を外し、小石をひとつ拾い上げる。
立ち上がった直哉は、地面と平行に大きく腕を振って、川に小石を放った。
直哉の手を離れた小石は、ひとつ、ふたつと勢いよく水面を跳ねて滑り、よっつめを数えた直後に水のうねりに呑まれて消えた。
ぼんやりと水面を眺めていた晶も、地面に鞄を置いて、右手に触れる小さな石をひとつ、手に握った。
そういえば、幼い頃。
父方の親戚の葬儀に、家族で参列した時だったろうか。
見知らぬ人たちに囲まれて居心地が悪く、和真と共に親戚宅を抜け出して、裏を流れる川の畔で水切りをしたことがあった。
和真の放つ石は、きれいに川面を跳ねてゆくのに、晶の放つ石は一度も跳ねることなく水に沈んでしまう。
水切りが上手くできなくてむくれる晶に、角のない薄い石を選んで『こういうのが良いんだ』と手に握らせたのは、たぶん父だった。
初めて水切りができた時の驚きや、喜びといった感情に紐づけられた父の記憶は、すんなりと受け入れられた。
朧げな古い記憶を反芻しながら、晶は水辺に近づく。腕をしならせ手首を利かせ、拾った小石を放った。
晶の指先を離れた小石は、回転しながら水の上を軽やかに跳ねてゆく。
川を渡る勢いで飛ぶ小石に、直哉が目をまん丸にした。
「ふたつ、みっつ、……え? 十以上飛んだ!?」
言い終えるや否や、下を向く直哉は、俄然真剣な眼差しで石を探し始めた。
つられて晶も、次に投げる手ごろな石がないか、足許に視線を這わせる。
――自然と、ひとつの小石に目が留まった。
それは幼い頃、父が晶に握らせた小石に、よく似ていた。
平たく丸い、滑らかな表面をした艶っぽい小石は、白くも黒くもない。夏の強い白光を浴びて、ほのかに青みを帯びた薄鈍色をしている。
周りに落ちている小石とは、わずかに色合いの違う、それ。
しっくりと手に馴染みそうな、きれいな小石に、晶は手を伸ばしていた。
「おーい!」
大知に呼ばれ、直哉と晶は同時に顔を上げた。
声を辿り、視線を滑らせた川上――。
ほぼ、川の中央。
大きめの岩の上に大知の姿を捉えた晶は、大きく目を瞠った。
大知は革靴を履いたまま、川に転々とする岩を渡っていったのだろう。
しかし、ごつごつとした形状の岩は、お世辞にも良い足場とはいえない。
「えっ!?」
「……いつの間に」
呆れ顔の直哉が、溜め息をもらした。
機嫌良さげな大知は、足場の不安定な岩から身を乗り出して、真下を流れる川を覗き込む。
「なぁ! この辺に鯉とか、大きな魚がいるんじゃないか? さっき何か跳ねたっぽ……、っ!」
ぐらり、と大知の上半身が大きく前に傾いだ。
直哉と晶の見守る中、大知は咄嗟に身体を屈めてバランスを取り直し、落水を免れる。
晶が、ほっとしたのも束の間。
後退ろうとする大知の、後ろに引いた踵が岩場を滑った。
「あ、っぶね! わっ!」
岩を掴んで、その場に屈みこんだ大知の片足が川に滑り込み、水に浸かった。
ぷか……、と水面に浮いてきたのは、大知の革靴だ。
呆気にとられ、目を丸くする直哉は、脱げた大知の革靴に気づいていない。
跳躍する水に弄ばれる靴は、くるくると弧を描いて川面を浮き沈みし、まるで踊りを踊るかのように軽やかに流れだした。
「おい、靴!」
ひと声残して駆けだした晶は、流れる靴を拾えそうな川下の岩場を探す。
川幅が狭まり、飛沫を散らす白泡が道のように見える急な流れの脇に、大きな岩があった。そのすぐ川下は淵になっているのか。たっぷりとして青く澄んだ水が、透明度の高さと、川底までの深さを物語っていた。
大岩の手前には、小さめの手ごろな岩がいくつかある。そこであれば、容易に水面に手が届くはずだ。
目算しながら、晶は手に握っていた小石を、制服ズボンのポケットに突っ込む。
するすると流れてくる革靴から目を離さずに、岩場を渡りはじめる。
岩の端ぎりぎりに立つと、一息つく暇もなく大知の靴が近づいてきた。
「晶、止せ! お前……っ!」
大声で制止する大知の声を無視し、前のめりになって屈んだ晶は、目一杯手を伸ばす。
水流に翻弄される革靴は、生き物のような動きで、すぃ……と、晶の目の前から遠ざかる。
逃すまいとして上半身を押し出す晶の指先に、革靴の踵が引っかかった。
革靴の受ける水の抵抗を指先に感じ、安堵するのと同時に緊張が緩んだ。
靴を拾い上げようと腕に力を入れた刹那、身体が、ふわ……と宙を泳ぐ感覚に、はっとなる。
晶は反射的に身を強張らせ、息を呑む。
――落ちる……!
「晶!」
水に呑まれる寸前、直哉の叫ぶ声が聞こえた。