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水底に咲く花  作者: 和奏
招致
35/35

神饌

本話には、死の表現が含まれます。

苦手な方はご注意ください。


 冷たい玻璃を思わせる明澄(めいちょう)な水は、どこまでも曇りなく、宵闇の空の如く(あお)い。

 かやは、水底から遥か頭上にある境界面(みなも)を、仰ぎ見た。


 ――水神の住まう池。


 そこに投げ込まれたであろう俵は、さながら宙を彷徨う黒い塊のようだった。

 屈強な男でも、担ぎ上げなければ運べぬであろう大きさの俵は、水に抱かれて緩慢に揺らぎ、ゆるりと転がりながら水底におりてくる。

 藁の隙間から、たくさんの細かな気泡が滑り出てゆく。水面から降りそそぐ、ほのかで心許ない光を浴びて、気泡は歪な硝子細工の如く輝き、くるくると躍りながら明るい空へと昇ってゆく。


 一匹の小魚が俵の真横を、すぃ、と通り過ぎる。……だが。

 興味を惹かれたのか。

 すぐに翻り、俵の下方へ回り込み、ほつれた藁を戯れに口で突く。

 二匹、三匹と小魚が水を滑り、集い、俵を突きはじめた、瞬間――。


 びくん。


 気のせいかと思うほどに小さく、俵が動いた。

 不自然な水の振動を感じとった小魚たちが、即座に俵と距離を置いて、遠巻きに様子を窺う。


(水神が住むと信じられている神聖な池に、どうして俵なんて……?)

 水底におりてから今までに、こんなことは一度もなかった。

 強烈な違和感と、そして。

 ……何故か。

 ぞくり、と晶の背筋を冷たいものが這った。

 晶は、幾本もの静謐という手に捕らえられ、底知れぬ闇へと引き摺り込まれるような……、そんな妙な錯覚に襲われる。


 かやと小魚たちが、見守る中。

 水底に辿り着いた俵は、ふんわりと砂泥を巻き上げ、かやの手の届く位置に、音も無く横たわった。

「米……俵?」

 かやは前のめりになり、俵に顔を寄せて注意深く見回す。

 そして。

「……っ」

 ぎくりとして、息を呑む。

 俵の内側から押されるように膨らんだ箇所。藁から突き出ているのは、白い手首。

 かやよりも一回り小さな、人の手だ。

 静止したままの指を見つめ、かやは呆然と立ち尽くす。

 同様に、衝撃を受けた晶の思考も停止する。


 ――死、ダ。


 耳許で囁かれる小魚の低く掠れた声が、やけにはっきりと聞こえた。

 大きく目を見開いて、かやは耳許に留まる小魚に、恐るおそる顔を向ける。

 小魚は、おもむろに口を開く。


 ――死者……だ。


 別の小魚が、かやのもう一方の耳許で声を発した。


 ――死を迎えた、モノ。


 かやが小魚に意識を向けると、俵の周りをひらひらと舞う小魚たちは、口々に囁く。


 ――『錨』を。

 ――持たざる者。

 ――死者と……ナリ。

 ――冥路を、往く。


「何……? を」

 理解が及ばないといったふうに、かやは声をもらす。

 すぅ、と白い靄が俵から抜け出して、かやの傍らで、はっきりと人を模った。

 かやと同じ、白衣に身を包むのは、女児だ。

 九つかそこらの歳の女児は、背まで伸びた艶のある黒髪を、やわらかに揺らす。俯きがちに小首を傾げて、かやを無感情に見つめた。

「!」

 かやは、これ以上ないくらいに大きく目を見開いた。


(似ている!?)

 かやと、見間違うくらいに。

 けれども、かやよりも明らかに幼い。

 (にわ)かに混乱する晶は、もうひとり、彼女に似た女児を思い浮かべる。

(まさか、さよ⁉ 否、でも……)

 さよは、もっと幼かったはず。

 晶は、胸に湧いた不安を打ち消そうとするも、それは霧の如く胸に立ち込めて、消えない。

 かやが『錨』を手放してからの時間の認識は、ひどく曖昧だった。

(嘘、……だろ?)

 心が、凍り付く。


 かやと視線を交わしたまま、霊体の女児は、ふっくらとした唇を小さく動かす。

 声なき言葉を、唇がなぞった。


 ――ねえ、さん。


 かやの硬直していた身体が、雷にでも打たれたかのように震える。

 (うっす)らと開いた唇から、吐息にも似た声が、静かにこぼれ落ちた。


 さよ、と。


 ひゅっ、と細い息が咽を通った。

 かやは、弾かれたように俵へと向き直る。俵を縛っている紐の結び目に指を掛けて、解こうとした。

 肩や腕の皮膚がじんじんと痺れて、感覚が鈍くなる。

 温度を失った指先に力が入らず、上手く結び目を解くことができない。

 かやは、ぐっ、と奥歯を噛み締め腹に力を入れる。結び目に指をねじ込み、解いてゆく。


 ぽろ……、と藁で編まれた蓋が外れて――。


 蓋を追うように、俵の口からこぼれでた長い黒髪が、ふわりと水を泳ぐ。

 かやはすぐさま、俵に手を突っ込み、押し込められている人の着物を掴んで引っ張った。


 俵から引きずり出されたのは、たった今、かやの傍らで人を模ったのと同じ、女児。

 ただ、ぴくりとも動かない。

 弛緩した女児の身体は、ゆったりと人形の如く水に揺蕩う。しなやかで真っ直ぐな黒髪が、ばらばらと広がり、女児の青白い顔に薄影を落とす。

 視線の交わらない虚ろな双眸を目に映し、かやは身を竦ませる。

 ……やや遅れて。

 かやの眼前で、俵から滑り出る女児の白い小袖が、自由を得た小鳥の翼のように広がった。……何か、小さな緋色の物が、女児の袖口から水底に落ちる。


「……ぁ」


 かやの足許にあるのは、巫女装束の緋袴と同じ色の布袋。

 小鈴の付いた、口紐。

 見覚えのあるそれに、かやの目が釘付けになる。

 まつが、姉妹を村から逃がすために用意した、銅銭の納められている布袋だった。


「……ぅ、あ、……あっ、ぁああ……っ!」

 声をくぐもらせ、かやは水に漂う女児の顔を、じっと見つめた。

 がくがくと膝が震えて、いまにも崩れ落ちてしまいそうだった。

 力の入らない手を、そろそろと女児の頬に伸ばして、けれど、青褪めた生気のない肌に触れることができない。

 行き場をなくし、心許なく惑う指先が、唐突に固まった。


(青あざ?)

 晶は、女児の口許から頬にかけて、皮膚が変色していることに気づく。


 女児の頬から腕へと、ぎこちなく視線を這わせ、かやは両手で口許を覆った。

 晶は、目を疑う。

(まさか、俵に無理矢理押し込めたのか⁉)

 小袖から覗く女児の手首や腕にも、強く掴まれたような(あと)があった。

 かやの胸が締め付けられるかのように痛み、ぐぅっ、と咽が潰れて呼吸が苦しくなる。

 口許がどうしようもなく歪んで引き攣り、目頭はじんわりと熱を帯びる。

「さ……」

 女児に呼びかけようとして声を詰まらせた、かやは。

 傍らに立つ霊体となった女児を見遣り、ほんの少し躊躇った。

 次の瞬間――。

 かやは、勢いよく腕を伸ばして、水に漂う女児の身体を引き寄せ、胸に抱きしめる。

「まだ! まだ、今上がれば……!」

 一縷の望みを言葉にすることで、かやは自分自身を奮い立たせる。

 込み上げる嗚咽を喉に留めて、きつく唇を引き結ぶ。胸に溜まる息を吐きだし呼吸を整えると、足首に結わえられている縄を掴み、足を引き抜こうとした。

 しかし、足首にぴたりと巻き付く繩は、びくともしない。

 それなら……と、かやは、重石に片足を乗せて押さえつける。

 両手に縄を巻き付け、ぐい、と思いきり横に引く。すると重石が揺らぎ、結わえていた繩がずれて、呆気なく外れた。

 間髪入れずに、かやは水面を見据え、水底を蹴った。女児を抱えていない方の手で水を掻き、浮き上がろうと懸命に足掻く。


「え……?」

 戸惑いの声が、かやの口からこぼれた。

 わずかに浮き上がった身体は、何度水底を蹴っても、すぐに水底に引き戻される。

 どうあっても、かやは水底から離れることができない。

 身体が、水に浮かない。

「どうして!?」


 一匹の小魚が、かやの目と鼻の先で身を(よじ)った。

 ――無駄だ。


 かやは、顔を跳ね上げた。

 素早く周囲に首を巡らすと、はっとして身を竦ませる。


 いつの間に、集まったのか。

 かやを取り囲むのは、高く聳え立つ黒ずんだ壁。

 ぞろりと蠢き水中を旋回する、夥しい小魚の群れだった。痩躯が捩られる度に散らされる、薄鈍色の鋭い光を目にして、かやの頭から音を立てて血の気が引く。

 かやの周りを泳ぐ小魚たちが、ひそひそと言葉を交わしあう。


 ――哀れな。

 ――愚かな。

 ――『錨』の役を担うものを、持たぬのに。

 ――水を蹴る尾鰭を、持たぬのに。

 ――還ろうとするなんて。

 ――泳ごうとするなんて。

 ――生きている『人』とは。

 ――思考する『個』とは。

 ――なんと、不憫な!

 ――やはり、面白い!


「『錨』?」

 真摯な声音で、かやは訊き返す。

 すると。

 ぽつり、ぽつり……と。渦巻く魚群から、まるで降りはじめの小雨の如き声がする。それは、(にわ)かに数と勢いを増して、激しい雨音のように騒めいた。


 ――『錨』とは。

 ――冥路の、不思議の力の依代(よりしろ)


 ――冥路と現世の境で磨かれた。

 ――神秘の結晶。

 ――生者にとっての。

 ――(しるべ)

 ――現世に、打ち込まれた。

 ――(くさび)


 ――それは、(きずな)

 ――生者を、現世に繋ぐ。

 ――繋ぎ合わせ、留めるもの。

 ――それが、『錨』。


「そんなもの、知らない!」

 即座に言い放つと、数匹の小魚が、群れから外れておりてくる。

 小魚たちは、かやの眼前で悠々と尾鰭をひらめかす。


 ――お前が持ち込んだ。

 ――我々に差し出した。

 ――小さな石。

 ――(あか)い石。

 ――生者を、現世に繋ぎ留めるもの。

 ――生者に、絶大な力を与えるもの。

 ――あれが無ければ。

 ――現世には還れぬ。


「あの石が、『錨』」

 言葉の意味を理解したらしく、かやは愕然として、息を呑んだ。

 強張る顔を俯け、足許や周囲にせわしなく視線を巡らす。

「どこ!? ねぇ、どこにあるの……っ!?」

 恐慌をきたし、涙声で縋るように叫ぶ。


 夕焼けの空を映したような、淡い朱色の小石は見当たらない。

 ……どこにも。


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