神饌
本話には、死の表現が含まれます。
苦手な方はご注意ください。
冷たい玻璃を思わせる明澄な水は、どこまでも曇りなく、宵闇の空の如く藍い。
かやは、水底から遥か頭上にある境界面を、仰ぎ見た。
――水神の住まう池。
そこに投げ込まれたであろう俵は、さながら宙を彷徨う黒い塊のようだった。
屈強な男でも、担ぎ上げなければ運べぬであろう大きさの俵は、水に抱かれて緩慢に揺らぎ、ゆるりと転がりながら水底におりてくる。
藁の隙間から、たくさんの細かな気泡が滑り出てゆく。水面から降りそそぐ、ほのかで心許ない光を浴びて、気泡は歪な硝子細工の如く輝き、くるくると躍りながら明るい空へと昇ってゆく。
一匹の小魚が俵の真横を、すぃ、と通り過ぎる。……だが。
興味を惹かれたのか。
すぐに翻り、俵の下方へ回り込み、ほつれた藁を戯れに口で突く。
二匹、三匹と小魚が水を滑り、集い、俵を突きはじめた、瞬間――。
びくん。
気のせいかと思うほどに小さく、俵が動いた。
不自然な水の振動を感じとった小魚たちが、即座に俵と距離を置いて、遠巻きに様子を窺う。
(水神が住むと信じられている神聖な池に、どうして俵なんて……?)
水底におりてから今までに、こんなことは一度もなかった。
強烈な違和感と、そして。
……何故か。
ぞくり、と晶の背筋を冷たいものが這った。
晶は、幾本もの静謐という手に捕らえられ、底知れぬ闇へと引き摺り込まれるような……、そんな妙な錯覚に襲われる。
かやと小魚たちが、見守る中。
水底に辿り着いた俵は、ふんわりと砂泥を巻き上げ、かやの手の届く位置に、音も無く横たわった。
「米……俵?」
かやは前のめりになり、俵に顔を寄せて注意深く見回す。
そして。
「……っ」
ぎくりとして、息を呑む。
俵の内側から押されるように膨らんだ箇所。藁から突き出ているのは、白い手首。
かやよりも一回り小さな、人の手だ。
静止したままの指を見つめ、かやは呆然と立ち尽くす。
同様に、衝撃を受けた晶の思考も停止する。
――死、ダ。
耳許で囁かれる小魚の低く掠れた声が、やけにはっきりと聞こえた。
大きく目を見開いて、かやは耳許に留まる小魚に、恐るおそる顔を向ける。
小魚は、おもむろに口を開く。
――死者……だ。
別の小魚が、かやのもう一方の耳許で声を発した。
――死を迎えた、モノ。
かやが小魚に意識を向けると、俵の周りをひらひらと舞う小魚たちは、口々に囁く。
――『錨』を。
――持たざる者。
――死者と……ナリ。
――冥路を、往く。
「何……? を」
理解が及ばないといったふうに、かやは声をもらす。
すぅ、と白い靄が俵から抜け出して、かやの傍らで、はっきりと人を模った。
かやと同じ、白衣に身を包むのは、女児だ。
九つかそこらの歳の女児は、背まで伸びた艶のある黒髪を、やわらかに揺らす。俯きがちに小首を傾げて、かやを無感情に見つめた。
「!」
かやは、これ以上ないくらいに大きく目を見開いた。
(似ている!?)
かやと、見間違うくらいに。
けれども、かやよりも明らかに幼い。
俄かに混乱する晶は、もうひとり、彼女に似た女児を思い浮かべる。
(まさか、さよ⁉ 否、でも……)
さよは、もっと幼かったはず。
晶は、胸に湧いた不安を打ち消そうとするも、それは霧の如く胸に立ち込めて、消えない。
かやが『錨』を手放してからの時間の認識は、ひどく曖昧だった。
(嘘、……だろ?)
心が、凍り付く。
かやと視線を交わしたまま、霊体の女児は、ふっくらとした唇を小さく動かす。
声なき言葉を、唇がなぞった。
――ねえ、さん。
かやの硬直していた身体が、雷にでも打たれたかのように震える。
薄らと開いた唇から、吐息にも似た声が、静かにこぼれ落ちた。
さよ、と。
ひゅっ、と細い息が咽を通った。
かやは、弾かれたように俵へと向き直る。俵を縛っている紐の結び目に指を掛けて、解こうとした。
肩や腕の皮膚がじんじんと痺れて、感覚が鈍くなる。
温度を失った指先に力が入らず、上手く結び目を解くことができない。
かやは、ぐっ、と奥歯を噛み締め腹に力を入れる。結び目に指をねじ込み、解いてゆく。
ぽろ……、と藁で編まれた蓋が外れて――。
蓋を追うように、俵の口からこぼれでた長い黒髪が、ふわりと水を泳ぐ。
かやはすぐさま、俵に手を突っ込み、押し込められている人の着物を掴んで引っ張った。
俵から引きずり出されたのは、たった今、かやの傍らで人を模ったのと同じ、女児。
ただ、ぴくりとも動かない。
弛緩した女児の身体は、ゆったりと人形の如く水に揺蕩う。しなやかで真っ直ぐな黒髪が、ばらばらと広がり、女児の青白い顔に薄影を落とす。
視線の交わらない虚ろな双眸を目に映し、かやは身を竦ませる。
……やや遅れて。
かやの眼前で、俵から滑り出る女児の白い小袖が、自由を得た小鳥の翼のように広がった。……何か、小さな緋色の物が、女児の袖口から水底に落ちる。
「……ぁ」
かやの足許にあるのは、巫女装束の緋袴と同じ色の布袋。
小鈴の付いた、口紐。
見覚えのあるそれに、かやの目が釘付けになる。
まつが、姉妹を村から逃がすために用意した、銅銭の納められている布袋だった。
「……ぅ、あ、……あっ、ぁああ……っ!」
声をくぐもらせ、かやは水に漂う女児の顔を、じっと見つめた。
がくがくと膝が震えて、いまにも崩れ落ちてしまいそうだった。
力の入らない手を、そろそろと女児の頬に伸ばして、けれど、青褪めた生気のない肌に触れることができない。
行き場をなくし、心許なく惑う指先が、唐突に固まった。
(青あざ?)
晶は、女児の口許から頬にかけて、皮膚が変色していることに気づく。
女児の頬から腕へと、ぎこちなく視線を這わせ、かやは両手で口許を覆った。
晶は、目を疑う。
(まさか、俵に無理矢理押し込めたのか⁉)
小袖から覗く女児の手首や腕にも、強く掴まれたような痕があった。
かやの胸が締め付けられるかのように痛み、ぐぅっ、と咽が潰れて呼吸が苦しくなる。
口許がどうしようもなく歪んで引き攣り、目頭はじんわりと熱を帯びる。
「さ……」
女児に呼びかけようとして声を詰まらせた、かやは。
傍らに立つ霊体となった女児を見遣り、ほんの少し躊躇った。
次の瞬間――。
かやは、勢いよく腕を伸ばして、水に漂う女児の身体を引き寄せ、胸に抱きしめる。
「まだ! まだ、今上がれば……!」
一縷の望みを言葉にすることで、かやは自分自身を奮い立たせる。
込み上げる嗚咽を喉に留めて、きつく唇を引き結ぶ。胸に溜まる息を吐きだし呼吸を整えると、足首に結わえられている縄を掴み、足を引き抜こうとした。
しかし、足首にぴたりと巻き付く繩は、びくともしない。
それなら……と、かやは、重石に片足を乗せて押さえつける。
両手に縄を巻き付け、ぐい、と思いきり横に引く。すると重石が揺らぎ、結わえていた繩がずれて、呆気なく外れた。
間髪入れずに、かやは水面を見据え、水底を蹴った。女児を抱えていない方の手で水を掻き、浮き上がろうと懸命に足掻く。
「え……?」
戸惑いの声が、かやの口からこぼれた。
わずかに浮き上がった身体は、何度水底を蹴っても、すぐに水底に引き戻される。
どうあっても、かやは水底から離れることができない。
身体が、水に浮かない。
「どうして!?」
一匹の小魚が、かやの目と鼻の先で身を捩った。
――無駄だ。
かやは、顔を跳ね上げた。
素早く周囲に首を巡らすと、はっとして身を竦ませる。
いつの間に、集まったのか。
かやを取り囲むのは、高く聳え立つ黒ずんだ壁。
ぞろりと蠢き水中を旋回する、夥しい小魚の群れだった。痩躯が捩られる度に散らされる、薄鈍色の鋭い光を目にして、かやの頭から音を立てて血の気が引く。
かやの周りを泳ぐ小魚たちが、ひそひそと言葉を交わしあう。
――哀れな。
――愚かな。
――『錨』の役を担うものを、持たぬのに。
――水を蹴る尾鰭を、持たぬのに。
――還ろうとするなんて。
――泳ごうとするなんて。
――生きている『人』とは。
――思考する『個』とは。
――なんと、不憫な!
――やはり、面白い!
「『錨』?」
真摯な声音で、かやは訊き返す。
すると。
ぽつり、ぽつり……と。渦巻く魚群から、まるで降りはじめの小雨の如き声がする。それは、俄かに数と勢いを増して、激しい雨音のように騒めいた。
――『錨』とは。
――冥路の、不思議の力の依代。
――冥路と現世の境で磨かれた。
――神秘の結晶。
――生者にとっての。
――標。
――現世に、打ち込まれた。
――楔。
――それは、絆。
――生者を、現世に繋ぐ。
――繋ぎ合わせ、留めるもの。
――それが、『錨』。
「そんなもの、知らない!」
即座に言い放つと、数匹の小魚が、群れから外れておりてくる。
小魚たちは、かやの眼前で悠々と尾鰭をひらめかす。
――お前が持ち込んだ。
――我々に差し出した。
――小さな石。
――朱い石。
――生者を、現世に繋ぎ留めるもの。
――生者に、絶大な力を与えるもの。
――あれが無ければ。
――現世には還れぬ。
「あの石が、『錨』」
言葉の意味を理解したらしく、かやは愕然として、息を呑んだ。
強張る顔を俯け、足許や周囲にせわしなく視線を巡らす。
「どこ!? ねぇ、どこにあるの……っ!?」
恐慌をきたし、涙声で縋るように叫ぶ。
夕焼けの空を映したような、淡い朱色の小石は見当たらない。
……どこにも。




