小魚
仄暗い水底に幽かな光が射しこめば、なめらかに折り重なる澄んだ青は、より一層複雑さを増して、多彩に……、幻想的に彩られる。
透きとおる色硝子のような水底の景色に目を奪われ、淡く円い光を揺らめかす水面を、眺め上げて。
じわりと忍びよる薄闇が、水底を夜に染めあげれば、宝石の如く浮かび上がる白銀の星光につつまれ、深い碧に揺蕩う。
訪れては去ってゆく光を、……闇を。
何度迎えては見送ったのか。
かやには、もうわからない――。
祭祀の日。
池の傍に組まれた櫓の台上で大祓詞を奏上し、神楽を舞い、かやは巫女としての務めを果たした。
すると村人たちは、かやの装束を白に改めさせ、供儀として台上に坐すように命じ、自分たちは櫓の下で宴に興じたのだ。
ほどなくして祭祀を締めた村長は、かやの足に、しっかりと太い縄を結わえ付ける。
縄の先に括られているのは、一抱えほどもある重石。
それを胸に抱いて、かやは自ら入水した。
足に結わえられた縄と重石が、かやを水底へと誘う。
静謐な水底へと辿り着いて、かやは水神に喰われるのを、……身が朽ちるのをひたすらに待った。
けれど。
何も、起きなかった。
――重石によって水底に繋がれた、かやは。……晶は。
少女の凛とした声で、朗々と大祓詞を唱え続ける。
水神に捧げる祈りの言葉が一区切りついたのなら、頭上を仰ぎ、現世の優しい光を透かす、青白い水面を眺める。
晶の落ちた川の淵とは、まったく違う。穏やかな池の水面を、青白い光がきらきらと這う様子は、まるで……。
(光沢のある、絹織物みたいだ)
かやは水面から降りそそぐ、ほそく儚い光芒に、そうっと手を翳す。
しなやかな白い指は、ほのかに水の藍を纏い、血の色を感じさせない。
ふやけることなく、地上に在る時と変わらない指先を見つめて、かやは独りごちる。
「水神さまは、今日もお見えにならない」
すぃ、と小魚が優雅に泳ぎ去り、光芒の中に小さく透明な薄影が射した。
(水神は、来ない。……来るはずもない)
此処が自分の知る冥路であると確信を持つ晶は、胸の内で、そう呟く。
冥路とは、死者を現世から冥界へと送るために、不思議の力で満たされた通路なのだから。
死者のための冥路に、水神はいないのだ。
「どうして」
かやは腕をおろして項垂れ、溜め息をひとつ漏らす。
戯れに縄を啄む小魚たちを、じっと見つめ、足首と重石を繋ぐ縄の繋ぎ目を、指でなぞる。一呼吸置いて、ゆるりと顔を持ち上げ、自身の周りをひらひら舞う小魚たちに目を遣った。
「水神さまの神使であるのなら、お教えください。どうして水神さまは、供儀である私をお召し上がりにならないのでしょうか。……どうして私は、水の中で呼吸ができるのでしょうか。なぜ空腹にならないのでしょうか。私は、まだ――」
物憂げに声をくぐもらせ、かやは長い睫毛を伏せる。
「――生きて、いるのでしょうか」
一匹の小魚が翻り、かやの正面に向き直った。
目と鼻の先に留まり、ぱくぱくと小さな口を動かす。
(ん? なんだ……?)
そういえば、小魚は言葉を発するのだと、祐樹が言っていた。
もしかしたら、小魚が返事をするのかもしれないと、晶は、その口許を注視する。
どんなに小さな音も聞き漏らさぬよう、神経を尖らせる。
「……」
だがしかし。
小魚の声など、聴こえない。
身構えていた晶は、拍子抜けして緊張を解く。
かやは落胆を露わにし、肩を落とした。
そして。
「……ああ、そうでした。妹より、不思議な石を預かってまいりました。御池に縁のある品物でございましたら、謹んでお返しいたします」
かやは小袖を探り、取り出した物を掌に乗せる。
両手に乗せられ、恭しく差しだされた『錨』に、晶はひやりとする。
かやが何をしようとしているのか、晶は瞬時に察した。
(駄目だ! それを手放すな!)
晶の思いもむなしく、かやは腕を伸ばして『錨』である小石を自身から遠くに置き、座礼の姿勢を取ろうとした。
刹那――。
「……っ」
かやを取り巻く水が、がらりと変わった。
全身を氷漬けにされたかと錯覚するほどに、冷たくなった。
鋭利な刃物で全身を裂かれ、肉を抉られるかのような激しい痛みに襲われ、身体は一瞬で縮こまる。
悲鳴を上げようにも息が咽を通らず、声は出ない。
萎縮した肺が、呼吸を拒む。
痛みに堪えられず、かやは、きつく目を瞑った。
――キ……ヲ。
――シテ。
――イキ、ヲシテ。
――いきを、息を。
――息を、して。
――呼吸をして。
――『個』であることを、諦めたのなら。
――自我を。
――保つことが、できなければ。
――『監視』としての。
――『観衆』としての。
――『小魚』の……。
小さく渦巻く水が頬を撫で、耳許で微かに囁き声がする。
(⁉)
木々の葉擦れにも似た低い声に、晶は気づく。
だが、それどころではない。
近づいては遠ざかる声をよそに、かやは全身を襲う激痛と堪えがたい苦しさから、水面に向かって手を伸ばした。
視界が暗く狭まり、温度を失う身体から、すべての感覚が遠のいてゆく。
――呼吸を……!
間近で放たれた鋭い声が、かやの鼓膜を震わせ、頭蓋の内で大きく響いた。
はっとなり、かやは手放しかけた意識を、辛うじて繋ぎ止める。
不意に唇がゆるんで、こぽ、と息の塊がこぼれた。
――おまえの、『名』は?
「……かや」
わずかに開いた唇から、怒涛の如く水が流れ込んで、咽を通る。
氷を思わせる冷たい水が、ものすごい勢いで身体を廻り、熱を奪ってゆく。同時に『何か』が、かやの内側を満たした。
痛みを伴う水の冷たさを感じなくなり、堪え難い息苦しさはやわらいで、かやは細い呼吸を繰り返しながら、全身の力を緩めてゆく。
意識が朦朧として、薄らと瞼が開く。ぼんやりと視界に映り込むのは、手の届かない遠い空を透かす、水面の青。
(身体が鉛みたいに重くて、それに……眠い)
異常な気怠さと眠気に襲われ、かやと感覚を共有する晶は、思わず唸る。
気を失うように、かやが眠りに就くと、晶の意識も引きずられて途切れた。
次に目が覚めると、気怠さは少しだけ解消されて、四肢が、わずかばかり動くようになっていた。しばらくすると、再び強い眠気に襲われる。
何度も睡眠と覚醒を繰り返すことで、かやの身体は徐々に楽になっていった。
やがて、かやが上半身を起こせるようになった頃には、時間の感覚はすっかり狂ってしまっていた。
水底に留まってから、どのくらいの時間が経ったのか。
晶にも、さっぱりわからなくなっていた。
もうひとつ。
(かやの持っていた『錨』は、何処にいったんだ?)
かやが『錨』を手放した直後、平静を失った晶は、その行方も分からなくなっていた。
身体が不自由なく動かせるようになると、かやは、恐るおそる辺りを見渡す。
水底の景色は、以前と何ひとつ変わらない。
ただ、数匹の小魚が、ひらひらと舞うばかりだ。
かやは、小魚がそばに寄ると、びくりと背筋を震わせる。きゅっと唇を引き結び、硬い表情で座礼の姿勢を取り、深く首を垂れた。
「御赦しくださいませ……! 御池にとって大切な品物だとは存じ上げずに、大変な失礼をいたしました」
ひどく怯えた様子で、小魚の群れに謝罪する。
どうやらかやは、『錨』を手放して自身に起こった出来事を、小魚の怒りを買ったためだと、勘違いしたらしかった。
かやは平伏し、小魚が離れてゆくのを静かに待つ。
耳を澄ますも、気泡の弾ける音ひとつ、無い。
水の動く気配も、感じない。
かやは、そろりと頭を上げる。
しかし。
「!」
すぐ目の前には、小魚の顔。
ぎょっとして、かやは思わず仰け反りそうになる。
小魚の口が開いて、小さな白い歯が口腔に覗いた。
――久シ、……ノ。
小魚の口の動きにあわせて耳に届く、泡が弾けるのにも似た、微かな音。
けれども、静謐な水底の世界にはない、異質なそれ。
他に物音でもすれば、聞き逃してしまうであろう、静かな声。
――イ、生者ガ、……タ。
ざらりと嗄れた低い声を、今度こそ、晶は拾う。
(しゃべった!?)
しかし、言葉までは聞き取れない。
とろり……、と。
微かな水流が起こり、かやの髪を数本、靡かせる。
ぎこちなく首を動かし、かやは、頬のそばに小魚の姿を認めた。
闇を湛えた墨色の眼が、じぃっと、かやを捉える。
――ああ、生者が……。
耳許で発せられた声に、かやは目を瞠り、凍り付く。
すぃ、と寄ってくる数匹の小魚が、かやを取り囲んだ。
――いとおしい。
――目障りな。
――心許なげに、しおらしく燈る、あたたかな命が。
――心の臓迄、凍りついてしまえば良かったものを。
――細い声で、優しく可憐に鳴く。
――不快な声で、冥路を騒がす。
――あわれで、気の毒な。
――堪らなく、厭わしい。
――『生者』が……!
びくんと、かやが肩を震わせる。
不穏な気配を感じとり、かやは震える声で問う。
「あの、あなた方は『何』なのですか? ……水神さまの神使、なのですよね?」
――我らは。
――我々は。
――大いなる意思の、末端である。
――大樹にひらめく、一葉に同じ。
――決定権を持たない。
――各々が意思を持つ。
――監視という具象物である。
――特異を見守る観衆である。
「……え?」
理解が及ばないといったふうに、かやは困惑の表情を浮かべる。
認識の齟齬が生じ、場の空気が俄かに停滞した。……その時。
どぼん、と。
遠くで、重い水音が立った。
音につられ、かやが視線を持ち上げると、光が幾重にも水面に輪を描き、揺らめきながら広がってゆく。
水を騒がせ、小魚の間をゆっくりと転がり落ちてくるのは、大きな円筒状のもの。
どこか歪な、ひとつの俵だった――。




