葬列
祭祀の行われる、一か月前――。
小堂には注連縄が張り巡らされ、かやは祭祀の巫女として斎戒し、身を清めることとなった。
一日三回の『禊』と日常生活から火を遠ざける『火断ち』をし、食事は、米、麦、粟、キビ、豆の五種を『穀断ち』した。
食事は主に、挽いた蕎麦の実を水で溶かしたもので腹を満たす。
冷水で沐浴しても、火に当たることすらできない。
睡眠以外の時間は、祭祀で奏上する大祓詞を唱えて過ごした。
今や晶は、大祓詞だけでなく巫女神楽でさえも、自分の身体で完璧にこなしきる自信があった。
(俺、もう巫女になれるんじゃね? ……ああ、男は巫女じゃなくて覡っていうんだっけ)
疲労で朦朧としながら、晶は、まつから得た知識を整理する。
だが、何はともあれ。
(キツい。キツすぎる。俺に神職は……、絶っ対に無理!)
かやと五感を共有する晶は、筆舌に尽くしがたい空腹と、痛みすら感じる寒さが辛くて、泣きそうになる。
実際には、かやが平然として泣き言ひとつ漏らさないので、余計に遣る瀬無い。
まつが、祭祀の準備のために留守がちになると、代わって、普段はまったく人の気配を感じない小堂の周りを、足音が鳴るようになった。
壁の外の足音は、ひとりの時もあれば、複数の時もある。
ざ……、ざっ。
微かに聞こえる人の息づかい。一言二言、密やかに交わされる言葉。薄い壁の向こう側で、下草や小石を踏みしめる音がする度に、かやは不安げに息を潜める。
一体何をしているのだろうと、晶も不審の念を抱く。
そして、思い至る。
(これって、かやが逃げ出さないように、見張りを立てているんじゃないのか?)
まつが戻るまでの間、執拗に鳴り止まない足音は、かやに逃げられないことを示唆しているかのようにも聞こえて――。
(何なんだ、こいつら! かやに全部押し付けて……!)
無性に腹の立った晶は、胸の内で怒りを吐き捨てた。
……ざ!
ひときわ大きな足音がすると、かやは小さく肩を震わせ、首を竦める。
しかし、外の人間が小堂の内側まで入ってこないことが判ると、かやは、足音を気に留めることもなくなり、大祓詞を唱え続けた。
斎戒も最後の一日となった、或る日の昼下がり。
まつは、外出先から戻ると小さな竹筒を、かやに差し出した。
「おかや、おさよからだ」
「さよから、ですか?」
斎戒の期間中は、身内といえども外部の人間とは接触できない。
竹筒を受け取って中を覗き込み、かやは小首を傾げる。
竹筒に満たされているのは、透明な液体だ。
「これは、何なのですか?」
不思議がるかやに、まつは竹で作った細い篦を渡して寄越す。
「蜂蜜だそうだ。これで掬って食してごらん」
「いいのですか?」
驚いて尋ねると、まつは頷いて応える。
「肉でも五穀でもなく、火を通したものでもない。自然のものだから、少しなら構わない」
かやは箆を受け取り、竹筒の中にそれを斜めに差し込む。
箆で掬い上げると、淡い黄色の透明な液体が、とろりと垂れた。
細い糸のように伸びる液体に眉をひそめ、わずかな間逡巡し、かやは、恐るおそる蜂蜜を口に含む。
「……甘い!」
(めちゃくちゃ旨ぁ……!)
口いっぱいに広がる久しぶりの甘味に、思わず晶も唸る。
ふわりと鼻腔を抜けてゆく、ほのかに甘い花の香り。まろやかで癖のない、品のある味わい。
糖分が五臓六腑に染み渡り、疲弊した身も心も癒されるような心地だった。
竹筒を包み込む両の手に力を込め、かやは、じっと淡黄色の液体を覗き込んだ。
「おまつさん」
窓から射しこむ薄明りを取り込んで、蜂蜜が淡い金色に艶めく。
やわらかで優しい煌めきに見入る、かやの鼻の奥が、つんと痛んだ。
「さよは、素直な良い子です。祭祀の後に、もしも父さんが亡くなったら、独りになるあの子のことを、気にかけてやってもらえないでしょうか。勝手な御願いとは存じますが、……どうか」
胸が圧し潰されるように痛んで、咽を通る声が閊えた。
かやの視界が、ぼんやりと霞んで歪み、睫毛に微かな重みを感じた、刹那。
瞳から溢れた涙が、円く珠を結んで頬を転がり落ちた。
竹筒を脇に避けて、かやは深く丁寧な座礼をする。
「どうか、……さよのことを、お願いします」
――祭祀の当日。
かやは沐浴を済ませると、白衣に緋袴を穿いて身なりを整え、ふと振り返った。
着物箪笥の引き出しを開けて、隅に置かれた淡い朱色の小石をひとつ摘まんで、掌に乗せる。
かやが、まつの所に身を寄せる前に、さよから預かったもの。さよが『神使の卵』ではないかと言った小石。
……『錨』だ。
指でつつき、小石の表面に淡い波紋の如き陰影が広がるのを、かやは、じっと眺める。
「さよ、持って行くね」
微かに笑みを含む優しい声音で、独りごちて。
かやは白衣の小袖に小石を忍ばせ、白無地の千早を羽織った。
「おかや、準備はできたかい?」
まつの声を耳にして、かやは、そろりと顔を上げる。
「はい」
視線を交わすと、まつは暗い顔をして、そぅっと目を伏せた。
「使いの者が、来ている」
ぽそりと呟いて、まつは踵を返す。
項垂れて歩く姿は、いつもよりも一回り小さく、ひどく寂しげに見えた。
かやは、まつの背中に深々と頭を下げる。
「おまつさんには、大変お世話になりました。おかげさまで、この一年の間、何不自由なく過ごさせていただきました」
まつは、足を止めるも、振り返ることをしない。
「まったく、こんな老いぼれよりも先に逝こうだなんて……」
感情を押し殺すかのような低く震える声をこぼし、詰まらせた。
戸口の外で待っていた使いの男に押し上げられ、かやは馬の背に乗せられる。
かやを乗せた馬は、男に手綱を引かれて、木を組んで作られた細く心許ない鳥居をくぐった。
……木々の陰にでも隠れていたのか。
ひとり、またひとりと村の大人たちが姿を現し、馬の後に付いて、ぞろぞろと列を成す。
まるで葬列のように静かに、それでいて厳かに。
かやと村人たちは、細道を登って行く。
木々の細枝を棒で払い、生い茂る草を掻き分け、踏みしめて。山の中腹にある、木々の開けた場所に辿り着く。
眼前に広がるのは、どこまでも澄みわたる、清らかな水。
薄い硝子を張り付けたかのような水面は、鏡の如し。降りそそぐ陽光を弾き、あるいは閉じ込め、真青な空を映す水面下では、深まるほどに様々な青が折り重なり、綾をなす。
色硝子の如く涼やかで、万華鏡のように多彩な青を湛える、美しくも神秘的な池であった。
かやは、一度だけ背後を振り返り、村へと続く道を見遣った。
しかし、大きく横に広がる木々の梢が、すっぽりと道を覆い隠し、視界を遮る。
瞼を伏せ、かやは、きゅっと口を引き結ぶ。
池へと向き直り、凪いだ水面に視線を滑らせ、小さな声で祈りの言葉を唱えた。
「水神さま。今、あなたさまの半身となる巫女が参ります。どうか御怒りを鎮め、村に慈雨をお恵みください」




