祝詞
かやは連日、まつから文字の読み書きを習い、神楽の指導を受ける。
巫女としての心得や、立ち振る舞いなどの行儀作法を指導され、数週間が経った頃――。
斜陽に焼かれて茜色に染まった空が刻々と変化し、深い濃藍へと彩りを変えてゆく。静寂を伴い下りてくる夜の帳が、辺りを薄闇で包みはじめた、或る日の夕刻。
「姉さん!」
戸口が勢い良く開かれ、飛び込んできた少女に、かやは目を丸くする。
子猫のような素早さで駆け寄ってきた少女は、かやにしがみつき、緋袴に顔を埋めた。
「さよ⁉」
驚き慌てて、かやは首を巡らすも、他に人の姿は見当たらない。
さよの顔を覗き込んで、心配そうに尋ねる。
「ここまで、ひとりで来たの? まさか、父さんに何かあったの⁉」
「ううん、何もないよ」
さよの返答に、かやは、安堵の吐息をもらす。
「それなら、村長さんに小堂へ行っても良いって言われたの?」
「……」
かやの緋袴に顔を埋めたまま、さよは、ふるふると頭を横に振った。
さよは上目遣いで、かやを見上げる。
「あのね、でもね、父さんは村の人が夕餉を食べさせてくれて身体も拭いてくれたからね、眠るだけでしょう? さよ、父さんのお顔の前で『姉さんに会ってくる』って言ってきた」
さよは、どうやら無断で訪ねて来たらしい。
さぁっと血の気を引かせ、かやは固まった。
「どうした?」
まつが奥から出て来て、怪訝そうに問うた。
かやは、さよの小さな身体を抱きよせ、白衣の裾に隠す。どうしたらいいのか解らないといった顔をして、まつの顔色を窺う。
「あの、妹が断りなしに……」
かやの鼓動が、とくとくと大きく、速く脈打つのを感じながら、晶は思案に耽る。
まつたちの住む小堂は、村の中心地から外れた深山の中腹にある。辺りには鬱蒼と木々が茂り、他に家などはない。もちろん、普段から人の気配は皆無だ。
(そういえば、鳥居っぽいものがあったっけ)
おそらく。
村人らにとっては、水神の住む池のある森も、穢してはならない『神域』の一部。
『俗世』とは一線を画した禁足地に、神職者以外は足を踏み入れてはならないという認識なのだろう。
「かまいやしないさ」
まつは、別段動じることなく、穏やかに言う。
やわらかに目を細めて、さよにゆっくりと近づいた。
「なぁに、生まれて数年しかたっていない無垢な幼子など、森の木々に宿った精霊と何ら変わりないからね。森の精霊が家の中にひょっこりと紛れ込んだ。それと同じさ。……さて、おまえさん、名前は?」
腰を落として、さよと目線を合わせると、まつは、あたたかな声音で優しく尋ねる。
さよは、ぎゅっと掴んだ緋袴の後ろから顔の一部を覗かせて、まつをじっと見つめた。
不安げに、消え入りそうな声で答える。
「……さよ」
「そうかい」
まつは、さよの頬にこびりついた煤に気づいて、丁寧に指先で拭い取ってやりながら、諭す。
「おさよ、じきに日が暮れる。明日、儂が家へと送ってやるから、今日はここに泊まっておゆき」
「いいの?」
きょとんとして、さよが小首を傾げると、まつは頷いて返す。
「ああ。だけど身体が汚れているようだから、先に行水をなさい」
「わかった!」
元気いっぱいに咲き誇る小花の如く、さよは無邪気に愛らしく微笑む。次いで、かやに向き直ると、さよは着物の袖や裾を捲り上げ、汚れた手足を得意気に見せた。
「姉さん! さよ、約束を守っているよ! あのね、腕にも顔にも砂がついているでしょう? 行水のあとに、砂だけじゃなくて竈の煤も塗っているんだよ!」
そう言って、さよは瞳をきらきらと輝かせ、じっと、かやの顔を覗き込む。
「あ……」
小さく呻いて、かやは表情を強張らせる。
首を竦ませ、おそるおそる、まつに視線を転じた。
かやが家を出る際に、さよに行水の後には砂を纏うよう言い聞かせていたのを思い出し、晶は胸の内で嘆息する。
(かやは、自分が供儀としての役を全うするまで、さよを隠しておきたかったのか)
色白であるが故に、自分が水神に捧げられる『神饌』として選ばれたことを、かやは知っていたから。
自分と容姿の似た妹、さよに、村長らが目移りしないよう、気を配ったのだろう。
万が一にも決定が覆れば、一家で村の世話になっているという自覚のある彼女が、村長に異を唱えられるはずもないのだから。
かやに一瞥をくれ、まつは憂いに陰る瞳を、そっと伏せた。
おもむろに上げた片手を、そうっと、さよの頭に置いて、慈しむように撫でる。
「いいかい、おさよ。ここには儂と、おまえさんの姉さんしかいないからね。砂を浴びるのは、家に帰る前でいい。……それでいいだろう? おかや」
かやは半ば呆然として、まつを見つめていたが、名を呼ばれて、はっとなる。
「はい……!」
慌てて返事をし、かやは真面目に表情を改める。
まつに向き直ると姿勢を正し、かやは深々と頭を下げた。
「かたじけなく、……存じます」
翌朝、さよを家に送り届けて戻った、まつは。
先ず、寝たきりの父親がきちんと世話をされていることを、かやに伝えた。そして――。
「おさよのことは、村長に話をつけておいた」
無垢な幼子と面会しても、かやが俗世の穢れを纏うことはないのだと、村長を説得したのだ。
その日を境に、さよは、頻繁に小堂を訪ねてくるようになった。
まつから教示を受ける自分のそばに付いて、大人しく眺めているさよに、かやは小首を傾げて尋ねる。
「そばで見ているだけで、さよは退屈ではないの?」
「退屈じゃないよ」
とんでもないとばかりに大きく目を見開き、さよは首を横に振って答えた。
かやは微かに表情を曇らせ、気遣わしげに訊く。
「何か、家で困っていることはない?」
家に居づらい理由でもあるのかと、かやは暗にほのめかす。――だが。
さよは、陰りなど微塵も感じさせない、晴れやかな笑顔を跳ね上げた。
「困っていること? ないよ! 朝餉も夕餉も、とどけてくれるの。あのね、姉さん。この間ね、村長さんからハチミツというものをもらったの! 薬膳であって栄養があるから、父さんにって。さよもね、少し食べたんだけど、甘くてとても美味かったの。父さんも少し食べられたんだよ! 今度ハチミツをもらったら、おまつさんと姉さんに届けるね!」
蜂蜜が余程美味しかったのか。さよは前のめりになって、かやに報告した。
(栄養のあるものを、たくさん貰ってるみたいだな)
まるで別人のようになったと、晶は感心する。
ふっくらしたとまでは言い難いが、以前に比べて、さよの頬は丸みを帯びて、ほんのりと血の気がさしている。瞳は生き生きとして力がこもり、受け答えする幼い声は、ころころと弾むように響く。動きも機敏に、活発になったと感じていた。
かやに甘え、小袖に纏わりついては「姉さん、姉さん」と、心底嬉しそうにはしゃぐ。晶は、自分が懐かれたようで、くすぐったいような照れくささを覚える。
さよを可愛がる、かやの気持ちが解るような気がした。
「そう、村長さんが……」
胸をなでおろして、かやは表情をなごませる。
よかった、と小さく独りごちて肩の力を抜いた。
「姉さん」
声を掛け、さよは足許に目を落とし、もじもじとする。
ややあって、そろりと視線を持ち上げると、さよは、はにかんで微笑む。
憧憬や尊敬、そんな感情の灯る眼差しを向け、素直な声音で言う。
「姉さん、あのね。さよね、大きくなったら、姉さんと同じ、水神さまの巫女さまになりたいの」
「え……?」
対して、かやは呻くように小さな声を放ち、黙り込む。
衝撃の走り抜けた身体が竦み、金縛りにあったかのように動かなくなる。
かやと五感を共有し、行動を共にしている晶には、彼女の動揺が手に取るように伝わった。
かやにとって『水神の巫女』は、供儀と同義である。
さよや、父親の生活を保障してもらう代わりに『水神の巫女』となったかやにとって、それは、憧れを抱かれるようなものではないのだから。
「姉さん?」
かやを仰ぎ見て、さよは不思議そうに小首を傾げた。
ふたりのやり取りを聞いていたまつが、静かに割って入る。
「おさよ、おかやは水神さまの唯一の巫女だからね、まったく同じにはなれないのだよ」
「え、そうなの?」
驚いて目を瞬かせるさよに、まつは尚も説いて聞かせる。
「だがね、巫女にはなれるさ。それに、巫女にならずとも、神さまに捧げられる言葉だってある。今のおさよにも覚えられる短い『祝詞』だ。おさよには、それを教えてあげるよ」
「本当!?」
大きな声を上げて、さよは、はっとなる。慌てて口許に両手を当てると、まつの顔色を窺う。
そろそろと両手を下ろして姿勢を正し、さよは真剣に表情を改める。
「はい!」
「よろしい」
まつは微笑んで頷くと、さよの双眸をまっすぐに見つめる。
「いいかい?」
厳かな深みのある声で、まつは『祝詞』を唱えた。




