否定
六限の終了を報せるチャイムが鳴ると同時に、生徒たちが机上を片付け始める。
黒板に数式を書いていた数学の教師が振り返り、むっとした顔で「まだ片付けるな!」と、大きな声を張り上げた。
生徒たちの手が止まるのを見計らい、教師は、さっと教室を見渡した。
「今から配るプリントを、明日までの宿題にする。当てるから、そのつもりでいるように! 号令!」
大っぴらに、とはいかないが、教室のあちこちで渋い顔をする生徒。眉をひそめ、憂鬱そうに小声でぼやく生徒が散見された。
「起立……」
ばらばらと椅子の足が床を打ち、教室中に騒々しい音が立つ。
晶も、その流れに乗じて、椅子を引いて立ち上がる。
「礼!」
「ありがとうございました」
机上の教科書とノートを片付けながら、教壇に顔を向けることなく頭をさげて、着席する。
見慣れた日常の風景に心が落ち着くのを感じて、晶は密かに安堵の吐息をもらす。
……父の危篤の報せを受け、学校を早退した翌日、父は亡くなった。
母は、すぐに斎場に連絡を入れて葬儀の打ち合わせを始めたのだったが、生憎火葬場や寺が込み合っていて、思いのほか葬儀まで日が開いてしまい、登校するのは八日ぶりのことだった。
「晶」
遠慮がちに名を呼ばれて、晶は首を巡らす。
目を合わせた級友の表情は、どことなく硬い。
忌引き明けとあってか、今朝から声をかけてくる級友たちは、ほんのわずかに声を落とし、気遣いの色を覗かせていた。
午後には、そんな雰囲気も大分やわらいだのだが、まだなんとなく気まずそうな直哉に、晶は頬を緩めてみせる。
「ん? 何?」
明るい声で返すと、直哉は、ほっとしたように顔をほころばせた。
「あ、うん。もう帰るなら……」
「俺も俺も、帰るー」
直哉の声を遮るように、彼の背後から声を投げたのは、もうひとりの級友、大知だ。
ひょいっと首を伸ばして、晶は大知の方を見遣る。
「あれ? 部活はどうした? サッカー部」
「晶は帰宅部だもんな。今日から試験前休みだよ。な? 直哉」
大知に同意を求められて、同じくサッカー部の直哉が頷いた。
直哉の隣に並んだ大知は、げんなりとした顔で大きな溜め息を落とす。
「あのさ、試験前なのに国語の授業で課題が出てたじゃん。日本の近代文学作品の中からひとつ選んで感想文を書けって。……お前ら、もう何か読んだ?」
「まだ」
直哉が、ふるふると首を横に振った。
帰り支度をしながら、晶は課題についての記憶を手繰り寄せる。
「まぁ、読んだけど。あれって確か文字数の指定は、なかっただろ?」
試験前であることを考慮する教科担任の温情か。最悪、数行でも感想を書けば提出できるものだ。
しかし、眉をひそめる大知の表情は渋い。
「なんていうか、読むのが苦痛。前に巻末の後書きを読んで、ちょっと変えて提出したら、ばれちゃってさ」
「そうなんだよね。後書きを感想として提出すればよくない? って事前に大知と話してたから、内容がそっくりになっちゃって、一緒に職員室に呼ばれたんだよ」
同意して頷く直哉も、憂鬱な顔をする。
思わず吹き出しそうになり、晶は笑みをこぼした。
「後書きって……、先生も読んでるだろ、それ。ばればれだよ」
「いやいや、だからさ」
ばつの悪そうな顔をした大知は、懇願する眼差しを晶に寄越す。
「どんな話だったのか、内容を教えてくれ」
「俺にも……!」
「いいよ。運動部は忙しいもんな。その代わり俺の感想文と被らないように、あらすじとか要点を詳しく説明することになるけど……、時間ある?」
三人揃って職員室に呼ばれるのは、御免蒙りたい。
それなりに時間がかかることを晶が遠回しに伝えると、大知は、ぱぁっと明るい顔で答える。
「もう下校しないとまずいから、教室は駄目だな。んー、ちょっと回り道して帰ろうぜ」
しかし直哉は、わずかに眉尻を下げて表情を曇らせた。
「俺は時間大丈夫だけど、晶は? まだ家の方が落ち着いていないだろうし、試験勉強だってできていないだろ? 遅くなると、まずいんじゃないの?」
「いや?」
そんなことはないと、薄く笑ってみせた晶は、ふたりから視線を逸らして教室の壁に掛けられた時計を見遣る。
時刻は、十五時三十分。
時間を確認すると、晶は、ぎこちなく手許の鞄に目を落とした。
昨夜の母の言葉が、脳裏を過る――。
「独り暮らしをしている和真に、お父さんが不倫していることを伝えるのは、負担をかけるようで躊躇われたのだけど……。和真は、私が家を飛び出した時に、お父さんに電話で怒ってくれたんでしょう? それが嬉しかったの」
ダイニングテーブルに並んで座る母の表情は窺えなかったが、明るみを帯びた声が微かに弾んで、母が微笑むのがわかった。
対面に座る和真が驚いたように目を瞠り、次いで困惑の表情を浮かべた。
「え……?」
「お父さん、本当は子供には不倫のことを知られたくなかったみたいなのよね。だから、子供に不倫したことを突かれて、怒られたのが相当堪えたみたいで、戻ってきて欲しいって連絡をくれたの。和真が味方になってくれてお母さん、本当に救われたの。やっぱり、お兄ちゃんは頼りになるんだな、って」
「父さんに怒る? 俺が? 俺は、父さんに何も言ってないよ」
戸惑う和真が、晶に視線を滑らせる。
晶と視線を交わした和真が、はっとして息を呑んだ。
「俺じゃない……。母さん、父さんに怒ったのは、晶じゃないのか?」
「え? あれは和真だったでしょう?」
母は、きょとんとして小首を傾げる。
父は家族の誰かを呼ぶ時に、名前で呼ぶことをしなかった。故に、母が勘違いしたのだと容易に想像がついた。
心配そうな面持ちの和真に見つめられ、居たたまれない気持ちになった晶は、そっと視線を外す。
晶の吐いたあれは、ただの暴言だ。
衝動的な怒りを抑えられなかっただけの……、ぶちまけてしまった後に、嫌な気持ちになるだけの言葉だった。
父に養われ、何不自由なく暮らしている晶が「親のくせに」だなんて、言える立場ではなかった。
黙っていれば良かったのだ。……和真のように。
ふと。
晶の胸の内に、母に対する不信の念が芽生える。
家出をした母が和真に父の不倫を報せたのは、和真を使って父に攻撃、乃至報復をしたかったからではないか――?
咽許から氷水を流し込まれたかのように、すぅっと身体が芯から冷えた。
――そんなはずはない。
晶はすぐに、胸に燻る疑念を払拭する。
そして。
「……俺は、おぼえてないよ」
瞼を伏せた晶は、すべてを否定して、静かに席を立った。
胸に閊える憂いを呑み下して、晶は腹の底へと落とし込む。
生前、父は家にいなかったし、会話だってなかった。それは、父の死後も何ら変わりない。
けれど、家には母と和真がいて、机上に沢山の書類を広げ、始終父に関わる話をしている。
家に帰りたくない気持ちが浮き彫りとなって、晶は、自分自身を納得させるための言い訳を並べる。
「俺も、まだ感想文は書いていないんだ。ふたりに説明することで内容を整理できるし、気にしなくていいよ。それに家の方は大丈夫だよ。色々手続きとかあって忙しいみたいだけれど、俺に書類のことはわからないし。兄貴が会社を休むか、リモートワークに切り替えて、母さんを手伝ってくれているから」
大丈夫だ。
母には、和真がついているのだから。
それに、家には遺影の飾られた後飾りの祭壇がある。
色とりどりの美しい花に飾られた父の遺影は、晶の知らない、一点の曇りもない満面の笑みを浮かべている。
生花が痛まぬよう、夏であることを失念するほどに冷やされた部屋は、斎場を彷彿とさせて。
凍える百合の濃い香りは際立って、父の死をにおわせる。
冷めた目でしか祭壇を見られない晶は、咲き乱れる花々に責め立てられているような――。
……そんな、居心地の悪さを覚えるのだ。
まばゆい光を放つ真夏の太陽は、容赦なく地上を灼きつける。
景色は白く色褪せて、アスファルトは、まるで溶けはじめたかのように淡い陽炎を揺らめかせる。
晶と直哉の一歩前を歩く大知が、翳した片手で庇をつくり、恨めしそうに空を仰いだ。
「あっちぃ。……なぁ、近くに川があるよな。長くなるなら河原に下りて木陰で話さないか?」
「あー、あったな」
大知を一瞥して、晶は川の姿を思い浮かべる。
学校を行き来する道の途中に橋が架かり、橋下を流れる川があった。
白っぽい石のごろごろと転がる河原は広く、確か、木々もまばらに生えていたはずだ。近くにある山々の山間から流れ下りる豊かな清水は、透明で速く、涼しげだった。
大知の言う通り、川の近くの木陰であれば暑さを凌げ、心地良い風も通るだろう。
晶は、並んで歩く直哉と互いに顔を見合わせる。
「賛成。直哉は?」
「うん。暑いし、なんなら足だけでも水に浸したいよね」
直哉は、まるで遊びにでも行くかのように、そわそわとしだした。
ふたりの様子を眺めていた大知は、にやりと笑い、足を止める。
「じゃあ、こっちだな」
身を翻し、細く岐れる一筋の道を見遣った。
陽光を存分に浴びて勢いよく茂る夏草は、河原へと繋がる細道を、尚も見えづらくする。
細道の脇、微風に揺れる青々とした草叢の間に、ぽつん、と――。
薄らと苔むした、小さな地蔵が見え隠れしていた。