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水底に咲く花  作者: 和奏
夏陰
3/27

否定


 六限の終了を報せるチャイムが鳴ると同時に、生徒(クラスメイト)たちが机上を片付け始める。

 黒板に数式を書いていた数学の教師が振り返り、むっとした顔で「まだ片付けるな!」と、大きな声を張り上げた。

 生徒たちの手が止まるのを見計らい、教師は、さっと教室を見渡した。

「今から配るプリントを、明日までの宿題にする。当てるから、そのつもりでいるように! 号令!」

 大っぴらに、とはいかないが、教室のあちこちで渋い顔をする生徒。眉をひそめ、憂鬱そうに小声でぼやく生徒が散見された。

「起立……」

 ばらばらと椅子の足が床を打ち、教室中に騒々しい音が立つ。 

 晶も、その流れに乗じて、椅子を引いて立ち上がる。

「礼!」

「ありがとうございました」

 机上の教科書とノートを片付けながら、教壇に顔を向けることなく頭をさげて、着席する。

 見慣れた日常の風景に心が落ち着くのを感じて、晶は密かに安堵の吐息をもらす。

 ……父の危篤の報せを受け、学校を早退した翌日、父は亡くなった。

 母は、すぐに斎場に連絡を入れて葬儀の打ち合わせを始めたのだったが、生憎火葬場や寺が込み合っていて、思いのほか葬儀まで日が開いてしまい、登校するのは八日ぶりのことだった。


「晶」

 遠慮がちに名を呼ばれて、晶は首を巡らす。

 目を合わせた級友の表情は、どことなく硬い。

 忌引き明けとあってか、今朝から声をかけてくる級友たちは、ほんのわずかに声を落とし、気遣いの色を覗かせていた。

 午後には、そんな雰囲気も大分やわらいだのだが、まだなんとなく気まずそうな直哉(なおや)に、晶は頬を緩めてみせる。

「ん? 何?」

 明るい声で返すと、直哉は、ほっとしたように顔をほころばせた。

「あ、うん。もう帰るなら……」

「俺も俺も、帰るー」

 直哉の声を遮るように、彼の背後から声を投げたのは、もうひとりの級友、大知(たいち)だ。

 ひょいっと首を伸ばして、晶は大知の方を見遣る。

「あれ? 部活はどうした? サッカー部」

「晶は帰宅部だもんな。今日から試験前休みだよ。な? 直哉」

 大知に同意を求められて、同じくサッカー部の直哉が頷いた。

 直哉の隣に並んだ大知は、げんなりとした顔で大きな溜め息を落とす。

「あのさ、試験前なのに国語の授業で課題が出てたじゃん。日本の近代文学作品の中からひとつ選んで感想文を書けって。……お前ら、もう何か読んだ?」

「まだ」

 直哉が、ふるふると首を横に振った。

 帰り支度をしながら、晶は課題についての記憶を手繰り寄せる。

「まぁ、読んだけど。あれって確か文字数の指定は、なかっただろ?」

 試験前であることを考慮する教科担任の温情か。最悪、数行でも感想を書けば提出できるものだ。

 しかし、眉をひそめる大知の表情は渋い。

「なんていうか、読むのが苦痛。前に巻末の後書きを読んで、ちょっと変えて提出したら、ばれちゃってさ」

「そうなんだよね。後書きを感想として提出すればよくない? って事前に大知と話してたから、内容がそっくりになっちゃって、一緒に職員室に呼ばれたんだよ」

 同意して頷く直哉も、憂鬱な顔をする。

 思わず吹き出しそうになり、晶は笑みをこぼした。

「後書きって……、先生も読んでるだろ、それ。ばればれだよ」

「いやいや、だからさ」

 ばつの悪そうな顔をした大知は、懇願する眼差しを晶に寄越す。

「どんな話だったのか、内容を教えてくれ」

「俺にも……!」

「いいよ。運動部は忙しいもんな。その代わり俺の感想文と被らないように、あらすじとか要点を詳しく説明することになるけど……、時間ある?」

 三人揃って職員室に呼ばれるのは、御免(こうむ)りたい。

 それなりに時間がかかることを晶が遠回しに伝えると、大知は、ぱぁっと明るい顔で答える。

「もう下校しないとまずいから、教室は駄目だな。んー、ちょっと回り道して帰ろうぜ」

 しかし直哉は、わずかに眉尻を下げて表情を曇らせた。

「俺は時間大丈夫だけど、晶は? まだ家の方が落ち着いていないだろうし、試験勉強だってできていないだろ? 遅くなると、まずいんじゃないの?」

「いや?」

 そんなことはないと、薄く笑ってみせた晶は、ふたりから視線を逸らして教室の壁に掛けられた時計を見遣る。

 時刻は、十五時三十分。

 時間を確認すると、晶は、ぎこちなく手許の鞄に目を落とした。

 昨夜の母の言葉が、脳裏を過る――。



「独り暮らしをしている和真に、お父さんが不倫していることを伝えるのは、負担をかけるようで躊躇われたのだけど……。和真は、私が家を飛び出した時に、お父さんに電話で怒ってくれたんでしょう? それが嬉しかったの」

 ダイニングテーブルに並んで座る母の表情は窺えなかったが、明るみを帯びた声が微かに弾んで、母が微笑むのがわかった。

 対面に座る和真が驚いたように目を瞠り、次いで困惑の表情を浮かべた。

「え……?」

「お父さん、本当は子供には不倫のことを知られたくなかったみたいなのよね。だから、子供に不倫したことを突かれて、怒られたのが相当堪えたみたいで、戻ってきて欲しいって連絡をくれたの。和真が味方になってくれてお母さん、本当に救われたの。やっぱり、お兄ちゃんは頼りになるんだな、って」

「父さんに怒る? 俺が? 俺は、父さんに何も言ってないよ」

 戸惑う和真が、晶に視線を滑らせる。

 晶と視線を交わした和真が、はっとして息を呑んだ。

「俺じゃない……。母さん、父さんに怒ったのは、晶じゃないのか?」

「え? あれは和真だったでしょう?」

 母は、きょとんとして小首を傾げる。

 父は家族の誰かを呼ぶ時に、名前で呼ぶことをしなかった。故に、母が勘違いしたのだと容易に想像がついた。

 心配そうな面持ちの和真に見つめられ、居たたまれない気持ちになった晶は、そっと視線を外す。

 晶の吐いた()()は、ただの暴言だ。

 衝動的な怒りを抑えられなかっただけの……、ぶちまけてしまった後に、嫌な気持ちになるだけの言葉だった。

 父に養われ、何不自由なく暮らしている晶が「親のくせに」だなんて、言える立場ではなかった。

 黙っていれば良かったのだ。……和真のように。

 ふと。

 晶の胸の内に、母に対する不信の念が芽生える。

 家出をした母が和真に父の不倫を報せたのは、和真を使って父に攻撃、乃至報復をしたかったからではないか――?

 咽許から氷水を流し込まれたかのように、すぅっと身体が芯から冷えた。

 ――そんなはずはない。

 晶はすぐに、胸に燻る疑念を払拭する。

 そして。

「……俺は、おぼえてないよ」

 瞼を伏せた晶は、すべてを否定して、静かに席を立った。



 胸に(つか)える憂いを呑み下して、晶は腹の底へと落とし込む。

 生前、父は家にいなかったし、会話だってなかった。それは、父の死後も何ら変わりない。

 けれど、家には母と和真がいて、机上に沢山の書類を広げ、始終父に関わる話をしている。

 家に帰りたくない気持ちが浮き彫りとなって、晶は、自分自身を納得させるための言い訳を並べる。

「俺も、まだ感想文は書いていないんだ。ふたりに説明することで内容を整理できるし、気にしなくていいよ。それに家の方は大丈夫だよ。色々手続きとかあって忙しいみたいだけれど、俺に書類のことはわからないし。兄貴が会社を休むか、リモートワークに切り替えて、母さんを手伝ってくれているから」

 大丈夫だ。

 母には、和真がついているのだから。

 それに、家には遺影の飾られた後飾りの祭壇がある。

 色とりどりの美しい花に飾られた父の遺影は、晶の知らない、一点の曇りもない満面の笑みを浮かべている。

 生花が痛まぬよう、夏であることを失念するほどに冷やされた部屋は、斎場を彷彿とさせて。

 凍える百合の濃い香りは際立って、父の死をにおわせる。

 冷めた目でしか祭壇(それ)を見られない晶は、咲き乱れる花々に責め立てられているような――。

 ……そんな、居心地の悪さを覚えるのだ。



 まばゆい光を放つ真夏の太陽は、容赦なく地上を()きつける。

 景色は白く色褪せて、アスファルトは、まるで溶けはじめたかのように淡い陽炎を揺らめかせる。

 晶と直哉の一歩前を歩く大知が、翳した片手で(ひさし)をつくり、恨めしそうに空を仰いだ。

「あっちぃ。……なぁ、近くに川があるよな。長くなるなら河原に下りて木陰で話さないか?」

「あー、あったな」

 大知を一瞥して、晶は川の姿を思い浮かべる。

 学校を行き来する道の途中に橋が架かり、橋下を流れる川があった。

 白っぽい石のごろごろと転がる河原は広く、確か、木々もまばらに生えていたはずだ。近くにある山々の山間から流れ下りる豊かな清水は、透明で速く、涼しげだった。

 大知の言う通り、川の近くの木陰であれば暑さを凌げ、心地良い風も通るだろう。

 晶は、並んで歩く直哉と互いに顔を見合わせる。

「賛成。直哉は?」

「うん。暑いし、なんなら足だけでも水に浸したいよね」

 直哉は、まるで遊びにでも行くかのように、そわそわとしだした。

 ふたりの様子を眺めていた大知は、にやりと笑い、足を止める。

「じゃあ、こっちだな」

 身を翻し、細く(わか)れる一筋の道を見遣った。


 陽光を存分に浴びて勢いよく茂る夏草は、河原へと繋がる細道を、尚も見えづらくする。

 細道の脇、微風に揺れる青々とした草叢の間に、ぽつん、と――。


 (うっす)らと苔むした、小さな地蔵が見え隠れしていた。


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