姉妹
――断片的に紡がれるかやの記憶を、晶は、彼女の五感を通して追体験してゆく。
木の格子の嵌った小窓から、湿り気を帯びた冷たい空気が流れ込んでくる。
床に溜まる冷気に頬を撫でられ、鼻孔に纏わりつくそれを吸い込み、かやは薄らと目を開けた。
部屋の中は真っ暗で、格子窓の辺りを眺めあげるも、外は闇に閉ざされている。
まだ、夜明け前であることが窺えた。
(確か、日本で電気が普及したのって、明治……だったような)
ぼんやりと晶が考えを巡らせた、丁度その時。
力強い鶏の鳴き声が辺り一帯に響き渡り、夜の静寂を破る。
容赦のない、早すぎる朝の報せだった。
(まだ四時前とかじゃないのか? ……首と肩が寒い。それに身体も痛い。床が硬くて寝心地が悪すぎる)
とてもじゃないが、寝ていられない。
かやと同時に目を覚ました晶は、胸の内で不満を漏らして嘆息する。
もぞ……と、かやは身じろぎし、身体に掛けていた薄い夜着を脇に避けて起床する。
慣れた様子で寝床を片付け、さっと身支度を済ます。土間に下りて、蝋燭に灯りを点すと、空の水桶を手に持った。
ふ、と背後に気配を感じて振り返ると、寝惚け眼を擦る、さよの姿があった。
さよは大きな欠伸をしてから、虚ろな双眸で、かやの姿を見つめる。
「姉さん、川へ水汲みに行くの?」
「うん」
(水汲みって……? ああ、水道が引かれてないのか。それにしたって、こんなに暗いのに?)
晶が信じられない思いでいると、さよが近づいてきて、顔を覗き込んでくる。
(あれ?)
さよは昨夜、かやに濡れた布を渡され、顔や身体を拭いたはずだった。それなのに、顔や手足に砂埃や泥が付いている。
汚れて黒ずんだ肌はさておき、さよの目許や口許を見て、晶は感心する。
(やっぱり、姉妹だな)
目鼻立ちの整った顔は、かやと、よく似ていた。
「さよも、行っていい?」
「ん、いいけれど。さよは小川で、きれいな小石を拾いたいんでしょう? でも、来るなら水を汲むのも手伝ってくれる?」
「わかった!」
返事を聞くや否や、さよは、ぱちっと目を開いて、元気いっぱいに答えた。
外はまだ、真夜中と言っても差し支えない暗さだ。
さよが、かやの手を握り、不安げに尋ねる。
「姉さん、すぐに明るくなる?」
「うん、もうすぐ明るくなるよ。……本当に怖がりなんだから。それでよく、ひとりで山に入ったね」
かやは頬を緩め、笑みを含んだ声音でからかうように言った。
さよは、ばつが悪そうに視線を泳がせ、拗ねたように小さく口を尖らせる。
「だって、姉さんはすぐに、さよのこと、迎えに来てくれるでしょ? それでね、さよ……ね。姉さんが『どこにも行かないから、戻っておいで』って、言ってくれると思ったんだもの」
「……」
唇を開いて、かやは何かを言いかけるも、止める。さよから視線をはずして、夜空を仰ぎ見た。
「ほら、空がほんの少し明るくなったよ」
空の端が朧げに白く焼けると、姉妹は水汲みに出掛けた。
ただでさえ薄暗いのに霧が立ち込め、視界が悪い。かやは、さよの手を引き、ゆっくりと細い道を進んだ。
空に放たれた淡い陽の光が、間接的に山間を照らすと、霧に包まれた村が、幽かに浮かび上がる。
ゆるやかに蛇行する小川があり、それに沿うようにして村道が作られていた。小川から山裾までの、決して広くはない土地には田畑が広がり、山際には家屋が建ち並んでいる。
山間を流れる小川を中心とした、細く長い山村であった。
道すがら村の景観を眺める晶は、ふ、と違和感を覚える。
見渡す限り、すべての家が茅葺屋根だ。
(電気が通っていない、水道も引かれていない茅葺屋根ばかりの山間の村で、かやも、さよも着物を着ているのに。……ふたりとも言葉に訛りがない)
制服を着用している祐樹や晶とは、明らかに時代が違う。
山に囲まれた山村で、かやの家にラジオやテレビといった媒体は、見当たらない。それなのに、ここまで自然な共通語を話せるものだろうか。
晶は、不思議に思う。
道なりに歩いて行くと、小川に簡素な橋が架かっているのが見えた。
対岸には、土手を削って作られた階段が水辺へと伸びており、人ひとりが作業できるくらいの足場もある。
水汲み場だ。
しかし、かやは歩調を緩めることなく、さよを連れて橋を素通りする。
(あれ? 水を汲みに来たんじゃないのか?)
しばらく歩き続けると、山から小川に流れ込む、細い支流があった。支流は、村道を横切って流れており、厚みのある木を削って作られた板が数枚、橋代わりに架けられている。
かやは、そこで向きを変え、支流に沿って山へと分け入った。
支流は細く、水嵩は踝あたりまでと、非常に浅い。
けれど、水は美しかった。
山の傾斜を転がるように滑り、さらさらと涼しげな音を奏でる水は、硝子の如く透きとおっている。思わず足を止めて触れたくなるほどに、心は水に惹きつけられた。
「姉さん、ここだね!」
さよが、後ろから追い越して、水辺を指さした。
そこは、岩や小枝、枯れ葉などが水をせき止めて、ほんの少し深くなっている。
かやが頷くと、さよは川底を覗き込んで歓声を上げた。
「わぁ、姉さん見て! 赤や白の、きれいな石があるよ! 翠の石も、……青いのも!」
言うが早いか、さよは片手を伸ばし、川底の小石をいくつか拾い上げる。そして、それらを空の水桶に放った。
夢中になって川底の小石を拾うさよに、かやは呆れたように言う。
「さよったら、水を汲むのを手伝ってくれるんじゃなかったの?」
「持って帰って、父さんにも見せてあげるの!」
「もう」
仕方ないとばかりに笑って、かやは手許に視線を落とす。
水を汲むために小川を覗き込むと、薄明の空を映す川面が水鏡となり、かやの姿を映し出した。
(……やっぱり)
晶は、胸の内で呟く。
かやは、黒髪を後ろでひとつに束ねた少女。
冥路にいた白子の少女と瓜二つの、黒髪の少女だった。
(髪と瞳の色が違うけど。光っていないからか、こっちのほうが自然だな)
「あ!」
水桶を手に、足首までを水に浸していたさよが、小さな声を上げた。
かやは手を止め、すぐに隣に視線を移す。
「どうかした?」
「小さい魚がいる!」
さよは水桶を岩の上に置き、嬉々として両手を川に突っ込んだ。しかし、魚はしなやかに痩躯を躍らせ、指の間から逃げてゆく。さよは、ばしゃばしゃと大きな水音を立てて、魚を追いかけ始めた。
「およし!」
咎める声に驚いて、かやは弾かれたように振り返る。
背後に立つのは、空の水桶を持ち、険しい表情をした中年の女性だ。
さよが足を止めると、女性は憤慨した様子で、早口に捲し立てた。
「水を濁らせたら、後から汲む人が迷惑するだろう! それに、この辺り一帯の小川は、水神さまの御住まいである、御池の水だってことを忘れたのかい⁉ 日照り続きなのに辛うじて川が干上がらないのは、水神さまの御池から流れる水のおかげだ。その大切な水を濁らせるだなんて、罰が当たるよ!」
びくっ、と肩を竦ませたさよが、かやの許へと走り寄ってきた。かやの後ろに隠れて縮こまり、ぎゅぅっ、と着物を掴む。
かやは女性と対面し、謝罪の言葉を口にする。
「妹には気をつけるように、よく言って聞かせますから、どうか勘弁してください」
女性は、ふんと鼻であしらい、さよを睨めつける。
「鱗のある蛇も魚も水神さまの御遣い、『神使』だというのに。追いかけまわして虐めるなんて、とんだ悪餓鬼だよ! まったく、小汚い子供だね。どこの子だか知らないが、水神さまの御怒りを買って村に災いが降り懸かったら、どうしてくれるんだい⁉」
(小汚い子供って、あんまりだろ。……でも)
さよに対する辛辣な言葉に不快感を覚えながらも、晶は、女性の物言いから、ひとつ気づきを得る。
日本には、ありとあらゆるものに神が宿る八百万神という概念がある。
八百万神を信じる人々にとって、山川草木に宿る神々とは、自然の摂理と同義なのだろう。
つまり。
(神や、その眷属に敬意を払わないと、天罰――、天変地異が起こるって考えなのか)
当然、自然災害が起これば、村全体が危機的な状況に陥る。
村の女性は、それを恐れているのだ。
「次からは気をつけます。ほら、さよ」
かやは、さよの肩に手を置いて軽く押し、謝罪を促した。
しゅんとして項垂れ、さよは小さな肩を落とす。
「もうしません。ゆるしてください」
かぼそい声を震わせながら、言った。
ぴくん、と女性の眉が跳ねて、大きく目が見開かれる。
「さよ? もしかして、あんたたちが昨年の秋頃、一家で村に移り住んだっていう……?」
「はい」
「じゃあ、姉さんのあんたが、今度水神さまに巫女としてお仕えすることになった、おかやさん?」
かやが小さく頷いてみせると、微かな驚きに彩られていた女性の表情が、瞬時に変化する。すっ、と表情が凪いだかと思うと、女性は目尻をさげて、親しげに微笑んだ。
「あぁ、そう。そうだったの……! あたしは別の村に嫁いだんだけど、なにせこの日照りだろう? 旦那が死んだら厄介払いされてさ、最近出戻ってきたんだ。だけど、御池の水があるとはいえ、川は痩せてしまって、この村だっていっぱいいっぱいだからね。まったく、どこへ行っても肩身が狭くて嫌んなるよ。それで、あたしは夜が明けたら人目を忍んで、ここでこっそり水汲みさ。あんたたちも、そうだろう?」
「……ええ」
急に余所行きの声を出し、態度を翻す女性に相反して、かやは表情を曇らせ、返す声は低く消え入りそうになった。
女性は値踏みするかのように、かやの上から下までを、じっとりと眺めまわす。
「ふぅん、確かに。水神さまの巫女に選ばれるだけあって、あんたは色が白くて器量良しだね」
腑に落ちたと言わんばかりの、女性の口調に引っかかりを覚えた晶は、その表情をつぶさに観察する。
女性は口許に笑みを浮かべてはいるものの、眼差しは鋭利で、まるで物の価値を測るかのように冷徹であった。
「……」
かやは口を閉ざすと、女性の視線から逃れるかのように、やんわりと睫毛を伏せた。
後ろに隠れていたさよが、ひょっこりと顔を出して、小声で尋ねる。
「姉さん、色が白くて器量よしって、なぁに?」
「ん? ん……、とね」
咄嗟に答えられずに、かやは口ごもる。すかさず、女性が答えた。
「おかやさんの肌は、降ったばかりの新雪みたいに……、透き通るように白いだろう? 山の頂に降りた神さまは、白い生き物を好まれ、御身を白蛇や白猪に変えられるからね。肌が抜けるように白く、それでいて美しい女子なら、きっと、水神さまもお喜びになるさ」
さよは、考え込むように小首を傾げる。
「姉さんは、美人さんってこと?」
「そんなことは……」
かやが困惑し言い淀むと、女性は、にぃと笑った。
「ああ、おさよさんの姉さんは、間違いなく村で一番の美人だよ」
姉を誉められたさよは、喜びや憧憬といった感情に彩られた瞳でかやを見上げ、満面に笑みを浮かべる。
女性は、かやに視線を移し、「そう言やさ」と話題を切り替えた。
「あんたたちの父さん、床に臥せっているんだって? 春先に山で採れた山菜を、干した物があるんだ。うちで作った味噌や、黒米と一緒に少し分けてあげるから、持って帰って父さんに食べさせておあげよ」
「え? いいんですか?」
かやは申し訳なさそうにして、女性の顔色を窺う。
女性は、すぅ、と目を細め、小さく頷いた。
「もちろんさ。村の人間が困っているのなら、手助けするのは当然だもの。ましてや、おかやさんは、村のために巫女さまになるんだからね」
――飢饉の最中。
日照り続きで、地域一帯は慢性的な水不足だ。
雨が降らなければ川は痩せ細り、山の傾斜地にある田畑には、満足に水が行き渡らない。当然、作物は育たない。
食料は、貴重なはず。
けれども。
(そっか。村は、ひとつの共同体だから)
村の一員だと認められれば、かやたち一家も相互扶助の恩恵に与ることができるのだろう。
くい、と着物の裾が引かれ、かやが見下ろすと、さよは屈託のない笑みを浮かべて、ぴょんぴょんと跳ねた。
「姉さん、食べ物をくれるって!」
さよが無邪気に声を弾ませると、かやは静かに微笑み、頷いてみせる。
襟を正して女性に向き直ると、感謝の意を込めて深々と頭を下げた。




