永訣
三年後――。
――この度は、ご愁傷さまでした……。
父の通夜式に参列する人たちが、そんなふうに入れ代わり立ち代わり、声をかけてくる。
親戚、近所の人、父の同窓生、会社の関係者、趣味の友人たち。
自分の両側に立つ母や兄に倣い、晶は頭を下げる。
「本日は父のために、ご参列いただき、ありがとうございます」
会社の関係者と、そして意外に趣味の友人が多い。
会場に用意されていた二百五十の席が埋まり、葬儀場の職員が椅子を足し、参列者を案内している。
棺や遺影を前にして涙ぐむ参列者たちに、晶は、父の知らない一面を見たような気がした。
「こちらの息子さん、高校生?」
社会人の兄、和真は黒いスーツだ。
だから、制服を着用している自分が声をかけられたのだと、判った。
晶は顔を上げて、父よりも年上に見える男性と視線を合わせる。
「はい、そうです」
「いくつ? 高校、何年生?」
「高校二年、十六です」
「白河さん――、お父さんには、仕事で色々とお世話になってね。急なことで本当にびっくりしたよ」
「……はい。倒れた日の朝も、父は普段と変わらずに元気で。昼頃に仕事先から救急車で運ばれて、そのまま意識が戻ることなく……」
「高校生のお子さんがいるなんて、お父さんも心残りだったろうに……。君も大変だろうけれど、しっかりね。お母さんを大事にね」
声を震わせる男性に、晶は深く頭を下げる。
「はい。……ありがとうございます」
どうして彼が涙ぐんでいるのか、晶には解らなかった。
涙を浮かべるほどに、彼は父と親しかったのだろうか。
対して、息子である自分は、涙一粒浮かべていないというのに。
倒れたのだと報せを受けた時も、意識のない父と面会した時も、……亡くなった後でさえも。
神妙な顔を俯かせる和真の瞳は潤んでいて、時折、彼は目頭を押さえている。
泣き腫らした母の目も、真っ赤だった。
やがて、弔問客が途切れて。
通夜式の受付を見遣る母が、感情を押し殺したような声を絞りだした。
「不倫相手の女が来ている……!」
晶は伏せた目を、隣の母へと滑らせる。
晶よりも頭ひとつ分も背の低い、小柄な母の小さな拳は、白くなるほどに固く握られ、細かく震えていた。
父の不倫は、既に終わった話。
そう認識する晶は、母の拳から目を逸らして、小さな吐息を漏らす。
平静を装い、静かに訊いた。
「……どの人?」
母が父の不倫を暴いた時、相手の女性は四人いた。
浅く息を吸い込んで、晶は淡々と言葉を紡ぐ。
「和真くんが生まれた頃から、二十年続いていたひと? かずくんとあまり年の変わらない、若いひと? 真面目そうなのにって言っていたひと? それとも――」
和真が、隣で目を瞠るのが判った。
「晶、なんでお前、そんなに詳しく……」
和真の声を遮ったのは、悔しそうな母の声だった。
「二十年続いていた女と、ダブル不倫の女……。念書まで取ったのに……! お父さんが死んだ後にわかったの! まだ続いていたんだって――!」
ざわり、と晶の全身を巡る血が、さざ波立つような感覚があった。
……かしゃっ。
耳の奥で、薄い殻の割れる音がする。
不意に頭が真っ白になって、瞼に浮かぶのは白い壁に投げつけられて潰れた、生卵。
かしゃ……っ。
力任せに叩きつけられた生卵が、壁にべったりと貼り付き、ふたつ目の黄色い染みをつくる。
ゆるりと首を巡らせると、冷蔵庫を開けた母が次々に生卵を掴んで、投げつけてくる。
父が、晶の背後に隠れるから――。
卵が。食器棚から掴みだされた皿が、次々と頭上を越えて壁に当たり、音を立てて割れてゆく。
けたたましい衝撃音が鼓膜を貫き、呼吸が詰まる。
最早、聞き取ることのできない言葉を喚き散らしながら、母が包丁を掴んだ。
胸許に構え、絶叫する。
「殺してやるからー!!」
晶の思考が、すべてを拒絶するかのように停止した。
自分に向けられる包丁の鋭い切っ先を、晶は茫然として視界に映す。
身体が強張り、動かない。
「――っ!」
背後で父が晶の衣服を強く掴み、何か怒鳴ったようだが、聴こえない。
どん……、と。
父が、晶の背中を掌で衝いて、母の方へと押しやった。
血の気が引いて、晶の全身が温度を失う。
部屋から逃げ出す父の気配を背中越しに感じながら、晶は母とふたり、キッチンに取り残されて。
「……もう、やめなよ。母さん」
立ち尽くす晶は、床に泣き崩れる母を見下ろし、自分でも驚くほど感情の無い、冷たい声を掛けるのだ。
「――晶!」
和真に呼ばれ、鮮明すぎる記憶に呑まれていた晶は、はっとして我に返った。
長距離を走り終えた後のように胸の鼓動が激しくなり、咽許まで心臓がせり上がってきたかに感じる。身体中に心音が鳴り響いていた。
緊張から感覚を失う指先が、今にも震え出しそうになり、ぎゅっと拳を握る。
「どうした? ぼーっとして。……もしかしてお前、具合が悪いのか?」
心配そうに顔を覗き込んでくる和真と、目を合わせる。
父の不倫がわかった、あの時。
和真は大学生で、他県に住んでいた。
大学卒業後も、その地で就職をした和真は、独り暮らしを継続し、家に戻ってこなかった。
だから。
穏やかで優しかった母が、父の不倫を知って豹変した姿を、和真は知らない。
母の話を聞いて慰めるのも、喧嘩をするふたりの間に入るのも、晶だった。
父の不倫が判ったきっかけとなる出来事から、父が不倫相手たちとやり取りしたメールの内容。
彼女たちの言い分。
……開き直る父。
すべて母から聞かされ、事細かに覚えている。
治まることのない激しい動悸に追い詰められ、焦燥感が募ってゆく。
(ここしばらくは、なかったのに……!)
幾度となく経験したことで、晶は自分の身体に起きていることを理解する。
「ごめん、大丈夫だよ。何でもない」
笑みを浮かべて答え、母や和真に体調の変化を悟られないように、俯く。
――大丈夫だ。
ここには人目があるから、母だってきっと、取り乱したりはしない。
動悸を少しでも落ち着かせるために、晶は、自らにそう言い聞かせる。
呼吸が乱れてしまわないよう腹に力を込めて、肺に溜まる空気をすべて体外に押し出す。大丈夫だと胸の内で唱えながら、ゆっくりと肺に空気を取り入れる。
それを、何度も繰り返す。
しばしの沈黙の後。
祭壇に飾られた父の遺影を見つめていた和真が、ぼそっと呟いた。
「そういえば俺、父さんと話をした記憶が全然ないんだよな」
「……うん。かずくんは、知ってるんだよね? ……父さんのこと」
限りなく声を潜めて晶が尋ねると、和真は小さく頷いた。
「母さんから、それとなくな。まったく、なにやってんだか」
「……」
嫌な記憶が波の如く押し寄せて、晶を包み込んでゆく。
――あんたが、不倫なんてするからだろ……!
慣れない手つきで自分の衣服を畳み、ぶつぶつと母の文句を言う父に、晶は、そう吐き捨てた。
勤務先に長期休暇の申請をした母が、『馬鹿な真似はしないから、警察には連絡をしないで欲しい』と書置きを一枚残して、家を出て行った時のことだった。
母方の祖母は、母を産んですぐに亡くなっている。祖父も晶が小学生の時に亡くなった。母には帰る実家が無く一人っ子だったために、身を寄せることのできる兄弟もいない。
そんな母を心配するでもなく、まず文句を言う父に嫌気がさしたのだ。
母は、父がどんなに家を空けていても、文句ひとつ言わない人だった。
休日を返上して仕事に行くのだという父を信じ、或いは趣味を理由に出掛ける父を快く送り出した。
幼い頃、晶が家族揃って出掛けられない不満を口にしても、母は、家族を支えてくれている父に感謝するよう言い聞かせた。
母自身は、自分に自由な時間が無くても常に微笑んでいる人だった。
だからこそ、無性に腹が立った。
父は鬼の形相で、すぐさま怒鳴り返してきた。
「親に向かって、あんたとは何だ! 誰に向かって口を利いている! この……っ!」
「嘘つき……!」
朝から夜遅くまで仕事に勤しむ父を、誠実な人間だと信じていた。
父を親として尊敬する気持ちもすべて、踏みにじられたような気がした。
「誰のせいでこんなことになったと思ってるんだよ! 父さんは、母さんに一度だって謝ったのか⁉ ……謝らないから、だから出て行ったんじゃないのか!? 母さんに謝れよ!」
「子供のくせに大人の話に首を突っ込むな! お前には関係ない!」
関係ないという言葉に、かっ、と血が上った。
母を裏切り、不和の原因を作ったくせにという怒りが口を衝いた。
「家族の誰かの具合が悪い時だって知らん顔、一度だって病院に連れていってくれたことなんてない。家のことも子供のことも、自分の親のことだって全部母さんに押し付けて、家になんていなかったくせに! 外で女と好き放題遊んでいたくせに! 親だっていうんなら、親らしいことをしてから言えよ!!」
以来、晶は父を避けて、碌に口を利くことをしなかった。
否、元々父と会話なんて、なかった。
常に家にいなかったのだから。
家族といるよりも自分の時間を優先する父は、和真や晶に関心などなかったのだから。
父が最近まで不倫相手たちと連絡を取り合っていたことを知り、晶の心に残っていた一握の哀しみは、たちどころに乾いて消え去った。
和真は母を窺い見ると吐息を漏らし、ひそひそ声で懇願する。
「これから通夜なんだからさ。頼むから母さん、変なこと言うなよ」
硬い表情の母は、堪えるように一呼吸置いて、頷いて応えた。
「わかってる」
目を伏せた和真が、辟易として言った。
「母さんに名前も顔もばれていて、よく来られるよな。来たことがわかれば、俺たちが嫌な思いをするとか、考えなかったのかな」
記憶に伴い、引きずり出されそうになる感情を、晶は懸命に抑え込む。感情に蓋をすると、心は急速に冷えていった。そんな自分を挟んで会話をするふたりの声は、薄硝子一枚隔てた向こう側で囁かれたかのように、ぼんやりと遠い。
母と和真の顔を見ることができずに、晶は視線を落として呟く。
「俺は、……ひとりくらいは、来ると思ってたよ?」
不倫相手たちの言い分を思い返す晶は、唇を苦く歪めて微笑する。
晶にとってそれらは、自分本位の人間の唱える、身勝手な理由だった。
どんな理由を並べ立てようと、既婚者と知りながら父と不倫関係になった彼女たちも、所詮、父と同じ穴の狢。
凍て付いた心の吐き出す言葉は、軽蔑の音色を伴い、晶の口から冷ややかに滑り落ちる。
「だってさ、周りの誰かを傷つけることがわかっているのに、自分の思考や感情を優先させる人間が、遺族に配慮とか遠慮なんて、できるわけないじゃん」
つい先程までは。
父との嫌な思い出に蓋をして、静かな気持ちで送り出せると思っていたのに。
今は、通夜式を執り行う僧侶の声が、やけに白々しく耳を通り抜けてゆく。
故人への手紙を読み上げ、むせび泣く父の友人の姿を、晶は無感情に眺める。
父に対する別れの言葉は腹の底に押し止められ、引き結ばれた晶の口から、ついにこぼれ出ることはなかった。
晶は、父の死を悼むことのできない自分ひとりだけが、この空間にそぐわない異物のようだと感じていた。
本話の葬儀は、新型コロナウイルス感染症が、2類感染症から5類感染症に変更された、令和5年5月8日以降を想定して書いています。