嘆息
晶の手の中にある、雪華蛍の灯りを点した白花が、ひとつ。
ほろり、と花茎から離れて――。
白花は、小さな紙風船の如く軽やかに宙を転がり、まっすぐに子供の許へと向かう。
背後から近づく淡い光に気づいた祐樹が、首を巡らせる。
大きく目を瞠った祐樹は白花を一瞥し、次いで晶と視線を交わす。
「晶? 何を――!?」
祐樹と子供の間をすり抜けて、その足許に舞い降りた白花の淡い光が、瞬時にして、ふわぁっと広がり、音もなく弾けた。
やわらかな白光は薄布を彷彿とさせる光の帯となって、ふたりの足許から下へ。ゆるやかに大きな円を描きながら、流れるように下りてゆく。
それはまるで、儚い月光を閉じ込めた擦り玻璃のような――。
「螺旋、階段?」
足許から伸びた螺旋階段に、祐樹が小さく驚きの声を上げた。
晶は、自分が創り上げたのであろう螺旋階段に瞳を据えて、唇を苦く笑みの形に歪める。
またしても。
「……どこ行ったよ、提灯」
思い描いたものと、全然違う。
「俺の脳、バグってんのかな」
釈然とせずに眉を寄せ、嘆め息を漏らす晶の目の前を、雪片が一片、また一片と舞い上がる。
雪華蛍だ。
次々と上空へと降ってゆく雪華蛍に誘われ、顔を上げた椿が、くい、と晶の手を引いた。
「晶、上を見て」
「えぇ? ……あっ!」
促されて視線を持ち上げた晶は、思わず驚きの声を上げた。
椿の抱えていたホタルブクロの白花のすべてが、花茎から離れて、ゆらゆらと宙に浮かんでいる。
数は、およそ十五といったところか。親指ほどだった白花は、その一つひとつが、祭りなどで飾られる長型の提灯ほどの大きさとなっていた。
「上かぁ! そう、これこれ!」
晶の想像していたホタルブクロの提灯、そのものだった。
「晶、しぃー」
静かに、と。
唇に人差し指を当てた椿に注意され、腰を屈めた晶は、彼女と目線を合わせる。自分自身も唇に人差し指を当てて、謝罪する。
「しぃー、だったな。ごめんごめん」
近くに眠りに就こうとしている子供がいるのに、大きな声を出してはいけない。
周囲一帯を飛翔する雪華蛍が、白花に集まってゆく。彼らは、ホタルブクロの上質な和紙を彷彿とさせる薄い花弁を内側から透かし、呼吸をするかのように灯りを明減させる。
呼応しあう光が揃い、ゆるやかなリズムを刻む。
雪華蛍の光を湛えた花々は、ゆったりと宙を滑り、祐樹と子供を囲うように上下左右に散らばった。
冥路の薄闇に明るく照らし出された螺旋階段が、幻想的に浮かび上がる。
微風に運ばれる雪片の如く、飛来する雪華蛍が、次々と子供の背後から脇をすり抜けてゆく。
定められた径を進むかのように、光の粒が群れを成して螺旋階段を下ってゆく。
コツ……、と革靴の踵を小さく鳴らして、晶は足を踏み出した。
薄暗い、見知らぬ場所。
ひたすら下に向かって伸びる、何処に向かっているのかも判らない螺旋階段。
幼い子供が一歩踏み出すのを、躊躇わないはずがない。
だから晶は、雪華蛍の明減にあわせて踵を鳴らし、螺旋階段を三段、四段と下りてゆく。
足を止めて振り返ると、くりっとした大きな瞳が、晶の目の高さにあった。
不安げな瞳に見つめられた晶は、大丈夫だと伝えるために、微笑んでみせる。
晶の隣に並んだ椿が、子供に両手を差し伸べ、誘いかける。
一緒に歩こう――?
椿と晶を交互に見た子供は、そろそろと祐樹の顔を振り仰いだ。
祐樹が静かに微笑んで返すと、子供は戸惑いながらも、再び前を向く。雪華蛍がそばを通り過ぎて、その淡い光が瞳に映り込むと、子供の足が自然と前に出る。
すかさず椿は、そばに浮遊していたホタルブクロの花茎を指で摘まみ、提灯として掲げた。雪華蛍たちと螺旋階段を下り始めた子供の歩調に合わせて、先導する。
子供の隣を歩こうとして、晶は視界の隅で閃く小魚に気づき、はっとなった。
顎を上げて、周囲に目を走らせる。
(いつの間に……?)
やわらかな光を湛えるホタルブクロの花陰に、もしくは螺旋階段の外側をぐるぐると渦を巻くように。雪華蛍の間を縫って、小魚たちはすいすいと泳ぎ回る。
一匹の小魚が、晶の顔の近くに寄ってきて、留まった。
晶の瞳を覗き込む小魚の眼は、純粋な黒。
晶の姿を映し返すことのない透明な漆黒に、視線が吸い寄せられる。
ぴくりとも動かない、黒い眼の奥底にちらつくのは、晶に対するあけすけな興味。露骨なそれに、晶は思わず息を呑む。
何か、まずいことをしてしまったのだろうか。
そんな思いが脳裏を過り、緊張が晶の呼吸を閊えさせる。
「晶」
真後ろから祐樹に名を囁かれた晶は、ぎくりとして顔を引き攣らせる。ぎこちなく小魚から視線を外して、振り返った。
祐樹は、螺旋階段を下ってゆく椿と子供の背中に一瞥をくれて、晶の隣に並んだ。
「あの子のために、白花の提灯りを、ありがとうございます。……それと、新しくあなたの往く径を創ったということは、晶は、あの子に付き添う心算なのですね」
「俺の往く、径? あの子のじゃなくて?」
「ええ。晶が進もうと考えたから、径が岐れたのでしょう。ですが、どうしましょうか? 晶が最初に作った径から逸れてしまえば、遠回りになります。晶と椿には先へと進んでもらって、僕とあの子だけで、螺旋階段を往くこともできますが……」
元ある径を往くのか、子供と一緒に螺旋階段を下りて往くのか、祐樹は尋ねた。
『言霊』を使ったことを咎められたのではないのだと判って、ほっと胸を撫で下ろした晶は、大きく息を吐き出す。
「椿も、もう螺旋階段を下り始めているし、遠回りになったとしても、俺は別に構わないよ」
もとより、子供と一緒に歩く心算でいたのだ。
少しくらい多く歩いたって、どうってことない。
「それよりも、さ――」
「はい、何でしょう?」
小首を傾げる祐樹から視線を滑らせ、晶は、近くに留まる小魚を横目で見る。
持ち上げた手首を胸の前に留め、控えめに小魚を指差す。
「――白花の提灯と螺旋階段は、セーフ?」
ぱちくりと目を瞬かせた祐樹が、ふと頬をゆるめる。
「セーフ、ですよ」
可笑しそうに呼気を弾ませた祐樹は、ほぅ、と小さく息を吐いて目を伏せ、ちら、と小魚を流し見る。
「冥路に惑った死者のために灯りを点し、死者に寄り添うべく径を改めた晶がアウトなら、冥路限定とはいえ、髑髏に仮初の身体を与えた僕は、とっくにアウトでしょう?」
自分自身に事例を引き合いに出し、安心させるかの口調で祐樹は言った。
「いや、でも……」
言霊を使う度に現れる小魚たちが、どうにも気になる。
落ち着かずに、晶が辺りを閃く小魚たちを眺めあげると、物想う顔をした祐樹は、薄らと口を開く。
「僕たちの動向を注視する小魚たちは、『言霊』の影響を受けない監視役なのですが――」
「監視⁉」
ぎょっとして声を荒げた晶は、慌てて口許を片手で覆う。
声の余韻が収まるのを待って、祐樹は静かに、穏やかな声音で話を継いだ。
「ええ。ですが……、小魚たちは、決して僕たちを嫌っているわけではないのですよ」
「え?」
祐樹の真摯な眼差しが、晶の双眸を、ひたと捉えた。
「水底におりた命に望みをみて、芽吹けばよろこびを唄う。茂る葉が陰をおとせば憂いをあそばせ、蕾がほころべば花片を口にふくみ、花の香をたしなむ。そうして小魚たちは、彩とりどりの淡くちいさな嘆息を、そぅっと吐き出すのです」
まるで、植物の育つさまを語るが如く。
感情の彩りのない透き通る祐樹の声が、淡々と、晶の耳の奥に刻まれてゆく。
小魚たちの監視の対象となるのは、冥路にとって『異質な存在』――。つまり、祐樹や晶のことである。
祐樹の喩えが、今しがた自分を見つめていた小魚の眼と相俟って、全身の肌が粟立つ。身を竦ませた晶の声が掠れて、うわずった。
「それって、どういう……?」
「長きに亘り、退屈をもてあましてきた小魚たちにとって、冥路に落ちた生者は、彼らに刹那の愉しみを与える存在でもあるのでしょうね。……水底に落ちて身動きひとつ取れなかった僕の耳許で、呼吸の仕方や冥路の何たるかを囁いたのは、他でもない小魚なのですから」
「えっ……」
今までに小魚を鑑賞することはあっても、まさか自分が小魚に鑑賞される日が来ようとは。
思いも寄らない小魚の嗜好を聞かされ、観点がひっくり返ったかのような、奇妙な感覚に襲われた晶は、呆然として沈黙する。
祐樹は螺旋階段を一段、二段と下り、はたと足を止めて振り返る。銀の鱗を閃かせる小魚の群れを気にも留めず、やわらかに目を細めて、にっこりと微笑んだ。
「さ、行きましょうか」