理由
夏の陽射しが降りそそぎ、明るく眩しかった現世は、幻のように消え失せて――。
晶は自分が、そこから離れたことを察する。
色彩反転し、瞬時に変化した景色についてゆくために、晶は軽く目を瞑った。
――ここは、現世と交差する前にいた冥路。
晶の創った径の上だ。
ゆっくりと深呼吸をして、晶は瞼を持ち上げる。
それと同時に、とん……と、何かが正面から飛び込んできて、ぎゅうっと晶の腰にしがみついた。
視線を落として、自分の腹部に顔を押しつける少女を認め、晶は大きく目を瞠る。
「椿?」
顔を上げた椿が、星光を浮かべる瞳で心許なげに晶の顔を覗き込み、ぎこちなく笑んでみせる。
「ん? どうした?」
「……」
椿は晶を見つめて、ただ静かに微笑むばかり。
「あ、……そうか」
祐樹と意見が対立したことに苛立ちを覚え、その感情を彼に向けた自覚のある晶は、自分が川の方角を向いていたことに気づいた。
冥路の径の、延長線上にある川に隠れていた椿からは、土手で祐樹と晶が言い合う様子や、晶がどんな顔をしていたのかも、見えていたはず。
怒らないで……。椿に、そう訴えられているような気がした。
「ごめん。俺、怖い顔してたよな」
椿を怯えさせ、あまつさえ気を遣わせてしまったのだと思い至り、晶は心底情けなくなる。
晶と目を合わせたまま、椿は違うといわんばかりに、ふるふるっと小さく首を横に振った。
「晶はね、溺れる小魚みたいに苦しそうな顔をしていた」
ほんの刹那、息が止まった。
羞恥と動揺が波紋の如く全身に広がり、晶は、咄嗟に返す言葉がみつからない。代わりに、表情を曇らせる椿の頭に、そっと掌を乗せて、大丈夫だと口角を上げてみせる。身体を離そうとするも、椿は晶にぴたりとくっついて、離れようとはしない。
身動きが取れない。
どうにもいたたまれない気持ちになった晶は、話題を逸らすべく、息継ぎをするように浅く息を吸い込む。
「祐樹は、どこかな?」
ひょい、と椿を抱き上げ、周囲に視線を巡らす。
晶の頭に、椿のこめかみが、こつんと優しく触れる。
晶の視界が固定されると、椿は腕を伸ばして、一点を指差した。
「そこ」
示された先に目を遣ると、椿や晶のいる位置から少し離れた場所に、ふたりは立ち止まっていた。
冥路を見上げ、茫然として立ち尽くす子供の様子を、祐樹が傍らで見守っているようだった。
「今、どういう状況? どうして、ふたりとも黙っているんだ?」
「……冥路にやってきた死者はね、身体を無くして感情も限りなく抑えられるから、ぼんやりとして口を利かなくなるの。たくさん話しかけると死者の眠りを妨げてしまうから、祐樹も黙っているの」
じぃっと、ふたりの後ろ姿に見入っていた椿が、ぽつりと呟く。
「あの子、惑ったみたい」
「惑う……、って?」
椿とくっついていた頭を離して、彼女に顔を向けた晶は、小首を傾げる。
「うん。自分が死者だと自覚できなかった人間は、稀にああして立ち止まってしまうの。冥路に吃驚して、どこへ歩いて行っていいのか、わからなくなるの」
ほのかな憂いを漂わせて、椿は、しっとりと囁いた。
納得がいき、晶は目を伏せて頷く。
冥路に落ちて、白昼夢に迷い込んだように錯覚した自分自身を重ねて、思う。
水底であっても、夜空の真ん中であっても、現世では到底ありえない状況だ。
死者としての自覚がない人間でも、死後の概念さえあれば、あるいは此処が死後の世界の入口だと認識できるかもしれない。しかし、幼い子供となると……。
「どうなるんだ? あの子」
晶の気持ちが、重たく沈む。
晶の肩に手を置いた椿が、するりと腕の中から抜け出した。
椿は、緋彩の尾鰭をしなやかに翻して、晶のそばを離れてゆく。路の脇に積み重ねて置かれたホタルブクロを拾い集めて、腕に抱えた。
そしてまた、すぅっと宙を滑り、晶の許へと戻ってくる。
ゆるやかに明減する冷光に誘われたのか。幾匹かの雪華蛍が、ふわりとやってきて、椿の抱える白花に止まった。
小さな光を愛おしそうに見つめる椿の目が、やわらかに細められる。
「惑ってしまっても、ゆっくりと時間をかけて、冥路の闇に馴染んでいって。眠るように穏やかな顔つきになって。……そうしたら、いずれ正しい路を歩き出せるの。でも――」
ふっと黙った椿は、顔を上げて首を巡らせた。
雪華蛍の幽かな光に照らされる椿のきめ細やかな肌が、白磁の如くなめらかに、薄青い水に映える。
「――祐樹は、あの子をここへと置き去りにはしない。……きっと」
椿の言い回しに確信めいたものを感じて、晶は、子供の傍らに立つ祐樹に視線を投げた。
眉を寄せて、疑問を呈する。
「祐樹は、いつもああなのか?」
冥路に惑わされた晶を助けたように、立ち止まる死者に手を差し伸べて、彼らが歩き出すまで寄り添っているのだろうか。
「うん、そう」
すんなりと頷いて応えた椿に、晶は呆気にとられる。次いで、もやもやとした思いが胸に湧きあがるのを感じた。
「行きずりの他人のために、どうしてそこまで……?」
「『自分のためだから』って、祐樹は言ってた」
「え?」
椿から答えが返って来るとは思わず、どきりとして、晶は隣に顔を向ける。
無垢な黒い瞳が、まっすぐに晶を見つめ返した。
「何もせずにいたら、いずれ『自分』が消えてしまいそうで怖かったから……。過去に犯した過ちも選択も受け入れて、これからも『祐樹』として、冥路で生きてゆきたいから、って」
椿の清明に澄んだ声が、すぅっと晶の耳の奥に届いて沁みこむ。
祐樹の過去に何があったのか、晶は知らない。
だから、彼の考えがそこに至った経緯もわからない。だが。
「なんだよ、それ」
もし仮に、祐樹が他者を助けることは善であるから……、などという漠然とした理由を掲げていたのなら、晶は彼のことを腹の底が知れない人間だと、胡乱な目で見ただろう。
けれども、祐樹の行動の根源にあるのは、彼の過去の経験によって培われた価値観と、そして彼が冥路で生きてゆくために掲げたであろう、信条のようなもの。
「要は、祐樹がそうしたいってだけだろ。でも……」
少し解かる、と独りごちた晶の頬が、自然とゆるむ。
――結局。
自分自身の信条に従い、他者に寄り添おうとしている祐樹も、己の主観で動いている。
過去の記憶を基に、子供を現世に還したいと願った晶と、変わらない。
根本となる理由は違えど、『目の前の子供のために、何かしたい』という気持ちは同じだ。
晶は自分自身がどうしたいのか、いま一度、思案に耽る。
己の言動を省みる。
子供を真に思うのであれば、自分自身の考えや都合を一方的に押し付けるのではなく、その状況を慮り、『個』を尊重するものでなければいけないのだろう。
感情的になり『錨』を押しつけて、結果、子供を苦しめてしまうのであれば、それは単なる利己主義でしかない。
笑んだことで肩の力が抜けた晶は、ほんの少し柔軟に、考えを改める。
死者となった子供を現世に還せないのなら、やり方を変えればいい。
抱いた気持ちまで、変える必要はない。
晶は、そう結論付けた。
「それなら、あの子に死者としての自覚が芽生えるまで、一緒に歩きたいんだけど。いいかな?」
胸に燻っていたもやもやが吹っ切れて、声音をやわらかにした晶に、椿は怪訝そうに首を傾げる。
「一緒に歩くの? 晶が?」
「そう。俺がそうしたいから」
力強く答えた晶は、椿の抱える白花を眺め、考えを巡らす。
細長い白花は、ふっくらと丸みを帯びていて、ホタルブクロの名の通り袋状だ。
「あのさ、ホタルブクロの別名って、灯籠花とか提灯花なんていうのもあるんだっけ?」
「うん」
答えを得て、晶は椿の腕の中から一本のホタルブクロの花茎を摘まんで抜き取り、目の高さに翳す。
灯籠や提灯は、盆の時には仏具として、現世に還ってくる死者の魂が迷わないよう飾るのだと、聞いたことがあった。
「惑ったのなら、道標を作ればいい」
路を創った晶には、それを可能にする力がある。
そばには、冥路をよく知る祐樹と椿がいる。
「足を踏み出せないのなら、隣に立って一緒に歩けばいい。……俺も、祐樹と椿に、そうしてもらったから」
椿は驚いたふうに目を瞠り、しばし晶を見つめる。やがて得心がいったとばかりに、こくりと頷いた。
叶えたい願いは、ひとつ。
「あの子から不安を取り除き、心に安らぎを――」
片手で花茎を持ち、もう一方の手で白花を支えた晶は、わずかに目を伏せ、深く息を吐き出す。
心を落ち着けて……。
晶は、薄く繊細な花弁の白花に、脳内でイメージするものを重ね合わせる。
冥路に満ち満ちた不思議の力を胸いっぱいに取り込んで、願いを叶えるための『言霊』を放つ。
『――道標の名を持つ花よ。冥路を照らす燈火となり、惑う死者を安寧の地へと導け』