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水底に咲く花  作者: 和奏
冥路
17/28

主観


「晶……?」


 涼やかに(とお)る声に(いざな)われ、自分自身の内側にこもっていた晶の意識が、外へと向く。

 桜の木の(たもと)に立つ晶の目の前に、祐樹がいた。

 冥路(めいろ)(こみち)の延長線上に立つ子供の姿は、祐樹の背後に隠れていて、見えない。

 願いは言葉の形を借りて、声を伴い晶の口から紡がれる。


「俺は、『あの子を親許に()()()()』」


 冥路の径をなぞる白い靄が、晶の言葉に反応するかのようにして、不自然に揺らめいた。

 ざぁ……、と川面がさざ波立ち、幾匹かの小魚が身を捩って跳ね、銀の光を鋭く宙に散らす。

 はっとした祐樹は、息をつく暇もなく声を放つ。


「晶、『死者は、現世に()()()()』のです……!」


 凛とした声音で、より強い言葉を被せ、晶の『言霊』を打ち消す。

 子供を親許へ還す方法を知らない晶は、希望を伝えることで、祐樹の協力を仰ごうとした。けれど、祐樹に毅然とした態度で反論され、刹那、気を呑まれる。

 眉根を寄せて険しい顔をした晶は、祐樹から視線を外して、次ぐ言葉を探す。


 川面から跳ね上がった小魚が、きらきらと冥路の上空を舞った。

 ――小魚が、視ている。


 困惑を顔に滲ませる祐樹は、晶の双眸に瞳を据え、沈黙を破った。

「それは道理に反する行いなので、賛同しかねます。どうしたのですか? どうして晶は、そう思うのですか?」

 晶が想いや願いを言葉にする前に、祐樹は口早に理由を問う。

 問いかけられることで、巡らせていた晶の思考が遮られる。微かな苛立ちを覚え、晶は祐樹の顔を見据えた。

「どうして……、って」

 川の畔に独り佇む子供の後ろ姿が目に焼き付いて、やり切れない哀しみが、晶の胸を締め付ける。

 亡くなってすぐの、今なら……。

「あの子は、まだ自分が死者だと気づいていないんだろう? 今なら、家族の許へと還してあげられるんじゃないのか?」


 憂いげに表情を陰らせ、瞳を伏せた祐樹は、ゆるゆると(かぶり)を振った。

「いいえ。その子は既に、死者なのですから……」

「すぐそばに……、触れることができるほど近くにいるのに? 諦めろっていうのか?」

「はい」

 祐樹は迷いのない、まっすぐな眼差しを晶に向けて、応えた。

 自分の願いも希望も真っ向から否定された気がして、晶は、ぎりっと奥歯を噛み締める。


 独り、冥路で心許ない思いをしているだろう子供は、親許に還りたいに違いないのに。

 子供が事故に遭い取り乱したという母親も、子供が戻ってくることを強く望んでいるだろうに。

 父を疎み、母の悲痛な声を遠ざけた薄情な自分よりも、死者として冥路に落ちた子供の方が、余程現世に戻る価値があるように、晶には思えた。

「なんでだよ……!」

 晶は、もどかしい思いを、苛立ちと共に吐き捨てる。


「生きる理由なんて無くたって、生きてる奴は生きているのに。死にたいなんて思ってもいない、ひたむきに生きてる小さな子供が死んじゃうなんてさ。大人は皆、命は等しく尊いなんて言うくせに、現実はこんなにも平等でなくて、公平ですらないじゃないか!」


 分け与えられるものならば、分け与えてしまえばいい。

 誰かを生かすことで、自分の命に意味が生じるのならば……。

 晶は、制服ズボンのポケットに右手を滑り込ませ、『錨』の役を担う小石を掴みだして、祐樹の前で掌を開く。

「これを譲れば、その子を冥路から出してあげられるんだろう?」

 胸許に突き付けられた小石を、祐樹は感情の凪いだ眼差しで見つめる。

「冥路から出すだけなら、おそらくは可能でしょう。ですが、これは晶が現世に還るためのものです」

 物静かに言って、祐樹は晶の手を両手で包み込み、小石を握らせた。一呼吸置いて、おもむろに口を開く。

呼吸(いき)を……」

 吐息にも似た声で囁いて、祐樹は思いを巡らせるように言葉を区切った。


「……え?」

 なんのことかと晶が訊き返すと、顔を上げた祐樹と視線が重なる。


「生きとし生けるものは皆、呼吸をしているでしょう? 呼吸が苦しければ、呼吸をしようと必死に足掻くものでしょう? ……たとえ、どんな想いを抱えていたとしても、『命』とは総じて最後の瞬間(とき)まで懸命に生きようとしているのではないかと……、ひたむきでない『命』などないと、僕は思うんです。もちろん晶だって、同じくひたむきな『命』です」


 祐樹は、曇りひとつない澄んだ瞳で、ひたと晶を捉えた。

「違いますか?」


「……」

 誠実な声音で尋ねられた晶は、気を削がれて言葉を失う。

 祐樹の言うことに、少しだけ覚えがあった。

 呼吸が苦しくて、倒れてしまった方が楽だと思うことはあっても、身体は空気を欲して苦しみから逃れようとした。

 水に落ちた時も、そう。

 苦しさから息を吐き出したのは、新しい空気を吸うためだった。

 それに、晶を含め『命』を一括りにされてしまっては、安易に否定もできない。自分の命を否定すれば、すべての命を否定することに等しいからだ。

 当然、そこには晶が助けたいと願った子供の命も、含まれる。

 自分自身の『生』や『命』を軽んじ、子供の死に(かこつ)けてはいないか。そんなふうに祐樹に問われた気がして、晶の胸の奥がきりきりと軋み、痛みを覚える。


「『(せい)』を受けた以上、『死』は平等に訪れます。だけど、それが『何時(いつ)』かなんて、誰にも判らないでしょう? だから僕は、()を生きる『命』は、皆一様に等しく尊いものだと思っています。平等でないのは、生を受けた場所であり、(はぐく)まれる環境。公平でないのは、それを見つめる個人の主観ではないでしょうか」


 ――ひとつの『命』の織り成す『生』と『死』を見つめ、そこに様々な想いを抱くのは、……個人の主観。


 思案に耽る晶の心が惑い、揺れ動く。

 会ったばかりの知らない子供の死を哀しむのは、晶の主観によるもので、感情のままに生かしたいと願うのは、一方的な押し付けになるのだろうか。


「晶」

 黙り込んだ晶に、祐樹は儚く微笑んでみせる。

「幼い死者を目の当たりにして、晶が哀しみ、助けたいと願った気持ちは、解るつもりです。ですが、あの子が既に、()()()()()()()死者だということは……、どうか、解ってもらえませんか?」

 穏やかだが真摯な口調で願われた晶は、今一度、その意味を考える。

 晶の主観に祐樹が付け加えるのは、当事者である子供の事情。

 それは。

「身体から、離れた――?」

 死者であること。


 晶の手を掬い上げた祐樹が、そうっと引いた。

 晶を連れた祐樹は、川の畔に佇む子供の許へと歩を進め、その背後で手を離す。ひとり、子供の正面へと回り込んだ祐樹は、地面に片膝をついて、再び子供の顔を覗き込んだ。

「ママが、いないんだったね」

 包み込むようなあたたかい声音で祐樹に話しかけられた子供は、こくりと頷いて応える。

「あのね、ママと、こうえんにいたの。ママは? ママ、どこ……?」

 細く消え入りそうな声が上ずり、嗚咽に途切れた。

 小刻みに震える小さな肩に伸ばした晶の手が、子供の身体に触れることなく、するりと通り抜ける。

 息が止まるほど驚いて、晶は、その場に固まった。


 晶は、この子供が死者なのだと、改めて思い知る。

 現世にある身体が亡骸となってしまったから、死者として冥路にいるのだ、と。

 晶が『錨』を使って、冥路から出したとしても、子供は元の身体に戻ることができないのではないか。

 晶の脳裏に、現世を彷徨う子供の姿が浮かぶ。

 誰にも認識されずに、触れられることもなく。

 それこそ。

 ――ずっと、独りで。


「ねぇ、ママは?」

 目許を両手で覆い、しゃくり上げながら尋ねる子供に、祐樹は、やわらかな口調で言い聞かせる。

「ママは、少し遠い所かな……。だから、お兄ちゃんと一緒に歩いていようか」

「いや! ママがいい! ママがいいの……っ!!」

 子供は強い拒絶を示し、ふるふると頭を横に振った。

 まるで、そう言われることが解っていたかのように、祐樹は動じることなく頷いてみせた。 

「そう……、だよね。ママがいいよね。でも、ここに残っていたら独りぼっちになっちゃうから、ね?」


 祐樹が右手を伸ばして、触れるか触れないかの力加減で、子供の頭を撫でた。

 細く柔らかそうな髪の上を、祐樹の手が滑り下りる。子供の胸許に定められた指先が、くるり、と小さな円を描く――。


「ママは、ご用事があってすぐには来られないけれど……、後から来るよ。ここは、もうすぐ暗くなってしまうからね。先に行ってママを待っていようか」

 目許を隠していた両手がほんの少し下がって、そろりと顔を上げた子供が、声の主を確認する。祐樹を見つめて、不安そうに声を震わせる。

「あとから、ママもくる……?」

「うん、来るよ」

「……ホントに?」

「本当だよ」

 淀みない声で祐樹が応えると、子供はしばし黙った後、悲しみを堪えるかのように嗚咽を呑み込んだ。

「……ぼく、ママのこと、まってる」


 ほぅ、と小さな吐息を漏らした祐樹は、口許に微かな笑みを湛えて、立ち上がった。

「偉いな……。強い子だね」

 祐樹が手を差し伸べると、子供は差し伸べられた手に自身の手を重ねようとして、そろりと伸ばす。

 けれど。

 子供の手は、祐樹の手に触れるか触れないかというところで、ぴくんと震えて止まった。


「大丈夫だよ」

 祐樹は優しく言い含めると、触れ合うことなく重なる子供の手を導くように、ゆっくりと隣に引き寄せる。

 一歩、……二歩。

 祐樹の許へと近寄る子供の、たった今立っていた場所に、小さな花が咲いていた。

 青々と茂る夏草の隙間から、しゅっとした花茎を伸ばすのは、小さくも愛らしい一輪の白花。


「白い、……タンポポ?」

 晶が周りを見渡すも、盛夏の河原に咲く花は、それだけ。


 不意に。

 透明な薄影が、砂浜に打ち寄せて広がる波の如く、静かに冥路を這った。

 現世の風景が、仄暗い闇に包まれてゆく。


 ……やがて、闇が霧消して。

 不可思議な冥路は、水底の深みのある(あお)と、澄んだ空の群青(あお)の混ざり合う、美しい紺碧に染め変えられる。

 数多の星が、其処等中(そこいらじゅう)に瞬き――。


 ふわり、と雪華蛍が舞った。


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