主観
「晶……?」
涼やかに透る声に誘われ、自分自身の内側にこもっていた晶の意識が、外へと向く。
桜の木の袂に立つ晶の目の前に、祐樹がいた。
冥路の径の延長線上に立つ子供の姿は、祐樹の背後に隠れていて、見えない。
願いは言葉の形を借りて、声を伴い晶の口から紡がれる。
「俺は、『あの子を親許に還したい』」
冥路の径をなぞる白い靄が、晶の言葉に反応するかのようにして、不自然に揺らめいた。
ざぁ……、と川面がさざ波立ち、幾匹かの小魚が身を捩って跳ね、銀の光を鋭く宙に散らす。
はっとした祐樹は、息をつく暇もなく声を放つ。
「晶、『死者は、現世に還せない』のです……!」
凛とした声音で、より強い言葉を被せ、晶の『言霊』を打ち消す。
子供を親許へ還す方法を知らない晶は、希望を伝えることで、祐樹の協力を仰ごうとした。けれど、祐樹に毅然とした態度で反論され、刹那、気を呑まれる。
眉根を寄せて険しい顔をした晶は、祐樹から視線を外して、次ぐ言葉を探す。
川面から跳ね上がった小魚が、きらきらと冥路の上空を舞った。
――小魚が、視ている。
困惑を顔に滲ませる祐樹は、晶の双眸に瞳を据え、沈黙を破った。
「それは道理に反する行いなので、賛同しかねます。どうしたのですか? どうして晶は、そう思うのですか?」
晶が想いや願いを言葉にする前に、祐樹は口早に理由を問う。
問いかけられることで、巡らせていた晶の思考が遮られる。微かな苛立ちを覚え、晶は祐樹の顔を見据えた。
「どうして……、って」
川の畔に独り佇む子供の後ろ姿が目に焼き付いて、やり切れない哀しみが、晶の胸を締め付ける。
亡くなってすぐの、今なら……。
「あの子は、まだ自分が死者だと気づいていないんだろう? 今なら、家族の許へと還してあげられるんじゃないのか?」
憂いげに表情を陰らせ、瞳を伏せた祐樹は、ゆるゆると頭を振った。
「いいえ。その子は既に、死者なのですから……」
「すぐそばに……、触れることができるほど近くにいるのに? 諦めろっていうのか?」
「はい」
祐樹は迷いのない、まっすぐな眼差しを晶に向けて、応えた。
自分の願いも希望も真っ向から否定された気がして、晶は、ぎりっと奥歯を噛み締める。
独り、冥路で心許ない思いをしているだろう子供は、親許に還りたいに違いないのに。
子供が事故に遭い取り乱したという母親も、子供が戻ってくることを強く望んでいるだろうに。
父を疎み、母の悲痛な声を遠ざけた薄情な自分よりも、死者として冥路に落ちた子供の方が、余程現世に戻る価値があるように、晶には思えた。
「なんでだよ……!」
晶は、もどかしい思いを、苛立ちと共に吐き捨てる。
「生きる理由なんて無くたって、生きてる奴は生きているのに。死にたいなんて思ってもいない、ひたむきに生きてる小さな子供が死んじゃうなんてさ。大人は皆、命は等しく尊いなんて言うくせに、現実はこんなにも平等でなくて、公平ですらないじゃないか!」
分け与えられるものならば、分け与えてしまえばいい。
誰かを生かすことで、自分の命に意味が生じるのならば……。
晶は、制服ズボンのポケットに右手を滑り込ませ、『錨』の役を担う小石を掴みだして、祐樹の前で掌を開く。
「これを譲れば、その子を冥路から出してあげられるんだろう?」
胸許に突き付けられた小石を、祐樹は感情の凪いだ眼差しで見つめる。
「冥路から出すだけなら、おそらくは可能でしょう。ですが、これは晶が現世に還るためのものです」
物静かに言って、祐樹は晶の手を両手で包み込み、小石を握らせた。一呼吸置いて、おもむろに口を開く。
「呼吸を……」
吐息にも似た声で囁いて、祐樹は思いを巡らせるように言葉を区切った。
「……え?」
なんのことかと晶が訊き返すと、顔を上げた祐樹と視線が重なる。
「生きとし生けるものは皆、呼吸をしているでしょう? 呼吸が苦しければ、呼吸をしようと必死に足掻くものでしょう? ……たとえ、どんな想いを抱えていたとしても、『命』とは総じて最後の瞬間まで懸命に生きようとしているのではないかと……、ひたむきでない『命』などないと、僕は思うんです。もちろん晶だって、同じくひたむきな『命』です」
祐樹は、曇りひとつない澄んだ瞳で、ひたと晶を捉えた。
「違いますか?」
「……」
誠実な声音で尋ねられた晶は、気を削がれて言葉を失う。
祐樹の言うことに、少しだけ覚えがあった。
呼吸が苦しくて、倒れてしまった方が楽だと思うことはあっても、身体は空気を欲して苦しみから逃れようとした。
水に落ちた時も、そう。
苦しさから息を吐き出したのは、新しい空気を吸うためだった。
それに、晶を含め『命』を一括りにされてしまっては、安易に否定もできない。自分の命を否定すれば、すべての命を否定することに等しいからだ。
当然、そこには晶が助けたいと願った子供の命も、含まれる。
自分自身の『生』や『命』を軽んじ、子供の死に託けてはいないか。そんなふうに祐樹に問われた気がして、晶の胸の奥がきりきりと軋み、痛みを覚える。
「『生』を受けた以上、『死』は平等に訪れます。だけど、それが『何時』かなんて、誰にも判らないでしょう? だから僕は、今を生きる『命』は、皆一様に等しく尊いものだと思っています。平等でないのは、生を受けた場所であり、育まれる環境。公平でないのは、それを見つめる個人の主観ではないでしょうか」
――ひとつの『命』の織り成す『生』と『死』を見つめ、そこに様々な想いを抱くのは、……個人の主観。
思案に耽る晶の心が惑い、揺れ動く。
会ったばかりの知らない子供の死を哀しむのは、晶の主観によるもので、感情のままに生かしたいと願うのは、一方的な押し付けになるのだろうか。
「晶」
黙り込んだ晶に、祐樹は儚く微笑んでみせる。
「幼い死者を目の当たりにして、晶が哀しみ、助けたいと願った気持ちは、解るつもりです。ですが、あの子が既に、身体から離れた死者だということは……、どうか、解ってもらえませんか?」
穏やかだが真摯な口調で願われた晶は、今一度、その意味を考える。
晶の主観に祐樹が付け加えるのは、当事者である子供の事情。
それは。
「身体から、離れた――?」
死者であること。
晶の手を掬い上げた祐樹が、そうっと引いた。
晶を連れた祐樹は、川の畔に佇む子供の許へと歩を進め、その背後で手を離す。ひとり、子供の正面へと回り込んだ祐樹は、地面に片膝をついて、再び子供の顔を覗き込んだ。
「ママが、いないんだったね」
包み込むようなあたたかい声音で祐樹に話しかけられた子供は、こくりと頷いて応える。
「あのね、ママと、こうえんにいたの。ママは? ママ、どこ……?」
細く消え入りそうな声が上ずり、嗚咽に途切れた。
小刻みに震える小さな肩に伸ばした晶の手が、子供の身体に触れることなく、するりと通り抜ける。
息が止まるほど驚いて、晶は、その場に固まった。
晶は、この子供が死者なのだと、改めて思い知る。
現世にある身体が亡骸となってしまったから、死者として冥路にいるのだ、と。
晶が『錨』を使って、冥路から出したとしても、子供は元の身体に戻ることができないのではないか。
晶の脳裏に、現世を彷徨う子供の姿が浮かぶ。
誰にも認識されずに、触れられることもなく。
それこそ。
――ずっと、独りで。
「ねぇ、ママは?」
目許を両手で覆い、しゃくり上げながら尋ねる子供に、祐樹は、やわらかな口調で言い聞かせる。
「ママは、少し遠い所かな……。だから、お兄ちゃんと一緒に歩いていようか」
「いや! ママがいい! ママがいいの……っ!!」
子供は強い拒絶を示し、ふるふると頭を横に振った。
まるで、そう言われることが解っていたかのように、祐樹は動じることなく頷いてみせた。
「そう……、だよね。ママがいいよね。でも、ここに残っていたら独りぼっちになっちゃうから、ね?」
祐樹が右手を伸ばして、触れるか触れないかの力加減で、子供の頭を撫でた。
細く柔らかそうな髪の上を、祐樹の手が滑り下りる。子供の胸許に定められた指先が、くるり、と小さな円を描く――。
「ママは、ご用事があってすぐには来られないけれど……、後から来るよ。ここは、もうすぐ暗くなってしまうからね。先に行ってママを待っていようか」
目許を隠していた両手がほんの少し下がって、そろりと顔を上げた子供が、声の主を確認する。祐樹を見つめて、不安そうに声を震わせる。
「あとから、ママもくる……?」
「うん、来るよ」
「……ホントに?」
「本当だよ」
淀みない声で祐樹が応えると、子供はしばし黙った後、悲しみを堪えるかのように嗚咽を呑み込んだ。
「……ぼく、ママのこと、まってる」
ほぅ、と小さな吐息を漏らした祐樹は、口許に微かな笑みを湛えて、立ち上がった。
「偉いな……。強い子だね」
祐樹が手を差し伸べると、子供は差し伸べられた手に自身の手を重ねようとして、そろりと伸ばす。
けれど。
子供の手は、祐樹の手に触れるか触れないかというところで、ぴくんと震えて止まった。
「大丈夫だよ」
祐樹は優しく言い含めると、触れ合うことなく重なる子供の手を導くように、ゆっくりと隣に引き寄せる。
一歩、……二歩。
祐樹の許へと近寄る子供の、たった今立っていた場所に、小さな花が咲いていた。
青々と茂る夏草の隙間から、しゅっとした花茎を伸ばすのは、小さくも愛らしい一輪の白花。
「白い、……タンポポ?」
晶が周りを見渡すも、盛夏の河原に咲く花は、それだけ。
不意に。
透明な薄影が、砂浜に打ち寄せて広がる波の如く、静かに冥路を這った。
現世の風景が、仄暗い闇に包まれてゆく。
……やがて、闇が霧消して。
不可思議な冥路は、水底の深みのある藍と、澄んだ空の群青の混ざり合う、美しい紺碧に染め変えられる。
数多の星が、其処等中に瞬き――。
ふわり、と雪華蛍が舞った。