無情
淡い緑色のTシャツを着て、薄茶色の半ズボンを穿いた幼子は独り、川の畔に佇んでいる。運動靴を履いて、庇の付いた帽子を被っていることから、出掛けていたか、外で遊んでいたのだろう。
まだ、三つか四つといった年頃の未就学児だった。
色鮮やかな洋服の色彩、きめ細かな肌までもが晶の瞳に映り込み、くらり、と眩暈がする。
――違うかも、しれない。
視界から入る情報を、心が受け付けない。
晶の胸に小さな疑念が芽吹き、感情が思考を後押しする。
お年寄りを死者だと思い込んだように、今度も勘違いをしているのかもしれない、と――。
「その子の、親は?」
ひとりで外を出歩くには、幼すぎる。一緒にいた親が近くにいて、子供を探しているのではないか。
迷子の親を探す気持ちで、晶は落ち着きなく周囲に首を巡らせる。
「……」
じっと子供を見つめる祐樹は、白い靄の線上を川に向かって歩きはじめた。
「おい、祐――」
祐樹の後を追おうとして、晶は、立ち並ぶ家と家の狭い路地から、歩道に入ってくる人影を認めた。
人影は、ふたつ。
晶は足を止めて、こちらに近づいて来るらしい、ふたりの女性に視線を送る。
もしかしたら、川の畔に立つ子供のことを知る人かもしれない。
少しでも子供を探すような素振りを見せたのなら声をかけようと、晶は、ふたりが近づいて来るのを待った。
互いに相手の顔色を窺いながら話す女性たちは、鏡合わせのように揃って神妙な面持ちをしている。
気兼ねするかのように潜められた声が、近づいて来る。
「……まだ歩きはじめたばかりじゃ、お母さんも、下の子から目が離せないよね」
「本当にね。お母さんが下の子に付いていた少しの間に、お兄ちゃんが、お友達を見つけて公園から飛び出してしまったんだって」
「でも確か、あの公園の前って横断歩道だったでしょう?」
「だから、車は止まってくれるものだと思ってしまったのかもね。だけど、あそこの公園って、低木だけど植え込みに囲まれているから、車から小さな子供は見えにくいの。……事故を起こした車の運転手は呆然としていて、お母さんの方は撥ねられたお子さんのそばで、ひどく取り乱してしまって――」
片方の女性が、沈痛な面持ちで言葉を濁す。
もうひとりの女性が、溜め息を漏らした。
「ニュースでも見たけれど、まだ、四つだったんでしょう? ……亡くなったお子さん」
女性の声が、晶の鼓膜を殴りつけた。
事故に遭った子供の話が、川の畔に立つ子供の姿と重なり、晶の思考が停止する。瞬時にして、全身を巡る血液が氷水に置き換わったかのように、身体が温度を失う。
訊くことなど何も思いつかずに、晶は、きゅっと唇を噛み締める。
項垂れて、革靴のつま先に目を落とす晶の前を、ふたりの女性は、歩道の砂利を踏み鳴らして通り過ぎて行った。
「――ママは……?」
母親の所在を尋ねる不安げな幼い声に、晶は、はっとして振り返った。
水の畔に佇む子供が、正面に回り込んで膝をついた祐樹に、問いかけたのだ。
祐樹は淡く微笑み、気遣う眼差しで子供の顔を覗き込む。一呼吸置いて、唇が薄く開いた。
「そう。……ママと一緒だったんだね。あのね――」
おそらく。
……母親との別離を、切り出すために。
「祐樹、止せ……!」
晶は無意識に、制止の言葉を投げかけていた。
桜並木の間から一歩足を踏み出すと、ゆっくりと祐樹の瞼が持ち上がり、物静かな濃褐色の瞳と視線が交わる。
制止の理由たる想いは一拍遅れて、記憶を伴い、静かな波のように押し寄せる。記憶は晶の手足に絡みついて動きを奪い、意識を過去に縛り付ける。
唇を固く引き結んで、表情を険しくさせた晶は、拳を固く握った。
――薄暗い部屋の片隅に立つ母が、唇を薄く開いた。
あれは、……そう。
書置きを残して家出をしていた母が、戻ってきた時のことだ。
「ごめんね。留守にしていた間、晶にも迷惑をかけちゃったね。……ちゃんと、ご飯食べた? 机の上に『食事代』って記した封筒があったでしょう? そのお金で足りた?」
「うん、お金は足りたよ。ありがとう。……おつりは、封筒の中に入ってる」
「学校や家で、何か困ったことはなかった?」
晶を気遣う母の声や眼差しは、普段と変わりなく穏やかで優しい。
だから。
母に余計な心配をかけたくなくて、晶は、わずかに目を伏せ、頷いて応える。
「何も、なかったよ」
父に暴言を吐いて口論になったことは、言えない。
「そう」
安堵するかのように表情を和ませ、母は明るく声音を改めた。
「お母さんね、家を出ている間に和真に会って、お父さんとのことを伝えてきたの。それから、このままじゃいけないと思って、不倫相手一人ひとりと会ってきたの」
「え? 母さんひとりで……? 大丈夫だったの?」
驚いた晶が顔を跳ね上げると、母は、やわらかに微笑んで頷く。
「家を出る前に、お父さんに包丁を突き付けてね。『今ここで死ぬか、不倫したことを認めて一筆書くか選べ』って脅して書かせたの」
愕然とする晶の顔が強張り、瞬時にして口内が、からからに干上がる。
高身長の父と小柄な母とでは、大人と子供ほども体格差がある。刃物を持って揉み合いにでもなれば、刺されるのは母の方だ。
「……刃物は、やめてよ」
晶の掠れた声は虚しく宙に掻き消えて、口許に笑みを湛える母が、話を継ぐ。
「不倫相手全員の名が書かれたその紙を持って、……PCや携帯に残っていた不倫相手たちとのメールのやり取りを全部プリントアウトして、お父さんが彼女たちに買い与えた貴金属の領収書も全部持って。一人ひとりに全部見せて回ったの。みんな、自分以外に不倫相手がいるだなんて知らなかったのね。『こんな不誠実な人だとは思わなかった』ですって」
耳の奥が軋んで、母の唇から滑る冷ややかな声を遠ざける。
感情を包み隠した母の笑顔は、作り物のように整い、冴え冴えとしていて心がない。……否。
細められた母の目は、決して笑っていなかった。眼底に蔑みや憎悪といった強い感情を貼り付かせた瞳は、研ぎ澄まされた刃物の如く薄い光を湛え、否応なしに晶の目に焼き付く。
速くなる鼓動と相反して、頭から血の気が引いてゆく。
「それでね。不倫相手たちに、金輪際お父さんと個人的な付き合いは一切しないと記した書面にサインするのなら、今回限りは許すし、慰謝料も請求しないって伝えてきたの。一番悪いのは、お父さんだものね。でも、お父さんを信じて自由にさせ過ぎたお母さんも悪かったわ。……これからは、お金も行動も、きちんと監視することにする。お母さん、お父さんともう一度やり直すって決めたから」
母は父と離婚するものだと、晶は、漠然と思っていた。
――どうして……?
「父さんと、離婚しないの?」
晶の口から、力ない声がこぼれた。
母を追い詰め、こんなふうにしてしまったのは、他ならない父であるのに。
父のことが信頼できないのなら、母は、これからもずっと疑心暗鬼になり、苦しみ続けるに違いないのに。
「離婚……、したって、誰も、母さんを責めたりしないのに……。かずくんだって、きっと反対なんてしないよ?」
晶は躊躇いながらも、切々と母に訴えかける。
「俺は、母さんについていくよ? 苗字が変わったって別に構わないし、家のことだって、もっと手伝う。アルバイトもして、母さんの負担にならないようにするから……」
――離婚、してよ。
母の顔から笑みが消えて、表情が凪いだ。
「お母さん、別にお金がないわけじゃないのよ? きちんと働いてお給料も貰っているし、お祖父ちゃんの遺してくれたお金も、まだかなりあるから。お父さんと離婚したって、お金に困ることはないの」
「それなら……!」
母が困らないのなら、尚更――。
再度離婚を促そうとして、母の表情を窺う晶は、ぎくりとする。
母の口許は感情を堪えるかのように引き攣り、晶を見据える瞳孔が、すっと収縮した。
「離婚はしないって決めたの。不倫相手の人たちはね、お父さんと同じ会社や、仕事の関係者ばかりだったの。お母さんも付き合いで、何度も会ったことのある人たちだったの。それでも、平然とお父さんと付き合えるような人たちよ? 二十年も付き合っていた女なんて、離婚したら、さっさと籍を入れて、この家に住むに決まっているじゃない。私の存在なんて元々無かったかのように幸せそうな顔をされるのだけは、嫌。それだけは、絶対に許せない」
「……そう、なんだ」
感情のこもらない平坦な声に、晶は落胆を隠す。
親子であれど、母は、晶とは別の人間だ。
晶に母の思考のすべては理解できないし、母を思い通りに動かすこともできない。
母の人生は、母自身のものだから。
当事者である母の決定に、晶は異を唱えることはできない。
なるようにしかならないのだと、受け入れるだけ。
ただ。
ひとつだけ、どうしても気になることがあった。
心の奥底に蟠るそれを無視することができずに、晶は口を開く。
母に対する後ろめたさから俯き、限りなく声を潜めて、訊く。
「ねえ、母さん。……俺には、かずくんの他に、兄弟っているの?」
二十年も付き合っていた女性がいるのなら、子供がいてもおかしくない。むしろ、子供がいたから二十年も父と続いていたのではないかと、晶は考える。
父が不倫をしてできた子であっても、その子供が咎められる謂れはない。
不倫をするような男の子供であるのは、和真や晶だって同じ。親の不倫問題とは別で、晶に異母兄弟を疎ましく思う気持ちは無かった。
幼い頃から一緒の和真と、まったく同様に接するのは難しくとも、晶にとっては血の繋がりのある兄弟だ。
相手に疎まれてさえいなければ、この先どこかで会うことになるかもしれない、……兄弟。
尋ねられて、母は想いを巡らせるかのように顔を伏せた。唇が引き結ばれると、母の瞳は徐々に怒りの感情を顕わにして、険しくなる。
「それは、私も気になって訊いてみたの。そうしたら、産まなかった、……諦めたのだって、泣かれたのよ」
言葉の意味を捉え損ねて、晶は怪訝に眉を寄せる。母の表情を、目許を注視した。
「それって、どういう……?」
言いかけて、気づく。
薄らと理解して、茫然となる。
――中絶、したのか。
何らかの事情を抱えた人が子供を産むことができずに、中絶を選択することもあるのだと、学校の授業でも取り扱われて知っている。
だけど。
「……なんで?」
掠れる声で尋ねた晶を、母の鋭い眼差しがその場に縫い付ける。
低く重々しい声が、ゆっくりと晶の耳に流れ込んでくる。
「あなたたちがいたから。ふたりも子供のいる人の子供は、産めないから、ですって」
――自分タチガイタカラ、生マレテコラレナカッタ、子供ガイル……?
「……はぁ?」
訳が分からなかった。
誰に頼まれたわけでもなく、分別があるはずの大人同士が勝手に付き合って。
子供ができたら、よりによって和真や晶の存在を言い訳にして、命を摘み取ったのだ。
和真や晶の兄弟でもある、子供の命を。
「なんだよ、……それ」
卑怯な逃げ口上としか、聞こえない。
命トハ、コンナニモ軽薄ニ、扱ワレルモノダッタノカ。
無責任ナ大人ノ事情ニ、巻キ込マレテ。
身勝手極マリナイ理由デ、踏ミニジラレル。
何モ、悪イコトヲシテイナイノニ、……理不尽ニ。
親ニヨッテ摘マレテシマウ子供ノ命ガ、アルノナラ。
セメテ――。
きつく握った拳が痛みを覚えて、晶の意識が過去から解放される。
胸に湧き出した怒りの感情を、血液が身体の隅々まで巡り、届ける。全身が熱を帯びて震え、浮遊感を覚えた。
足許を睨めつけて、晶は感情の嵐が収まるのを待つ。
――せめて。
手の届く所にある命を、望み、望まれる場所へと還すことができるのなら。
還したいと、晶は願う。