白花
遥か彼方上空で、水が大きくうねった気がした。
揺らめいていた水紋に代わり、水面に細かな漣が立つ。境界面は青みがかる半透明の薄硝子となり、光を優しく遮る。
水底におりてくる淡い光芒が、更に薄く透けて、やがて藍にとけた。視界の彩度が落ちて、周囲の景色が深い黒みを帯びてゆく。
ひやりと冷たく感じる水が、微風の如く流れ、晶の肌を撫でていった。
空模様を窺うかのようにして、祐樹が頭上を見遣る。
「冥路を満たす不思議の力が動いて、流れが変わったみたいです」
天候が、時間が、……冥路そのものが不思議の力に動かされたかの口振りで、祐樹は言った。
祐樹と同様に上空を見上げていた椿が、はっとなる。尾鰭をくねらせ優美に水を蹴り、颯爽と場を離れてゆく。
「え? 何? 何かあった?」
遠ざかる椿の後ろ姿と祐樹を交互に見る晶に、祐樹は、咲きかけの蕾がほころぶかのような微笑を浮かべてみせる。
「いいえ、大したことではありません。冥路とは、生身の身体を持たない死者のための通路。深い眠りに就こうとする死者を冥界へと導くために、不思議の力が満ち満ちて、常に『流れて』いる。ただそれだけのことですよ。……椿も、すぐに戻ってきます」
「ふーん?」
晶は小さく唸って、不思議の力について考えを巡らせる。
変則的な径で、二巡目に椿と目を合わせた後。晶に見えるようになった闇や黒い霧は、冥路を循環する不思議の力が、可視化されたものだったのだろうか。
水中に在りながら玻璃のように視界が鮮明なのも、呼吸ができるのも、冥路を満たす不思議の力が作用しているからなのかもしれない。
そうであれば。
冥路に於いて不思議の力とは、肌を包み込み、吐息の絡むほどに身近なものということになる。
不思議の力というものは、余程柔軟なものなのだろう。
「祐樹は人から引き出した想いを、祐樹の思考を通し、不思議の力を介して、別のものに変化させている。……で、合ってる?」
祐樹は、やわらかに笑んで応える。
「ええ。僕のそれは、対象者の想いを別の形に換える手助けをするもの。不思議の力を介して、想いを等量の、別の形に変換させるものです」
「へぇ、祐樹は器用なんだな」
目を瞠って、晶は感嘆の声を上げた。
笑みを浮かべることで細められた祐樹の瞳が、ひたと晶を捉える。
「晶の、……生者の想いは、とても強いのです。なんなら、半端ものの僕などは及びもしないほどに……。不思議の力の存在を理解した晶も、じきに、その力を駆使できるようになるでしょう」
信じられない気持ちで、晶は自分の顔を指差す。
「俺も? 祐樹みたいに?」
「はい」
「それは、冥路限定で?」
「もちろん、不思議の力が満ちた冥路だけでの話です。……ただし、羽目を外して冥路の秩序を乱すようなことをしては、いけませんよ」
丁寧に言い含める祐樹は、ちょこんと頭を低くして、下から晶の顔を眺めあげる。
目が合うと、祐樹は少年らしく悪戯っぽく微笑んでみせる。しかし、祐樹の目は至って真剣で少しも笑ってはいない。
「小魚たちが、『視て』いますから」
内緒話をするかのように落とされた祐樹の声は、冗談とも本気ともつかない。
晶は半信半疑の面持ちで、喉を反らせて頭上を仰ぐ。
当然、宙を泳ぐ小魚の白い腹は見えても、小魚と目が合ったりはしない。
なんだ冗談かと、晶は口の端を上げた。
「冥路でだけ使える特別な力、ね。……祐樹みたいに色々なことができるようになるのなら、現世に還らないで、冥路に長くいるのも悪くないかもな」
一過性の特別な力なんていうものに、然して興味もない。
現世に還ることが前提の、軽口めいた口調で晶は言った。
不意に。
祐樹の顔に浮かべられていた笑みが、おぼろげに霞んで曖昧になり、刹那、泣き出しそうに歪んで霧消する。
「そんなふうに言っては、駄目ですよ」
軽く伏せられた濃褐色の瞳に長い睫毛が被り、白い肌に薄く陰りを落とす。
「『錨』を持たずして冥路に……、水底に落ちてしまえば、人は呼吸ができずに死んでしまいます。生きて現世へ還ることは叶いません。けれど『錨』を持つ晶は、それのできる稀有な人です。……僕は、あなたをきちんと現世に還したいと、そう思っています」
物静かに説いて、祐樹は自らの意思をきっぱりと伝えた。
冗談に乗った心算だった。
戯言を真面目に返され、戸惑う晶に、祐樹は表情をなごませ、微笑みを浮かべる。
「晶が現世に還らないと、寂しがりますよ。……晶のお兄さん」
仲がいいんでしょう? と。
祐樹は、微かな哀愁の混じる声音で、しっとりと囁いた。
「祐樹」
場を離れていた椿が、白花を咲かせた植物を束ね、腕に抱えて戻って来ていた。
植物の長い花茎の先には、親指ほどの大きさの釣鐘型をした半透明の白花が、いくつも付いている。
たった今咲いたばかりのものを、摘んできたのだろうか。繊細な造りの花弁には皺ひとつなく、張りがあった。
椿は、腕の中から一本の花茎を摘まみ取り、それを祐樹に差し出した。
「ありがとう」
祐樹が花を受け取ると、椿は翻り、晶に向き直る。
「晶にも」
椿に白花を差し出され、受け取るよう促された晶は、腰を屈めて彼女と目線を合わせる。
椿を怖がらせることのないよう、できるだけ柔和な口調で訊いた。
「俺にも、くれるの?」
小さく頷く椿から、晶は花を受け取る。
花茎を指先でくるくると回し、軽やかに跳ねる細長い壺のような白花を、興味深く眺める。
「ありがとう。これは何ていう花?」
「蛍袋、灯籠花、提灯花、行燈花、釣鐘草、雨降り花……。呼び名がいくつもあるって、祐樹に教えてもらった」
「椿は、何て呼んでいるの?」
「ホタルブクロ」
「そっか、ホタルブクロだね」
了解、と独りごちて、晶は白花の呼び名にホタルブクロを選ぶ。
そういえば、きちんと椿に話しかけるのは初めてだった。
椿と顔を合わせた晶は、彼女の注意が自分に向くのを待ってから、ゆっくりと話を切りだす。
「祐樹から、椿が冥路を案内してくれるって聞いたんだ」
「うん」
椿の曇りのない無垢な瞳に次ぐ言葉を促され、晶は姿勢を正した。
「川に落ちて、径に迷っていたところを助けてくれて、ありがとう。冥路の案内、よろしくお願いします」
驚いた様子で目を瞠った椿の顔が、次いで、ぱぁっと明るく輝いた。椿は大事な役を与えられた子供のように、真剣に表情を改める。
「わかった」
瞳に確かな意思がこもり、こくりと大きく頷いて応えた。
じわり、と。
滲みだした薄闇が水底を這い、徐々に広がってゆく。
……水底が、濃い闇に侵されてゆく。
ホタルブクロを携え、穏やかな笑みを湛えた祐樹が、晶と椿に涼しげな視線を流す。
「じきに、景色が変わります」
おっとりとした声音で、報じた。
生者でも死者でもないという華奢な少年は、大人びた雰囲気を纏い、凛として水底に立つ。
重なり合う水の仄暗い藍か。それとも、宙から降りそそぎ、すべてを包み込む深い紺碧のせいか。薄らと青く染まって尚、透明感のある祐樹の白肌が、冥路の薄闇に際立つ。
本来、生者の存在しえない水底で、細々と命の灯りを点す祐樹は、時期や場所を誤り狂い咲いた一輪の花のように心許ない。けれども、儚げな容姿とは裏腹に、風に靡く柳の如く飄々として動じることのない祐樹の立ち振る舞いからは、彼のしなやかさや芯の強さが垣間見える。
ほのかな大人の色すら香らせる祐樹に見入り、ぼんやりとした晶の目前を、ふわりと一片の雪華が舞った。
質量を感じさせず、軽やかに宙を漂う雪片に、晶は目を凝らす。
明かりの乏しい薄闇の中で、それは目を射ることのない白光を閑やかに放ち始めた。
晶は、大きく見開いた目を瞬かせる。
「雪、じゃなくて……、虫?」
否――、虫とも違う。
身体と呼べる器のない、ごく微小な儚い光体。
「雪華蛍」
呟いて。
雪片と見紛うそれに、椿は、そぅっと手を差し伸べる。
淡い冷光は、椿の指先に止まると、息づくように、ゆるやかな明減を繰り返す。
椿はそれを、ホタルブクロの花弁の内側へと導いた。
「小さな雪華蛍は、か弱きものたちの、魂。明減を繰り返すことで、互いに存在を報せ合うの。集まって、ひと塊となって、皆で冥路を往くの。だから、ひとつ捕まえてホタルブクロに入れれば、次々と寄って来るから……」
椿が言い終えないうちに、あちらこちらから、ふわり、ふわりと雪華蛍が集まってくる。
それらは、椿の持つホタルブクロの花に入り込み、薄い花弁の内側から光を灯す。
祐樹が、椿のホタルブクロに自分の花を寄せた。
ふたつの花が触れ合うと。
ぽぅ……。
まるで手持ち花火が炎を分け合うように、祐樹のホタルブクロにも灯りが点る。
「――晶」
祐樹と椿の誘う声が重なり、魂のぬくもりを宿す、雅やかなホタルブクロが差し出された。
晶の白花にも、やわらかな灯りが点る――。