薄墨
まさに青天の霹靂だった。
瞬時に言われたことを呑み込むことができずに、晶は、大きく見開いた目で祐樹を凝視する。
思考と心が頑なになり、言葉を受け入れることを拒絶する。
ゆっくりと視線を上へと持ち上げ、青白い光を湛えて揺らめく水面を視界に映す。
「還れないって、何で……? え? だって、あそこから上がればいいんだろう?」
申し訳なさそうに沈んだ顔を俯けて、祐樹は、ゆるりと頭を振って応えた。
「冥路に落ちた生者が、現世に戻る条件は、ひとつだけ。『錨』に相当するものを持って、落ちた淵から上がらなければなりません。だから、『錨』を無くしてしまうと現世に還れないのです」
遥か上空で光を散らす薄膜のような水面を一瞥し、祐樹は物言う真摯な瞳で、晶を見つめた。
「そして、ここは既に、晶の落ちた川の淵ではないのです。あの淵は、他と比べてひどく複雑でした。現世の速い水の流れと冥路の径が交じり合い、淵の手前には変則的な径までもが生じていました。更に、すぐ近くに橋が架かり、川と橋が交差して辻ができていたでしょう? ……辻は、現世と冥路の交わる特殊な場にもなっています。そうした様々な要因が絡み、ころころと流れの変わる厄介な淵でした。なので、この淵からは『錨』となる小石を持ってしても、冥路の外に出ることは叶わないのです」
「……」
とりあえず、小石を無くしたら還れなくなることだけは、解った。
唖然とする晶から視線を落とすと、祐樹は両手で晶の手を包み込み、小石を握らせる。しばし黙考するかのように、じっと手を見つめていた祐樹が、おもむろに口を開いた。
「現世と冥界の影響を受けないと言ったのは、僕が真っ当な生者でも死者でもないからです。ちょうど、この小石と同様に、黒でも白でもない薄墨のような存在。……それが、僕です」
祐樹の誠実な声音は、冗談を言っているようには聞こえない。
理解の追い付かない晶は、躊躇いがちに尋ねる。
「それって……?」
生者でも死者でもないとは、一体どういうことなのか。
困惑する晶の視線を、祐樹は、まっすぐに受け止める。
「僕は、……無くしたのですよ。『錨』に相当するものを。晶にとっての、この小石を。だから、生者として現世に戻る術を持たず、死者として冥界へ往くこともできず、冥路の住人となったのです」
晶にとっての小石。……『錨』を無くしたのだという祐樹は、未練や悔恨といった感情を微塵も滲ませることなく、さらりと言ってのけた。
疑問は、考えるよりも先に晶の口を衝いて出た。
「無くしたって……。冥路の外へ出られないって、そんなわけないだろ? あの時、祐樹は水の外に、河原にいたじゃないか……!」
現世の河原で『変則的な径』とやらに迷い込んだ晶は、祐樹によって、河原から川の淵へと引き込まれたのだから。自分と同じ河原に立っていた祐樹が、川の淵――水――から出られないのはおかしいと、晶は考える。
祐樹は言葉の意味を咀嚼するかのように、ゆっくりと目を瞬かせた。
「ああ、説明が足りずに、すみません。そうですよね、混乱しますよね。少し整理してみましょうか」
片手に顎を当てて、しばらくの間、考えを巡らせるかのように虚空を見つめた。
ややあって、言葉を継ぐ。
「まず、最初に川に落ちた時点で、晶は既に冥路の一端に落ちていたのです。それ以降、晶の見ていた現世の景色は――」
「待って待って! じゃあ、俺のいた河原って……?」
思考を整えようとして、晶は祐樹の言葉を遮る。
祐樹は仕切り直すかのように頷いて、晶の問いに答えた。
「――現世ではなく、冥路だったのです。晶が繰り返し見ていた景色は、あなたの記憶が冥路を満たす不思議の力に反映され、補われたもの。なので、僕が晶と同じ場所に立つことは可能でした。僕がしたことは、冥路に生じた変則的な径に惑わされていた晶を、正しく冥路へと導いた。……そんなところでしょうか」
「……」
愕然として黙りこくる晶に、祐樹は労わる眼差しを寄越して、ほのかな笑みを口許に形作る。
「この後、移動することになるので、僕たちが今居る冥路についても、少し説明を加えますね。冥路は何も、川の流れに沿ったものだけではないのです」
「……え?」
冥路は川と共にあるものだと、そう思い込んでいた晶は、驚いて目を丸くする。
祐樹は、晶の聴く姿勢が整うのを待つように、一呼吸置いてから言葉を継ぐ。
「水は、人が生きてゆくのに必要不可欠なものでしょう? なので、人々の生活圏には、必ず水が引かれます。ですが、人は水中で呼吸をすることができません。水は、人の身近にありながら生きてゆくことのできない異界に等しく、水面は、生死を分ける境界面でもあるのです。それ故に、死者の通路である冥路の大部分は、川や池といった水と共に在るのでしょう」
身近にある水路と、冥路を重ね合わせた晶は、はっとなる。
「それって、道路脇の側溝や、地中に埋められた水道管にも……?」
晶が口にしたものは、ほんの一部だ。
町の至る所に張り巡らされている水の通り道、そこに冥路も通っているのだろうか。
祐樹は涼やかに微笑み、頷いて応える。
「冥路から細く岐れた径は、水の流れを追い、道路に沿うものや横切るものと様々です。現世に死者があれば、そこにも冥路は径を伸ばします。現世の道と冥路の径の交差する場所もあるのですよ。そのうち解かります」
説明を終えた祐樹は、晶の顔色を窺う。
ひとつ引っ掛かりを覚えて、腑に落ちない顔をする晶に、祐樹は、はて? と小首を傾げる。
「何か、解らないことがありましたか?」
「えぇ、と。移動って……?」
ここを離れて、どこかへ行こうというのか。
恐るおそる訊き返した晶に、祐樹は「ああ」と朗らかに答えた。
「晶の落ちた川の淵……、もとい『錨』の記憶する冥路の淵へ。案内は椿がしてくれます。死者となった彼女は、もう冥路に惑うことはありませんから、大丈夫ですよ。……移動しても、構わないでしょうか?」
冥路に於いて、右も左もわからない晶に、断る選択肢などありはしない。
晶は、手に握っていた小石を制服ズボンのポケットにしまい込み、祐樹に頷いて応えた。
川に落ちて、水底に在る自分の境遇と心情を俯瞰的に捉えて、深い溜め息を漏らす。
たとえ生まれてきたことを嘆き、世を儚んだとしても、悲しいかな、怖いものは怖い。
苦痛と、その先にある死を受け入れるには、それ相応の覚悟と勢いが要る。――だが。
悲観的な気持ちも暗い想いも、ごっそりと祐樹に取り除かれてしまった今となっては、結局、独り水底に取り残されて無為に過ごすことも、自ら命を絶つこともできない。
臆病で脆弱な自分を内に認め、晶は唇の端を苦く歪めて微笑する。
一先ずこの状況から脱するには、祐樹を頼り、彼に任せるしかなさそうだった。
「解かった。祐樹と椿にお願いするよ。それと――」
言うべきことを言っていなかった。
思いつくのと同時に、眉をひそめた和真の顔が脳裏を過る。『誰かに何かをしてもらったら、必ず感謝の気持ちを言葉で伝えろ。してもらえることを当然と思うな』と、教訓を垂れていく。
言われずとも解っている。
晶は、しゃんとして背筋を正した。
「――俺を、変則的な径から連れ出してくれて、……助けてくれて、ありがとう」