不安
背もたれのある診察台に腰掛けた晶の指先に付けられた機器、パルスオキシメーターの数字を確認した医師が、それを外した。
「……98。酸素も充分、身体に取り入れられていますね。こちらも問題ない数字です」
診察を一通り終えたらしい医師は、晶に再度確認を取った。
「晶君。今までに、こういう症状が出たことは?」
尋ねられて、速い呼吸を繰り返す晶は、小さく首を横に振った。
「……初めてです」
「まだ、呼吸は苦しい?」
医師に尋ねられて、晶は少しの間考えてから、答える。
「さっきよりは、だいぶ楽になりました」
「腕は? まだ痺れている?」
「肩から肘の辺りまで……、少しだけ」
「良くなってきている?」
「はい」
頷いて応えた医師が、ほんの少し頬を緩め、晶のそばに付き添う母親に、ゆったりとした穏やかな口調で告げた。
「お母さん、晶君の心電図に異常はありませんでした。何か悪い病気であるとか、……たとえば、このことが原因で死んでしまうとか、そういう心配はありません。大丈夫です」
「そうですか、……良かった。ありがとうございます」
胸に片手を当てて、ほっとしたように吐息を漏らした母が、すぐに表情を曇らせ、怪訝そうに首を傾げる。
「でも、どうしてこんな……?」
「それは……」
母から視線を外して、医師が言葉を区切った。
――今朝、登校中に激しい動悸が起こった。
ばくばくと脈打つそれは、しばらくたっても治まらずに、教室の自席に着いた頃には、呼吸がおかしいことに気づいた。
段々と呼吸が速くなり、ひどい息苦しさを覚えた。深呼吸をしようと空気を吸い込むも、すぐに吐き出されて、咽許から下に……、肺に入っていく気がしない。
呼吸をしなければと焦るうちに、腕が痺れてきて、唇もぴりぴりと痛み始めた。
目に映す教室の風景が揺れ動き、顔を上げていられなくなった。頭がくらくらとして、席に座っていることもままならなくなった。
そして、一限目の授業が始まった直後。不調を訴えるために席を立とうとした晶は、そのまま床に崩れ落ちて、近くの病院に運び込まれたのだ――。
医師は、身体を晶の正面に向けて、ほんの少し身を乗り出す。眉根を寄せ、心配そうな顔を晶に近づけた。
「晶君。症状が出る前に何か嫌なことが……、不安に思うようなことは、なかったかな?」
医師の言葉は、恐ろしく的確だった。
動悸が激しくなる前の、晶の内側で渦を巻いていた感情の種類までを言い当てられ、ぎくりとした晶の顔が強張る。
けれども。
「何も、ありません」
晶は、はっきりと否定した。
そんなはずはないと言わんばかりに、医師は、首を傾げて困った顔をする。
しばしの間、黙っていた医師は、真摯な眼差しで晶の瞳を覗き込んだ。
咄嗟に吐いた嘘を見透かされてしまいそうな気がして、晶は小さく息を呑む。
「君のその症状は、強い不安からくるものだよ。動悸がする前に、何か心が落ち着かなくなるようなことはなかった? 思い当たることはないかい?」
「いいえ。特に何も」
「晶君は、十三歳か。中学一年生?」
「二年です」
「そっか。たとえば今日、学校で大事なテストがあったとか……、ないかな?」
医師の口調は一貫して穏やかで、決して問い詰めるものではない。
しかし、不安の原因を繰り返し尋ねられて、晶の顔は再び強張りそうになる。
「ない、です」
「今朝は? いつもと変わったことは、なかった?」
「……!」
ふ、と晶の脳裏に浮かび上がるのは、学校に出かける前に視界に収めた、両親の姿。
目を合わせないふたりが、二言三言会話をしているだけの風景。
「今朝、は……」
落ち着きかけていた呼吸が俄かに荒くなり、腕の痺れが、わずかに強くなった。
平静を装うために、晶は、無理矢理表情を作り変える。
浮かべた薄い笑みの下に、本心を隠す。
「いいえ、何もないです。いつもと同じように学校へ行って……。だから、どうしてこうなったのか、まったくわかりません。……今朝、僕は普通だったよね。そうだよね? 母さん」
笑みを浮かべたまま、晶は診察台の脇に立つ母に同意を求めた。
胸に抱いた不安について、今まで一度たりとも口にした覚えのない晶は、母には気づかれていないだろうと踏んだのだ。
医師からも視線を向けられると、母は真剣な表情で考え込み、声音に困惑を滲ませて言った。
「今朝は特に……、変わりはなかったように思います」
晶は、軽く唇を噛んで、頷く。
言えるはずがない。
母が、そばにいるのに。
晶の体調不良の原因が、医師の言う通り『不安』であるのならば、それを口にすることで、母は責任を感じてしまうだろうから。
背負いきれない重荷を晶に分け与え、折に触れて『ごめんね』と謝罪を繰り返す母は、きっと自分自身を責めてしまうに違いないのだから。
晶の存在すら重荷になって。
これ以上追い詰められでもしたら、母は。
きっと、壊れてしまうだろうから。
「不安に思うことは、ないんです。本当に、……何も」
頑なに話そうとしない晶から訊き出すことを諦めたのか、目を伏せて頷いた医師は、一呼吸置いて母に向き直った。
「お母さん、症状が落ち着かなかったり、繰り返したりするようでしたら、かかりつけの病院で診てもらってください」
「はい」
医師とやり取りする母を尻目に、晶は膝の上に置いた手を、ぎゅっと拳に握る。
(繰り返す……?)
頭から血の気が引き、温度を失う身体が強張った。
動揺しながらも、晶は記憶を辿り、反芻する。
今朝、家を出てから、どのようにして体調は悪くなっていったのか。
病院へ連れてこられた時に、何と声をかけられて、呼吸は楽になったのか。
思い起こしたものを整理して、心に留めてゆく。
何故なら。
もしも繰り返した時に、自分で何とかしなければならないと考えたから――。
また病院へ連れて来られて、『不安』の原因を暴かれるのは、困るからだ。
拙作に目を留めてくださり、ありがとうございます。
遅筆のため、正直ストックも多くなく見切り発車気味ですが、六月の話なので今月を逃したら来年になってしまう……と思い、ゆっくりUPすることにいたしました。
主人公の設定はあらすじに書いた通りとなりますが、なにぶん明るくない話ですので、ご負担に思われましたらどうか無理せずに、物語を閉じてくださいますよう、よろしくお願いいたします。