深緑の森、禊ぎの泉(4)
セーラは数歩歩いて泉に近づくと、つま先をほんの僅かに浸した。
澄んだ水の上には波紋が生まれ、広がっていく。
それからセーラは静かに水の中に身を沈めていった。
足の付け根近くまで水に浸かり、肌を滴る雫には月光が当たって、反射して鈍く光っていた。
手を組み合わせて目を閉じ、心静かに祈りを捧げた。
リオンはセーラから背を向けたまま、近くの木にもたれかかりながら月を見ていた。
泉での祈りを終えてセーラが水から上がると、またそこにはリオンが立って待っていた。
リオンが普段は見せないような大人の男をより強く意識させる眼差しで、セーラを見ていた。
そうしなければ、目の前の男が平常心を保てそうにないほど激しい感情を内包していることを、セーラは何も知らなかった。
「水が冷たくて、身体が冷えただろ?」
リオンは自分が身に着けていた上着を脱ぎ、上半身が裸になると、それでセーラの身体を包み込んだ。
セーラはリオンの身体を間近で目にして、直視し続けるのが恥ずかしく、思わず目をそらした。
それから階段状になっているところに、肩を寄せあい、ふたりで並んで座った。
冷えた身体に温もりが戻ってきたころに、
「ひとつききたいんだが、いいか?」
「何?」
「さっきその姿を見せる時に、俺が相手ならいいと思った理由は?」
「それは……」
セーラは少し間を置いた後で、
「前に、リオンは『大抵のことには慣れている』って言っていたから、だからこういうこともきっと大丈夫だと思ったの……」
一片の曇りもない真面目な顔をしたセーラに、なんだその理由は、と、瞬間的に年長者からの立場としてつい叱り飛ばしたくなる勢いでリオンの顔が歪みかけたが、直ぐに自制でそれを押しとどめた。
――セーラが俺を信頼してくれているからだと思っておくべきなのか……。だが、単にこれだけで終わらせるのも癪だな。
代わりにリオンは悪戯の延長のように、セーラの長い髪のひと房に指を絡め、そこに口付けを落とした。
セーラは唐突な行為に戸惑い、思わず頬を染めた。
「それ、何かのおまじないみたいなものなの?」
「隣国で、従者が異性の主人に敬意を示す、古式ゆかしい伝統のやり方だ。知っておけば後々ためになるだろ?」
「そうなの? 知らなかった」
知識が幅広いことに感心してセーラが言うと、すかさず、
「……まあ、俺がたった今思いついただけの全部作り話だから信じるなよ」
すげなく言われた瞬間に、セーラは噴き出した。
「もう、リオンのいじわる! 急にそんな嘘つかないで!! 最後まで言ってくれなければ、本当にずっと信じたままでいるところだったじゃない!」
セーラが目を大きく開いて頬を膨らませながら責めると、リオンは堪えきれずに笑った。
初めて見た顔だった。
立場をこえて心のままに打ち解けてくれたようで、リオンはただそのことが嬉しかった。
頬を染めたセーラに顔を近づけ、くちびるを重ねたくなる気持ちを抑え、
――俺からの単純な想いを伝えるのはこんなに難しいのか。
リオンは苦くそう思いつつ、謝りながらそのままそっと娘の髪を撫でた。
分かっていた。
自分たちふたりには、当たり前が、当たり前には手に入らない。
こんなふたりの時間は、誰も踏み込めない今夜のこの場所だからできたことだと。
最後にこの聖域を離れる時に、リオンはまたセーラと共に馬に乗った。
「ここへ来る時には随分怖い思いをさせたな。帰りはもう少しゆっくり帰るようにする」
リオンが労わるように言うと、セーラは直ぐに、
「あなたが王都から長い時間離れるわけにはいかないのは分かっているから、だから来るときと同じで、わたしなら大丈夫。それに帰りは二度目で、少しは慣れているはずだから……」
あくまで自分を気遣おうとしてくれる、いじらしいセーラの言葉がまたリオンを切なくさせた。
「それなら、帰りも俺のここに寄りかかっていればいい」
リオンはセーラの肩に片腕を回すと、自分の身体に押しつけさせた。
黙ってされるがままで拒む様子がない娘を意外に思いながら、
――そうか、そんなに怖かったのか。だったら行きは、悪いことをした。俺は女性の扱い方がわかっていないからな。こんなふうだから、エドガーにも堅物だと言われるんだろう。反省すべきだろうな……。
リオンはこれまでの過去を顧みつつ思った。
一方のセーラは、鼓動の高鳴りが直に相手に伝わってしまいそうで気にしていた。
鍛えられた硬い皮膚を通して感じられる、リオンの一回り大きな身体の感触が、それをより一層強くしていた。
十三年前のあの夜、命を救ってくれた顔も知らない人に、初めて恋をした。
会うことが叶わなくても、ずっとその人のことだけを想い続けていた。
――リオンにこうされていると、どうしてあの時のことを思い出すの……?
ただ確かなのは、二度目の恋に落ちたことだけ。
「月を見ながら帰ろう」
リオンが耳元で囁いた言葉に、セーラはもう一度だけ頷いた。
――この夜の中なら、リオンとそうしていることが許される気がして……。
――後日。
聖堂の厨房で、セーラがお湯をわかし、今夜も紅茶を淹れるための準備をしている。
リオンはまたスツールの片方に座り、その後ろ姿を眺めていた。
妖精たちがリオンの耳元に来た。
――この前の外出の時には、セーラに何かしたのか、だと? こいつらはそうしたくても、何もできなかった俺に、傷口にまたさらに上から塩を塗るようなことを……。それにしても、いつの間にか、俺のそんなことにまで興味を持つとは、エドガーに看過されでもしたのか……?
「趣味の悪い質問は受け付けないからな」
寄ってこようとする妖精たちを適当にあしらいながらリオンが言った。
「そういえばお前たちは、セーラを俺から守るのはやめたのか? 聖域に行った日は本当についてこなかったよな?」
声を潜めつつのリオンの問いかけに妖精たちから返ってきたのは、
――セーラを守らなくてはならない理由がなくなったから、だと……? それはどういう意味だ……?
聴こえてきた声に、リオンは首をひねった。
――確かセーラの気持ちが俺の方を向くまでは、触れられないようにセーラを守る、と言っていたよな……? 要するに聖域に行った時に俺たちについてこなかったのは、出かけることに興味がなかったからじゃなく、セーラが俺のことを……。
妖精たちは嘘だけはつかない。
その真理を思い出し、ようやく自覚した時、リオンは驚きを隠せなくなった。
同時に、セーラを自分の腕の中で騎乗しながら抱いていたことをまざまざと思い出した。
あの時、行き帰りに二度も身体を預けてくれたことの意味を。
その時、セーラがいつものようにまたティーセットとお菓子をテーブルまで運んできた。
「どうしたの……? また、妖精たちが何かしたの?」
セーラはリオンの変化を感じ取って不思議そうに、
「……いや、違うんだ。なんでもない」
リオンはもはや何度目かわからなくなったが、また曖昧にごまかした。
セーラは妖精たちのためにも紅茶とチーズと蜂蜜を用意して、手のひらに乗せて優しい笑みを浮かべながら遊ばせていた。
傍らでそれを見守り続けるリオンは、愛しい相手が幸せそうな表情でいてくれていることに何よりも満たされたものを感じ続けていた。




