深緑の森、禊ぎの泉(3)
リオンはひとりで森の中を歩きながら、空を仰いだ。
――俺だけにしか連れてくることができない場所で、誰の目にも触れられずふたりだけで過ごしたかったから、だからあなたを連れてきた、などとは言えるわけがないな。
緩い息を吐き出しながら思った。
さっき馬上でセーラの身体のぬくもりを直に感じた時、打ち明けないと決めたはずの気持ちが、また容易く揺らぎかけた。
――俺がこの心を抑えていられるのは、いつまでだろうか。
一方、セーラもリオンと離れてから、空に浮かぶ月をひとり見つめていた。
――ここが人は足を踏み入れるのすら禁じられている大切な場所だったなんて……。それなら、無知なまま訪れてしまったことへの許しを請い、外から持ち込んでしまったかもしれない良くないものをそそぐためにも、わたしだけは必ず禊ぎを済ませないと……。
そう思い、木々の陰に隠れながら、屋外で肌を晒してしまうことを躊躇う気持ちを抑えて、外出用の服を脱いだ。
それから制服ではなく、滅多に袖を通さない儀式用の衣装を鞄から取り出して身に着けた。
リオンが近くまで戻ってくる草を踏む足音が聴こえたので、セーラは思わず身を隠し、木の陰からそっと顔だけを覗かせた。
「リオン、わたし……」
「こちらに来ないのか?」
リオンが問いかけると、セーラは躊躇するような様子を見せた後で、
「ここは特別な場所だから、本の絵に描かれていたように禊ぎをした方がいいと思って、儀式用の姿になってみたの」
自分がいない間にセーラが着替えまで済ませていたことを、リオンは流石に少し驚きつつも、
「もう出てくればいいんじゃないか? 着替えは済んだんだろ?」
リオンがそう言うと、セーラは頬を染めて、
「聖堂の儀式の時は、男性はいつもそばにいないの……。だから……」
そう小さな声で言いながら、セーラはようやく姿を見せた。
その瞬間、リオンは息をのんだ。
艶やかな肌が透けるほどの薄く白い一枚の布だけであつらえられた衣装は、長さはくるぶしよりも少し上まであるが、上半身には袖がなく、セーラの身体の胸元の柔らかなふくらみや、身体全体の線までも、はっきりと浮かび上がらせている。
足元は素足で、ドレープになっている裾が、微かな風に流されて揺れていた。
「儀式用のこの服を着た姿を、男性に見られるのは初めてなの……。でもリオン、あなただけになら……」
大切な祈りのためとはいえ、異性の前で透けた布越しに肌を晒すのが恥ずかしくて、セーラは頬を染めながら胸元をそっと手で覆い隠した。
リオンはやや険しい表情になりつつ、セーラに歩み寄ると、その姿をじっと見た。
「その姿を、男の前でするのは、『初めて』で? 『俺だけ』に、なら? 今、そう言ったか?」
再確認のために問いただすような気持ちで、リオンがたずねた。
恥じらいながらこくんと小さく頷くセーラに、リオンは目の前の娘の透けるような白い肌が際立つ、身体の上から足の指先までに、順に目を向けた。
そして最後にリオンは強引に腕を伸ばして、セーラの身体を横抱きにして一気に抱き上げた。
「……!! リオン!! どうして急にこんなことをするの? 自分で歩けるから下ろして!」
セーラは酷く驚いて、抱き上げられたまま嫌がりながら、リオンの肩を何度も軽く叩いて訴えた。
「そのままでは、あなたの足が土で汚れるだろ?」
「そんなの構わないのに……。平気だから下ろして!!」
「ここにいる間だけは、俺があなたの従者になってやる。黙って言うことを聞け」
「従者だなんて……」
「いいからじっとしていろ」
そこまでのやりとりで、セーラははたと気がつき、
「なら従者は、普通は主人の言うことは黙ってきいてくれるものでしょう? 余計にそれなら、そうなるじゃない!」
「主人の言うことを普通に聞かない従者など、世の中にはいくらでもいる。それを誰よりも知っているのが俺だと分かってないな?」
「……」
セーラが黙ったので、
――自分からそんな無防備な姿になっておいて、俺を誘っているのか? そんなつもりが欠片もないことぐらい当然分かっているが、なんなんだ、これは……。妖精どもよりも、たちが悪いすぎるだろ。
リオンは打ち明ける相手の無い愚痴をついこぼしたくなるほどに、苛々しながら思った。
抱き上げていると、儀式用の余りに薄い布であるせいで、セーラの柔らかな肌の感覚が強く伝わってくる。
甘い香りにも刺激され、狂いそうだった。
そのせいでリオンの中の苛々した感情は、益々加速度的に増していった。
そして泉の石段の一番下までおりると、そこで儀式のための大切な宝珠を捧げる時のように、石材の隙間から葉を伸ばした楚々とした花が咲くそばで、セーラをようやくそっと下ろした。
まるであの歴史書に描かれていた絵の男女のように、リオンがセーラを見ていた。
「ずっと昔、俺もこの聖域のことが書かれた書物を読んだ。おそらく今日の昼間、あなたが読んでいたのと同じ本だ。その姿のあなたはこれまで俺が見てきた、他の誰よりも美しい。高貴な精霊のようだ。今夜だけは俺があなたに仕える役に回りたくなった、ただそれだけだ」
「……」
嘘偽りのない言葉に聞こえ、セーラは動けなくなった。
――わたしが高貴な精霊……?
リオンはまたセーラの心を絡めとるような眼差しで、セーラを見つめていた。
ひとしきりそうしていた後で、自身が役目とみなしていたことを終えたととらえ、リオンはセーラから背を向けると、何事もなかったように石段を上っていった。
――昔、妖精たちが王立図書館で散乱させた本の中に、確かにあの本があった。古い時代から続く聖堂のならいでは、運命に導かれる者がいるという。ここに今夜導かれて来たのは、もしかしたら俺の方だったのかもしれない。




