甘美な歌声に導かれ
聖堂内を歩く途中で、リオンは聖歌を聴いた。
周囲には人影は無いが確かに耳に届いてくる。
――美しい声だ。妖精たちが俺に聴かせたくて遠くまで届くよう、響かせているのか。
時々他国から表敬にやってくる使者が余興役として連れてくる、かの国では名の知れた声楽家にも引けを取らないと感じられるほどの、稀有なる美声で紡がれる歌。
普段そういった機会に接することが多いがために、聴き慣れているはずの身でも、それでも魅了された。
たったひとりで独唱するその声は、澄んでいて柔らかくただただ美しかった。
リオンが聖堂の広間の両開きの扉を押し開くと、その場にはひとりの娘が妖精に囲まれ、両膝をついた姿でそこにいた。
扉が開く音とともに、聴く者をいにしえの清浄の地へ導くような甘美な歌声がやんだ。
娘はリオンの姿に気づくなり、そろそろと立ち上がるとすぐ前まできて、うやうやしく再び両膝を床についた。
「こんな夜更けにいらっしゃるということは、さぞ心に深い悩みを抱えてらっしゃるお方なのでございましょう。礼拝堂までご案内します。傷ついたお心が癒されますよう、わたくしもともに心を込めてお祈りいたします」
セーラは現れたリオンとは視線を合わせない。
普段接遇に当たっている祈り係ではない自分は、礼拝に訪れる者とは初見でいきなり直接目線を合わせることは、相手に対して失礼な行為にあたるのではないかという配慮からだった。
門番の衛兵が通したのなら、それなりの身分の相手に違いないからだ。
「いや、俺は……」
リオンはそう言いかけたものの、そこで言葉を止めた。
セーラの精霊のような歌声に聞き惚れすぎて導かれるように来てしまい、本来ここにいるはずのない自分への辻褄合わせの理由がとっさには出てこなかったからだ。
そんなリオンの前で、セーラは顔を上げて直ぐに事の次第を察したらしく緊張感が入り混じった、より引き締まった表情に変わっていった。
「お忍びで王宮からここにいらっしゃったのですか?」
セーラの的確な問いかけを、リオンは驚きを持って聞いた。
「俺が王宮から来た人間だと、どうして分かる?」
初めて見つめ合ったセーラは、リオンの中に未だ微かに残る、過去の記憶の中の幼い少女と同じ髪と目の色をしていた。
「わたしは行商が盛んな、商人も職人も多く住んでいる街、ガラリナに長くおりました。その間に色々と仕事をした中には、王宮へ差し出す特別な布を織る職人のところでも働いたことがありました。今、身に着けてらっしゃる布には確かに見覚えがございます」
「……」
「それにここは古い時代から、王家の方々と大変繋がりが深い場所とききました。聖堂の建物を直すために、館内の様々な場所を見て回りましたが、隠されているような形で、女神像の祭壇の裏の床に、おそらく建築された当時からあると思われる、不思議な意匠が施されたような何かの仕掛けがあるのには気付いていました。誰にも知られてはいませんでしたが、あの場所の真裏の方角はちょうど王宮ですから」
リオンは沈黙しつつ、感慨深い思いで、目の前のセーラが静かにそう語るのに聞き入った。
――そうか、あの時のセーラは、今はこんな娘になっていたのか。妖精どもが世話を焼きたがって、いいから早く会いに行けと言ったのはこういう理由からか。今夜のことは妖精たちを納得させるためにあえてここまで来たが、結果的には俺自身が自ら会いにきてよかった。城で他の者たちの目がある前で会うだけでは、きっと分からなかっただろうから……。
自然とリオンの中に染み入るような温かい感情が広がっていく。
記憶の中にある嵐の夜の血塗られた光景は、セーラの声が奏でる歌とは、似ても似つかぬものだ。
だからこそ、この場にふたりでいることが、かけがえのないことに思えた。
――セーラは俺のことはどれほど覚えているんだろうか? いや、あのころとは別人のように声も体つきも変わっているし、分からないだろう。俺が他ならぬあの時の人間だということは……。
その時、唐突にふわりと飛び上がった妖精が、リオンの肩に小鳥のようにとまった。
レオンは顔を傾け、そばに舞い降りてきたその妖精に語りかけた。
「お前たちの言う通りにしてやったんだぞ? これで満足だろ? なんだ、まだ何か他に文句があるのか? ……レディの前なのだから、まず先に自ら名を名乗れだと? ああ、そうだな」
ごく普通に当然のように言葉を交わす、リオンと妖精のことをセーラは驚きの表情で見ていた。
そして同時に思い出してもいた。
あの時、自分のもとに届いた手紙のことを。
手紙には、確かにこう書かれていた。
『この妖精たちは自分と長い間一緒に暮らしてきたが、自分以外の人間に姿を見せたり懐くのは初めてのことだ』と。
「あの家具の元の持ち主の方だったのですね……。それに妖精たちの声を直接きくことができるのですね。いつかわたしもそうなれるといいのですが……」
そう言われて、リオンはようやく手紙の返事が来なかった理由を察するとともに、妖精たちに頼んだ通りに手紙がセーラに届けられていたことを知った。
「手紙を無記名で届けることになってすまなかった」
リオンに謝られ、セーラは「滅相もありません。どうかそのようなことをおっしゃらないでください」と恐縮して首を横に振った。
そうしながら様々な事実が一気に符合し、セーラはあるはずのないことが、今、自分の目の前で起きていることを悟った。
「あの手紙をどうしてそうされたのかは、今なら分かります」
セーラが告げる言葉に、リオンが微かに目を見開いた。
「わたしは街では宝石商で鑑定士の手伝いをしたこともありますので、その身に着けてらっしゃる宝飾品が、大きさは小さくてもどれほどの価値のものかは分かります。見誤ることはありません」
恐ろしい事実に気付き、震え声になったセーラが何を言おうとしているかは、リオンには当然もう分かっていた。
外見の年齢やどこかの機会に、遠目から見てきただろう容姿だけでも推測はつくだろう。
別にあえてはぐらかしたり隠すつもりもなかったが、外の世界からは隔絶されたようなこの夜の聖堂の中で、セーラから自分の立場をわきまえたような距離の取り方をされたくはなかった。
――ここに来る前から、俺とセーラには最初から特別な誰にも代えられない繋がりがあるのだから。
その偽りの無い思いは隠したままにリオンは、
「それは今は言わないでおこう。外では向き合わざるを得ないが、この聖堂は夜の間だけは元々個人的な俺の別宅、というかまあ、そういうものだったんだ。ここにいる以上は、俺は俺で、他の誰でもない。時にはそういう場所も欲しいんだ。ここにいる間は、俺のことはそう思ってくれないか?」
リオンのその言葉でセーラは初めて知った。
この夜の聖堂がいかに特別な場所だったかを。
「とても美しい歌声だと思った。あなたのような人と、俺は友人になりたいと思った」
「友人だなんて、そんな……」
恐れ多くて到底考えられないような提案だった。
「俺からの頼みはきけないか?」
少し笑い混じりになったリオンに、セーラはとんでもないとばかりに首を横に振った。
「じゃあ、決まりだ」
「友人だと言われるのなら……では、なんとお呼びすれば?」
「リオンでいい。そうしよう。敬称はいらない」
「わたしは……」
「セーラ、と、俺からもそう呼べばいいか? あなたのことは妖精たちからよく聞いていたから」
翌朝、セーラは自室の寝台の上で目覚めて、昨夜のことが夢ではないかと思った。
――わたし、あの広間で国王様に会ったんだわ……。
何度も頬に自分の両手を当てて、その感触を繰り返し確かめた。
リオンは聖堂のあの広間で少し時間をつぶした後で、帰っていった。
国王様のささやかな気まぐれで起きた、特別な出来事だったのかもしれない。
昨夜のことは口止めされずとも、無論誰にも口外せず、墓場まで持っていくつもりだったが、去り際にリオンはまた来るような意志を示していた。
――もし、もう一度お会いできるなら……。
今、セーラが起床して改めて思い出すのは野盗たちに襲われた忌まわしいあの事件だ。
惨劇の中、うつろな意識の中で今も記憶に残る、あの時、自分を助けてくれた人のことは殆ど顔を布で隠していたから分からなかったけれど、もしかしたら国王様なら、事件の日の詳細な顛末をご存じかもしれない。
セーラはあの時の命の恩人がその後をどうしているかを、いつか知りたいと思い続けていた。
――もしかしたらわたしが願えば、何かの手がかりくらいは教えて下さるかもしれない。いつかわたしを救って下さった方と、どこかで会えるといいけど……。
セーラは願い続けてきた大切な思いが叶うよう、心静かに祈った。




