孤独で不遇な少女は、聡明に心優しく成長し(1)
幼少時に凄惨な事件に見舞われ、以後十三年が経過し、あの事件の少女セーラ・ロゼリア・ガーネットはまもなく十八歳の誕生日を迎える。
これまでのセーラの人生は不運の連続と言ってよいものだった。
あの事件の後、両親とは早々に死に別れ、今や遠縁の肉親ですらいない。
そして十八歳になるということは、それはセーラ自身がこれまでと同じ生活がどれだけ望んでも、もうこの先はそれが出来なくなるということを意味していた。
貿易や商業が盛んな都市として知られる、ここガラリナにある街の名を冠した歴史ある女学院を卒業間近で、身寄りのないセーラはそれまで暮らしていた寮を出なければならず、そのために住む場所を確保できる条件での仕事が何かないかを探しているところだった。
生活費確保のための短期の仕事や勉強で何かと忙しく、なかなか時間がとれなかったこともあり、退寮の期限はもうすぐで、時間の猶予はあまりなく、一つでも条件があうところがあるならば、最初から多くの条件は望まないつもりだった。
セーラが女学院の学院長に呼び出されたのは、先行きへの拭えない不安を心に抱えていた、ちょうどそんな時期のことだった。
「わたしが王都のガルディアン大聖堂の下働き、ですか?」
「そうなの。ちょうど欠員が出たというお話が少し前にきていたのよ。住まいもあるし、食事も出てきちんとお休みもとれるし、とても良い職歴にもなるから、その後に生かせるお勤めになるぶん、お給料としてはあまりその……良くないけれど、頑張り次第では長く働ける場所だと思うんだけど、どうかしら? あなたが何より一番の条件として探していた『長く働ける場所』というのにはぴったりだと思うから」
高齢になった今も闊達、そして何よりも若いころと変わらぬ教育理念への高い志を持ち続けて、長い在任期間の間もずっと学院内外問わず尊敬を集め続けてきた学院長は、セーラを前に頷きながらそう言った。
ガルディアン大聖堂、それはこの街から定期の乗り合い馬車での移動に丸一日を要する距離にある、堅牢な壁に囲まれた城塞都市として名高い、この国の王都の王宮と並び立つようにそびえるという荘厳な大聖堂の名だ。
内部にはよく知られた豊穣の女神様の有名な彫像があるという。
聖堂の存在は勿論知っていたが、この国に生まれた国民のひとりであっても、王都に行く機会自体が滅多にないセーラはまだその中に入ったことがなかった。
「あまり気が進まないの?」
「いえ、勿体ないようなお話だと思います。でも、わたしはここを卒業しても、この先もこの街の中で働き続けていくことしか考えていなかったので、それでなのですが……」
「見識や自分の可能性を広げることにも繋がるし、選択肢は出来るだけ多い方がいいんじゃないかしら」
「そうですね。でも……」
「なんだか、セーラ、いつも決断が早いあなたにしては珍しいわね、どうしたの? 何か迷うようなことがあって? とてもいいお話だと思うけど」
学院長に改めてそう言われて、セーラは少し考えるような表情を見せた後で、
「市場で粗末な物売りをしていただけのわたしに、働きながらこの学院で学べる道へ導いて下さったことは本当に感謝しているんです。けれど問題は、そんな良い家の方々が多く働いているような場所で、もう随分長い間、貴族としての生活をしていないわたしに、大切な場所でのお役目がつとまるものでしょうか?」
学院長は目の前の生徒の心をほぐして諭すように、落ち着いた口調で答えた。
「そんなに顔を曇らせたりしないで。それを気にしていたからだったのね。おそらくあなたなら大丈夫よ。最初に会った時からわたしはあなたに特別なものを感じたの。それに行く前からそんなに肩肘張らなくてもいいと思うわ。無理強いするつもりはないけれど、あなたはこの学院にとっても、申し分ない生徒だったから是非すすめたいの。少しでもその気があるなら一度話を聞きにいくだけでもいいのよ」
学院長のそんな熱心な説得もあり、ひとまず話だけでも聞いてみようと、セーラが大聖堂に行くことになった日。
当日、約束の時間の少し前につくと、正面の重厚な鎧戸のついた表門近くの車寄せの前には立派な馬車がとまり、礼拝に訪れた貴族たちがぞろぞろと中に入って行くところが見えた。
昨夜この街についたばかりの時には既に夜だったので、御者に紹介された裏通りの安宿に宿泊したが、朝起きて改めて明るい光の中でようやく目にした王都の美観には圧倒された。
工房や商店の雑多な看板が乱立する景観のガラリナとは違う、澄み切った空の下に立ち並んでいたのは、街全体が芸術作品のような繊細で優美な細工が施された建物群だった。
セーラはあらかじめ指示されていた通りに外周の通りを回って建物の裏までくると、表と比べて格段に飾り気のない裏門をくぐり、初めて聖堂の内部に入った。
一見するとどうやらここは色々な物が運び込まれるようなところらしかった。
地面に槍を立ててその場を守っていた衛兵に用件を告げると、中からは二十代後半くらいと思われるすらりとした身体のひとりの女性が応対に出てきた。
「わたしがここの女官をまとめている、女官長のマグノリアです。今日はあなたをわたしが案内します」
「よろしくお願いします」
セーラは丁寧に深く頭を下げた。
「とても緊張しているようね。そんなにかしこまらなくても大丈夫ですからね。女学院では一年の時から随分優秀な成績だったそうね。あなたに会えるのをずっと楽しみにしていたのよ。わたしはいつもここで働いている全員に大切な仲間のつもりで接してるの。女神様にお仕えするために働いている者たちが、仲たがいして何かとギスギスしているようではなんにもならないでしょう? そうは思わなくて?」
「はい、素敵なお考えだと思います」
「同意してもらえてよかったわ。女神様の前では皆、誰もが平等という考えを元に、この聖堂の中でだけは、仲間同士で不和に繋がるような序列をつけないようにするためにも、特に家格については差を感じないよう全員が名前だけでお互いを呼び合うようにしているの。経験年数についても同じよ。あなたにも入ってもらったら、同じようにしてもらいたいと思っているわ」
マグノリアから穏やかにそう言われて、セーラは少し緊張が解けてほっとした。
これなら本当に採用してくれるかもしれないと、同時に淡い期待も抱いた。
まずセーラが最初に連れて行かれたのは、倉庫の裏手にあたる物品の搬入口のような場所だった。
「あなたにはここで働いてもらうことになると思います」
セーラは周囲を見回しながら、マグノリアの後についていく。
細い通路の両側には薪や大人が一抱えするほどの大きさの木箱がたくさん積んであった。
その場しのぎに慌てて積み上げたままになっているような状態だったので、セーラは心配になった。
――これ、不安定な状態だから、誰かがこの近くを通ったら簡単に崩れてしまいそう。普段からいつもこんなふうなのかしら……? やれるものなら今すぐなんとかしたいけど。
誰かが怪我でもしやしないかと見過ごせないほど気がかりだったが、けれど一介の見学者の身の上でよそ見してはいけないと思い直し、セーラは黙ってその横を通り過ぎた。
搬入口の物置小屋のそばにはうまやがあって、痩せ気味のロバが一頭だけ飼われていた。
うまやの横には飼料を入れてあるらしい小ぶりなサイロが備え付けられている。
「動物がいるんですね」
「ええ、お金の代わりに、このロバを寄付して下さった方がいたんだけど、この子はここで飼っているだけで特に役に立っていないのよ。でもおとなしいから可愛いでしょう」
セーラがロバとお互いの目が合うとゆっくりとこちらに近寄ってきたので、柵越しにたてがみを撫でていると、祈りの場に相応しい神聖な儀式の時に着用するような、群青の長いローブを纏った娘が足早にこちらに近づいてきた。
「マグノリア様、少し確認して頂きたいことがあるのですが……」
「どうやら少し行かなくてはいけないことができたようですので、しばらくの間ここで待っていてもらえますか?」
「わかりました」
セーラが短くそう答えると、マグノリアは呼びに来た娘とふたりで、聖堂の建物の奥の方へ通じている廊下を歩いて行った。