結ばれるはずのないふたり、運命を繋ぐ始まり
その晩、冷たい雨が降り続く中、鬱蒼とした森の中の一本道を馬車は走り続けていた。
一面が暗雲に覆われた空。
時折、見える稲光と雷鳴。
嵐の夜だった。
吹きすさぶ風は強く吹き付け、馬車の外と内にともされた明かりだけが、ただこの暗く深い森の中で唯一のともしびのように儚く光を放っていた。
艶やかな長い黒髪と同色の瞳の、深緑の刺繍が施されたドレス姿のひとりの少女が、控えめな装飾が施された馬車の荷台の座席に腰を下ろしていた。
端にはフリルやリボンがふんだんにあしらわれた、ドレスと揃いの帽子を被った、外見の年齢にそぐわないほどの大人びた表情をした、まだ年端もいかぬ幼い少女だった。
「夜の森は暗くて怖いわ……」
窓から森の木立を見て、少女は心細そうにそう呟いた。
少女の横に付き添っていた、彼女が生まれてからずっと乳母役を務めてきた女性がその肩に手を置いて、不安をなぐさめるようにそっと声をかけた。
「もうまもなくでございましょう。森を出てしまえば」
「そうね」
乳母に上品さを感じさせる笑みを見せながら少女が言った。
その直後だった。
少女と乳母を乗せた馬車は荷台が一度だけ大きく傾いたかと思われた直後、ふたりはつんのめるような強い衝撃に見舞われた。
とっさに乳母は手を伸ばし、少女の身体が離れぬよう腕に抱きとめた。
馬の悲鳴のようないななきと共に、馬車はまもなく急停止した。
何事かと怯えるふたりの前で、馬車の荷台の扉が軋む音を立てながら開かれた時、そこには尋常ならざる様子の御者が立っていた。
御者は恐怖で目を見開き、切羽詰まって叫んだ。
「野盗の集団の強襲です!! お嬢様、今すぐにお逃げください!!」
そう言い終わるか終わらぬか分からぬうちに、御者の身体が馬車にもたれかかるようにして、ゆっくりと前のめりに崩れるように倒れた。
御者の背に深々と突き刺さった矢を少女は見た。
流れていく人の赤い血とともに。
既に馬車は四方から取り囲まれており、そこには少女がこれまで見たこともない荒んだ風貌の、ランタンを手にした大柄な大人の男たちが何人も立っていた。
引きずり出されるようにして、少女と乳母は馬車から降ろされた。
「金品はすべてあなたがたに差し上げます。だから、どうかこのお方だけはお助けください」
雨が降り続く中で、乳母は少女を横から両腕でしっかりと抱きしめ、雨に打たれながら必死の思いで命乞いをした。
けれど、その懇願は聞き入れられることなく、自分と力ずくで引き離されるやいなや、母親代わりに常に傍らにいてくれた乳母が、鋭利な剣によって切り捨てられるのを少女は目の当たりにした。
断末魔の絶叫と共に絶命した乳母のそばで少女は、なすすべもなくただ呆然と悪夢のようなその光景の前に立ちすくんでいた。
「この子供は従者たちが死んでも声すらあげやしねえな。まあ、そうしてみたところで、どれだけ泣き叫んで助けを呼ぼうが、こんな森の奥じゃ誰もこねえだろうが」
少女の耳には身も凍るような残虐な響きを孕んだ野盗の声が聴こえた。
男は少女の前に立つと、興味本位でフリルの帽子の端に汚れた手をかけ、その顔を品定めするように間近から覗き込んだ。
「ほほう、こりゃあいい。お前らも近くにきて、こいつの顔を見てみろよ」
余興が始まるかのような下卑た笑い混じりのその言葉を聞いて、別の男のひとりが大股で近寄ってきて、少女の顎に手をかけ、無理やり上を向かせた。
「なるほど、確かにこいつはお前が言う通り、このまま殺してしまうには惜しい顔立ちだな。競りにかけて売り飛ばしてやれば、この育ちきる前の貧相な身体でも、今でもそれなりな高値がつくだろう。いい拾い物をしたぜ。俺たちはついてる」
帽子ごと力任せに引きずられるようにされ、男たちに粗野にまるで道具のように扱われ、強制的にうずくまるような姿勢をとらされた少女は、地面に押し付けられる息苦しさで微かな呻きとともに苦悶の表情を浮かべた。
「全く、気の毒にな。そんな穢れを知らぬ貴族のお嬢さんが、従者も装備もろくになく、今夜こんな暗い森を不用心に通ったばかりに、住む世界の違う俺たちにつかまって、挙句、この先はどこぞのいかれた金持ちに奴隷として買われる末路しかねえとは、余りに哀れで涙が出るぜ」
野盗たちが上機嫌で口々に喋る狂気のような大きな笑い声に囲まれながら、少女は抗って逃げる間もなく今度は男たちに、背後から片腕をがっちりと掴まれた。
そのまま生きながらの戦利品として連れ去られる直前に、少女は闇に包まれているはずの森の奥に、そこにあるはずのない何かを見た。
それは光だった。
馬車についている灯りよりも遥かに小さく、随分心許ないものだが、確かに遊ぶように揺れながら宙を飛び動いていた。
この絶望しかないはずの状況で見えたもの。
少女が何かに気をとられているのに気づいた男が怪訝な表情とともに、
「お前、何を見てやがるんだ?」
直後、その場には木立の間から、剣を構えた姿のひとりの男が突如新たに現われた。
顔の大半に布を巻き付け、その布の隙間から覗いた両眼には強烈な眼光を宿した男だった。
姿を現すなり、顔を隠した男は一切の言葉を告げることもなく、いきなり剣を高く振り上げ、野盗の集団に向かって容赦なく切りかかった。
野盗のひとりが男の手によってあっさりと倒されると、仲間をやられて激高した野盗達からは一斉に怒号があがった。
野盗たちが獣のような声を上げて、顔を隠した男に一気に襲いかかった。
しかし布で顔を隠した男の素早い動きに圧倒され、野盗たちは次々に倒されていき、その度に雨の森には、耳をふさぎたくなるほどの男たちの絶叫がこだました。
瞬く間に雌雄が決し、多量の返り血を浴びた壮絶な姿の顔を隠したままの男は、少女の前に立つとようやく血で汚れた剣を下ろした。
さながらそのさまは書物や伝承で語られてきた英雄のようだった。
少女の記憶はその光景を最後に、そこで途切れた。
それは忌まわしい雨の夜の出来事。
その日のことは幼かった少女の胸に強烈に焼き付き、それは生涯決して忘れえぬ日になった。
――聖なる運命に導かれた物語の始まりは、やせ細った小さな女の子。
彼女はいつもひとりぼっちで、住んでいるのは細い蝋燭の明かりだけの薄暗い屋根裏部屋。
それがその子の世界のすべて。
働きすぎた手はあかぎれだらけで、食事はいつも具の殆どない薄いスープと、かたくなったパン。
小さな体で古びた荷車を引き、大きな街の通りで花や預かった野菜やパンを売り歩いて暮らしている。
一日中休みなく働いても、もらえるのは毎日ほんの僅かなお金だけ。
「どなたか、きれいなお花はいりませんか? 新鮮なお野菜もあります」
少女は行き交う人々に声をかけながら街を練り歩いた。
家に戻って窓から見えるのは、夕暮れ時の街にともる明かりと、煙突から立ち上る白い煙。
それを見ながら、女の子は涙のあとが消えない顔で、毎夜、冷たいベッドの中で眠る。
唯一の心の支えは、お屋敷に住んでいたころに、眠る前に両親が読み聞かせてくれたおとぎ話のお姫様の物語。
それがそのまだ幼い女の子にとっての唯一の支え。
ある日、二頭引きの立派な馬車でお城からお迎えがきて、輝く宝石が縫い込まれたきれいなドレスを着たお姫様になって、舞踏会で大勢の人たちに囲まれる夢。
女の子は眠りの淵で何度も何度もその夢を見た。
その子はまだ知らない。
いずれそれが他ならぬ彼女自身の未来の姿を映したものであるということを……。
爵位とともに何もかもを失ったその子は、浅い眠りの夢うつつの幻に揺られながら、今夜もひとり眠る。
――誰も知らないような街の片隅の、ひっそりとした狭い部屋の中で。