空間
アイシクルは現在、僕らの屋敷から少し離れたところにある小屋に居を構えている。
少し離れた……といっても歩いて数分もかからない距離だ。
元々は屋敷の中に部屋を持っていたんだけど、ここ最近のキラービーを始めとする蜂の品種改良の褒美ということで、辺境伯から近くにあった小屋が彼女に貸し与えられることになったのである。
家で少しゆっくりしてから、アイシクルを尋ねることにした。
『あっしはこっちでくつろいでるんで、ブルーノの兄貴達だけでぜひ行ってください……うっぷ』
あれだけ食べたのに、近くに魔物の気配があったからという理由でイノシシを追加で一匹平らげたサンシタは、完全にグロッキーになっていた。
更にパンパンに膨らんだサンシタは、もう球体みたいになっている。
流石に動けない様子の彼を置いて、アイシクルの小屋へと向かう。
ブンブンという羽音が聞こえてくるが、蜂の姿は見えない。
歩いていくと、何やら透明な覆いのようなものが見えてきた。
どうやらあの中で、蜂達を飼っているようだ。
出発する前にも一度見たはずなんだけど、遠目に見てもよくわかるほどに庭の改造が進んでいた。
透明な覆いは細かく区切られながら、小屋をぐるりと囲むような配置になっている。
全体で見るとかなりの大きさがありところどころに空気を取り込むための穴なんかも空いているけれど、蜂達が外に出てくるような様子はない。
恐らくフェロモンでも出して、ある程度移動範囲を決めているのだろう。
僕らはぐるりと小屋を取り囲む透明な膜の中にぽつりとあった空きスペースを通って、小屋へと向かっていく。
「アイシクル~、いる~?」
ノックをしながら声かけをするけれど、まったく返事がない。
ひょっとして留守にしているのかもしれない……と思っていると、聞き慣れた羽音が鼓膜を揺らす。
すぐに僕とアイビーの目の前に小さな影が差し、空を見上げてみるとそこには、空を飛んでいるアイシクルの姿があった。
「あ、ブルーノにアイビーさん。お帰りなさいまし」
アイシクルは何か大切な用でもあったのか、いつもよりしっかりとした装飾多めのドレス(風の口角と皮膚)を身に付けていた。
話を聞いてみると、どうやら辺境伯に何かを売り出しにいっていたらしい。
それがなんなのかと言うと……。
「こちら、今絶賛売り出し中のアイシクル印の蜂蜜クッキーですわ! ぜひご賞味くださいませ!」
「アイシクル印って何……?」
アイシクルが出してきたのは、紙の箱の中にびっしりとしきつめられているクッキーだった。
ぜひぜひと言われたので一枚手に取ってみる。
表面にはデフォルメされたかわいらしいアイシクルの顔のマークがあり、裏を見てみるとアイシクルがウィンクをしていた。
彼女は一体、どこに向かおうとしてるんだろうか。
「……(もぐもぐ)……あ、優しい甘さで美味しい。結構好きな味かも」
「みいっ!」
ポリポリとクッキーをかじると、なんだか懐かしい優しい味がした。
王都で食べる砂糖たっぷりのあまーいお菓子とは違い、小麦の素材を活かした味がする。
素朴で人によっては物足りないと思うかもしれないけれど、僕は好きな味だ。
どうやらアイビーも気に入ったようで、既に二枚目に手を伸ばしている。
小麦の舌触りもよくて、砕けたクッキーが舌の上で踊っていた。
「最近では甘さが自在に調節できるようになりまして。水飴みたいに癖のないものや、逆に一滴垂らしただけで味が変わるような強烈なものまで、変幻自在ですの」
「なんだか凄いね、もう完全に養蜂家だ……」
しかも絶対に普通の養蜂家じゃできないようなことまでやっている。
どうしよう、その一滴で味が変わる濃い濃い蜂蜜、舐めさせてもらおうかな……。
「今のところ一番この街に貢献できるのがこれですので。ゆくゆくはもっと皆様に、昆虫の良さを知ってもらいたいところですわ!」
アイシクルは現在、『昆虫女王』として昆虫の良さを広めるために積極的に活動しているらしい。
レイさんはわりとあちこちを行ったり来たりしているけれど、アイシクルは基本的にずっとアクープの街にいる。
なので彼女の知名度はかなり高い。
辺境伯やゼニファーさん、それと新たに雇い入れた養蜂家さん達から魔糖蜜を取引するための商人等々……色んな人と関わりを持っているため、最近では下手をすると僕よりも顔が広いかもしれない。
彼女は見た目もかなり人間に近いし綺麗なので、男性陣からの人気は高い。
けどわりと天然なところもあったりため、女性からのウケも悪くないらしい。
ここ最近ではアイビー、サンシタ、僕(本当に不本意だけど!)に並ぶ第四のマスコットキャラとして注目を浴びているらしい。
でもなんやかんやで、アイシクルもなんだかずいぶんと丸くなったよね。
ペットは飼い主に似るっていうけど……え、もしかして僕に似てこうなってるってことなの?
って、そんなことを自問自答してる場合じゃなかった。
そもそもアイシクルに話を聞かせてもらうために、ここまでやってきたんだから。
「かくかくしかじかというわけなんだ」
「なるほど、魔王様と右手指達の強さ……ですか」
「うん、僕らの近くに居て魔王軍と直接の関わりがあるのって、アイシクルくらいだからね」
「たしかにそうですわね」
話をするなら立ち話もなんだろうということで、小屋の中に入ることになった。
中に入ると、どこかで嗅いだことのあるような香りが漂ってくる。
これは……ラベンダーか何かかな?
「蜂は花粉を媒介するのが得意ですから、最近は花の品種改良なんかも請け負ってますの」
どうやらこれはアイシクルが品種改良を手伝ったラベンダーから抽出されたアロマオイルらしい。
こちらも近いうちに商品化が予定されているようだ。
て、手広いねアイシクル……僕よりよっぽど商売上手なんじゃないかな。
「よければハーブティーもどうぞ」
「しばらく見ないうちに、優雅な生活してるねぇ……」
「皆さん、優しくしてくれますから」
そう言ってほうっと温かい息を吐くアイシクルは、どこからどう見ても普通の人間にしか見えなかった。
……やっぱり彼女も、会ったばかりの頃と比べるとずいぶんと丸くなった。
だってこうして僕を相手にして、魔王軍の話をしてくれるほどなんだから。
「まず第一に、私は魔王様の強さについてはよく知りません。会ったのも片手で数えられるほどしかありませんから」
「うんうん」
「けど魔王十指の右手指に関してはある程度ならわかりますわ。そうですね……」
目をつぶりながら、おとがいに手をやるアイシクル。
何かを考える時の癖なのか、彼女の羽根がゆっくりと開いては閉じていく。
「右手指の皆様方はすごく強いですわ。一番弱い右第一指でも、私では手も足も出ないくらいの強さがあります。でもその中でも、右第四指と第五指は別格で……恐らく今のブルーノさんでも、勝てるかどうか……」
「……(ごくり)」
気付けば生唾を飲み込んでいた。
僕は今まで、あまり命の危機を感じた経験はない。
格上と戦った経験自体も、訓練をする時にアイビーを戦ったのを除けば、ほとんどないと言っていい。
そんな風に強敵センサーがイマイチ働いていない僕でも、あのガヴァリウスを倒そうとした一撃を防いだ時の衝撃は、今でも覚えている。
「右第四指クワトロ……」
「あ、そういえばブルーノさんは一度彼と会っているんでしたわね」
彼が打ってきた魔法の威力は、アイビーが放つ魔法並みだったように思える。
それに虚空から突如としてやってきた、あの謎の移動手段。
あれも魔法か何かなんだろうか。
「アイビーは知ってる?」
「み……」
知らない、という感じで首をふるふると振ろうとするアイビー。
まあ流石にアイビーであっても、あの魔法を使うことは――。
「みみっ!」
けれど首を軽く振ってから、アイビーは『閃いた!』という感じで小さく手を叩いた。
そして――。
「みいっ!」
彼女が口を開くと、今までに見たこともないくらいに複雑で精緻な魔法陣が描き出される。 そして何かを食べるように口を閉じると――バグンッ!
彼女の目の前が、闇に染まっていく。
周囲の空間を削り取るように黒が空間を浸食していき……そして虚空に、一度だけ見たことのある印象的な黒い空間が現れた。
これは――あの時にクワトロが使っていた魔法、だよね?
聞いてみると、こくんと頷かれる。
あれ、でもアイビーさっき知らないって首振ってなかった?
なんでいきなり、使えるようになったんだろう……?
思い返してみると、前にも似たようなことがあった気がする。
僕がカーチャを襲ってきた襲撃者達から情報を抜き取りたいなって思った時や、港町の様子を見たいなぁって試しに聞いてみた時。アイビーは必ず目的に沿った魔法を使ってくれていた。
もしかしてアイビーはなんでも知っているわけじゃなくて、知りたいと思った時にその知識が頭に浮かび上がるようになってるんだろうか。
……まあ、別にどっちだっていっか。
それでアイビーの何かが変わるわけじゃないし。
「これって、入ってみても大丈夫だったりする?」
「みいっ!」
アイビーが自信ありげに頷く。
なので彼女を信用している僕は、まったく躊躇することなく、一寸先すら見えないような漆黒の空間へと足を踏み入れるのだった――。