アレク先輩に花束を [クララの視点]
殿下は私に顎に指をかけたまま、親指で私の下唇をなぞった。
私を見つめる瞳には慈愛が溢れていて、私はなぜか泣きたくなってしまった。
「君が、幸せを見つけてくれてよかった」
「殿下……」
私から手を離して、殿下は湖のほうを向いた。そして、目を凝らすように遠くを見つめた。
「セシルは、愛する者を、レイを失ってしまった。私が、間違っていたのかもしれない。相思相愛のものを引き離して、国のために政略結婚の道具にしようとした」
「殿下、それは違います。殿下も王女様も、国のために、民のために決断されたことです。誰にも非はありません」
私の言葉を聞いて、殿下は少し視線を落とした。
唇が、少し震えているように見えた。私は一瞬、殿下が泣いてしまうのではないかと思った。
「ありがとう。それでも、私の罪は消えない。セシルを守っていけるのは、もうこの世には、私しかいない。王太子の正妃として、いずれはこの国の王妃として、彼女を愛して慈しんでいこうと思う。いつか彼女が、心を開いてくれるように」
「はい」
王女様の哀しみと、殿下の痛み。
それを思うと、私は胸が苦しかった。目からは自然に涙がこぼれた。
誰も悪くない。悪いとしたら、それは戦争というものだと思う。
もし戦争がなかったら、多くの人の人生が狂うことはなかったかもしれない。
そして、その生命が奪われることも。
「私は王太子として、そして次期国王としての務めを果たす。正妃を愛して子をもうけ、王家の血をつないでいくことも、王族の使命だ。だが、義務ではなくて、心から正妃を慈しみたいと思っている」
「はい」
「アレクシス個人の感情は、今日を最後にここで捨てる。だが、君には覚えていてほしいんだ。王太子でも国王でもない、アレクという男がいたということを」
「はい」
「今日、この花園を出たら、その男はこの世から消える。だが、その男は確かにこの世に存在したんだ。そして、その男が君に伝えた気持ちも、永遠に変わることはない。それを忘れないでほしい。それが、アレクという男が、僕が、生きていた証になる」
「はい」
王族として生きるというのは、とても難しいことだと思う。ときには、辛く悲しいこともあるかもしれない。
でも、殿下と王女様ならきっと、いつかそれを乗り越えられると思う。
二人とも本当に素晴らしい人たちなのだから。
「ありがとう。君に、伝えられてよかった。これでもう、私は迷うことはないと思う」
殿下は指で私の涙を拭って、とても幸せそうな笑顔を見せてくれた。
「さ、もう泣き止んで。そんな顔をしてたら、ローランドが心配するだろう」
「殿下。私、一生懸命、王女様のお世話をします。少しでも元気になってもらえるように。また笑っていただけるように。だから、殿下も諦めないでください。殿下も王女様も、必ず幸せになります。そのために、私もがんばりますから。ずっと殿下の味方ですから。だから、運命になんて、負けないでください」
「ありがとう。クララは頼もしいな。そうだね、君はそういう子だ。運命に打ち勝てる力がある。その強さが、君の魅力だ」
「えへへ。私、粘り強いんですよね。それだけが取り柄かもしれないですけど」
「そんなことはないよ。でも、よく頑張ったね。君は幸せを掴んだ。それは君の勲章だよ」
殿下はそう言うと、私の頭を撫でてくれた。
学園でも私が頑張ると、殿下はよくこうして頭を撫でてくれた。
殿下は、ずっと前から私を愛して、支えてくれていたんだろう。
私は気づかないふりをしていたけれど、実際はその愛に甘えてしまっていた。
だから、今度は私が殿下のために、何かをする番だった。
「まだまだです。まだまだ、がんばります!私、欲張りですから」
そう言うと、殿下は黙って優しく微笑んだ。
殿下と私は、湖まで歩きながら、学園での思い出やカイルのことを話した。
殿下とカイルは、中等部では仲のいい友人だったそうだ。立太子して職務についてからは、互いの立場のせいで、少し距離ができてしまったのが残念だったと言っていた。
みんな、いつまでも学生のようにはいられないと、分かっている。
それでも、学園の緑は今も同じ色をしていて、これからも多くの学生が、未来を夢見て、輝く時代を過ごす場所だった。
そういう、当たり前なものが当たり前にある平和な世界を、大人たちが守っていかなくちゃいけない。
殿下は、そう言っていた。
「……そろそろ戻ろうか。遅くなると心配するだろうから」
出口までは上り坂になるので、殿下が手を引いてくれた。
殿下の手はとても温かくて、暖炉の前で私の手を温めてくれたことを思い出した。
殿下がくれた愛を、私は忘れない。この先ずっと、私の心の中だけで。
扉を開けて、王宮の庭園に出ると、ローランドが私たちを待っていた。
「クララ、お迎えだ。行って」
「はい」
殿下に背中を押されて、私はローランドの元へ向かった。
ローランドが頭を下げたので、私は殿下のほうを振り返った。
殿下はすでに王宮のほうへ向かって歩き出していた。
私たちが見送っているのに気がついているはずなのに、殿下は一度も振り返らなかった。
「クララ、王宮に戻ってたんだな。今朝、カイルと話したよ。さっき、西国へ発った」
「殿下からも聞いた。寂しくなるね」
「ああ。お前のこと、よろしく頼むって」
「そう……。あ、私、カイルから預かっているものがあるの。侍女室にあるんだけど」
「餞別ってやつか。いいよ、急いでないから、後で」
ローランドの言葉を聞いて、私はおやっと思った。
餞別をもらうなら、それはカイルのほうだと思う。なぜ、カイルがローランドに、選別を渡すのだろう。
私が不思議そうに首をかしげると、ローランドは私から少し視線を外した。
これはいつもローランドが言いにくいことを言うときの癖だった。
「俺、明日、辺境へ発つんだ。父上の名代として。向こうに着いたら、総司令官として軍を動かす」
「どういうこと?軍って。まさか戦争が始まるの?」
「ああ。いや、そうじゃない。時間稼ぎをする必要があるんだ」
「どういうこと?どうして、そんなことに」
不安に震える私を、ローランドは強く抱きしめた。
ローランドの逞しい胸に閉じ込められて、私はその力強さに一瞬息を飲んだ。
「心配しなくていい。大丈夫だよ。詳しいことは、今夜話す。仕事が終わったら、僕の部屋に来てくれないか」
私は黙って頷いた。
抱きしめられて震えは止まったけれど、不安は心に影を落としたままだった。
私は、そのことには敢えて触れずに、別のことを口にした。
「ヘザーと、婚約を解消したんだね」
「ああ、あいつは、俺とお前とのことを知ってるから。喜んでくれてるよ」
「うん。カイルも。殿下もだよ。祝福してくれた」
「そうか。……よかったな」
ローランドのその言葉を聞いて、私は声を出さずに泣いた。
抑えていた感情が濁流のように押し寄せてきて、私は涙を止めることができなかった。
ローランドは私の髪を櫛削りながら、長いこと抱きしめていてくれた。
私はローランドの前でだけは、こうして甘えてもいいんだ。気持ちを隠さなくていいんだ。
そう思うと、私は心から安心できた。
ローランドと別れて侍女室に戻ると、ヘザーが駆け寄ってきた。私の帰りを待っていてくれたらしい。
「クララ、ちゃんと分かった?大丈夫だった?」
「ええ、もちろん。ありがと」
「よかった。ね、ちょっと話があるの、こっちに来て!」
ヘザーは私を、ぐいぐいと休憩室に引っ張っていった。
そこは侍女部屋の隣にあって、小さな個室に分かれている。
休憩中のプライバシーを守るために、防音も完璧だ。
「ローランドには、もう会った?」
「ええ」
「なんか言ってた?」
「明日、辺境に発つって。詳しいことは、今夜聞くことになっているけど」
私の答えを聞いて、ヘザーは少しホッとした顔をした。
反対に、私の胸には、さっき芽生えた不安が、さざ波のように広がっていった。
「ならいいわ。今夜ね、分かった。仕事があったら、私が代わってあげるから。なるべく早くに上がってね。ローランド、色々とやることがあると思うから」
「あ、出立の準備とか?私も手伝うし、迷惑にならないように、早めに引き上げるけど」
「ばかっ!あんた、何言ってんの?明日、辺境に赴く恋人に呼び出されて、そのままノコノコ帰ってくるんじゃないわよ!」
「え?それはどういう……」
「あのねえ、つまりは餞別よ。ローランドが一番喜ぶものをあげなさいよ。それはあんたでしょ?」
「あ……」
ヘザーの言っている意味が分かって、私は頬が赤くなってくるのを感じていた。
ローランドとは、早くそういう関係になりたいとは思っている。
でも、なぜそんなに急がせるのだろう。今回の辺境行きは、そんなに大変なことなのだろうか。
「ヘザー、辺境の様子はどうなの?危ないことがあるの?」
「それは、ローランドから聞いて。守秘義務があるから、私からは話せないわ。でも、婚約者になら、ローランドも話せると思う。今夜は、なにがなんでも戻ってきちゃだめよ。泊まってきて!もしも帰ってきたりしたら、私が代わりにローランドのとこへ行くよ!」
「え、それって……」
私の代わりに、ヘザーが餞別を渡すということ?今のは、そういう意味じゃないよね。
まさか、ヘザーは、本当はローランドのこと……。
私の顔を見て、ヘザーはため息をついた。たぶん、考えていたことが出ていたんだろう。
「あんたが想像しているようなことじゃないわよ。不甲斐ない男に、蹴りを入れるだけ。あんたら本当にもう、じれったくてイライラするわ!」
「あの、ご、ごめん。いつも心配かけて」
私が謝ると、ヘザーはにかっと笑ってみせた。
そうだった。いつもヘザーはこうやって私たちを怒っては、なんだかんだと許してくれるんだった。
「まあ、いいよ。いつものことだし。でも、今回はダメよ。絶対にダメ。必ずローランドと寝てきて!そうしたら、あいつは絶対に帰ってくるから。あんたを置いて、どこにも行けないから。あんたはあいつのお守りよ。いいわね!約束よ」
そう言い残して、ヘザーは休憩室から出ていってしまった。
ヘザーがあれほど心配するなんて、今回の任務はそんなに危ないのだろうか。
私はしばらくその場に立ち尽くしていた。足が動くようになるまで、少し時間が必要だった。




