勇猛なる者
俺は家の外で、大きな桶を前に印を組んでいた。
「早くしなさいよ!」
横で震える少女――マリア・スタンスフィールドと言ったか。彼女は自分が『勇者である』と名乗り、如何に自分に仕出かした行いが無礼であるか、大仰に喚き散らした。暫く俺と翁は無言で聞いていたが、やがて翁の我慢が限界に達したのか、苦虫を噛み潰した顔で「風呂に入れるから」と宥め、家に連れて来た挙句「己が沸かしてみよ」と俺に投げた。
「勇者をこんな血まみれにしておけないでしょ!」
貴様のような勇者が居るか。
印象は最悪だ。確かに悪いと思ったが、こうも高圧的に耳元で叫ばれると苛立ってくる。全く集中出来ない。しかも、俺は今回初めて術を使うのだ。
「スイトン!」
水は微動だにしない。湯気も立たない。
「スイトン!」
「拙し」
翁まで口撃に参加してきた。
「解ってます! スイトン!」
発音は、ある程度真似る事が出来る。手の印も練習すれば形作れる。『気』というのがさっぱり解らん。印――つまり身体を記号にして、周囲の魔力に干渉する窓を作り、気で集束させ、発音で術を完成させるらしい。しかし、カンガルーを見た限り、翁は、一つ欠けようが二つ欠けようが、何もせずとも発動させていた。
「水垢離にするか?」
「は? 今度は水ぶっかけようっての? 殺すわよ?」
俺の肩に、マリアの手が掛かる。そしてゆっくりと、その手に力が込められた。
骨が軋んでいるぞ。
貴様のようなマリアが居るか。
「ス、スイトン!」
変わらず水に反応は無い。
「スイトン!」
俺に才能は無いのだろう。しかし、初の発動で待たせる者が居るとは、翁は鬼か。
喉が枯れたところで、漸く翁が動いてくれた。横から手を翳すと、瞬時に水から湯気が上がる。
「ジジイー! アンタできるなら初めからやりなさいよ!」
「装束は脱げ」
「当たり前でしょ? アタシに命令しないで」
ガシャガシャと、胸から肩にかけて覆っていた鎧を脱ぎ、その場に落とした。
「この桶、中に持って行ってくれる?」
「承知」
翁は顎で促し、俺がヨタヨタと湯の入った桶を持つ。少女はドアを開けて先導し、俺が入ると空いた場所を指し示した。
「置いたらさっさと出てってよ」
俺は、ふと思い当たった。
「貴女は、忍術を知っているのですか?」
まだまだ言葉は拙いが、少しは通じるだろう。
「は? 知らないわよ。手品でもしてくれるのかと思っただけ」
それなのに待っていてくれたのか。
成程、沸点は低いのかもしれないが、悪い人では無さそうだ。
俺の耳は壊れてしまったが。
「その――悪かったわ。言い過ぎたみたいね」
「え?」
「ほら、早く閉めてよ!」
外に出ると、彼女の鎧は白銀に輝いていた。
「清ましたぞ」
「え? もう洗ったんですか?」
翁が家に立てかけ、穏やかな陽光を浴びせている。
「繰れば刹那よ」
血を水遁で操って、剥がしたのか。水さえ在れば何でも出来るんじゃないか?
いや、待て。
「お湯、要らなかったんじゃないですか?」
「女子が斯様な姿で、風呂に入らずとも良しと思うか?」
「そうですね」
精神的にも、『洗い流す』という行為が重要だろう。
「――ねえ」
俺達の声を聞いていたのか、彼女がドアから顔を出し、濡れそぼった服を上げた。
「服、なんとかして」
訂正しよう。彼女は『少女』では無く『美少女』だった。透き通るような白い肌、光を反射する金色の髪、まだ幼さの残る大きな目――年の頃は十六、七だろうか。
「ほら、早く」
手に持った衣類をぶんぶんと上下させているので、俺は我に返り受け取った。
「――その、ありがと」
汚された相手に礼を言うのもどうかと思うが。
戻った彼女は、手際良く鎧を身に嵌めていく。
「しかし、どうして、あんな場所に居たんですか?」
「あー! それよそれ!」
――彼女は、この口調で『健全な勇者活動』を続けていられたのだろうか。
まあ、その美しさなら可能なのかもしれない。
「この辺りに、伝説の暗殺者『スメラギ』が住んでるって聞いて、稽古をつけてもらおうと思ったの!」
彼女の言葉に、俺は翁を見た。彼は目を逸らし、そっと森に入って行こうとしている。
「彼奴は死んだ」
「嘘……でしょ……?」
嘘だろ。何故信じる。
「じゃあ貴方でもいいわ! どうせ知り合いでしょ? アタシに稽古つけてよ!」
これまでを忘れたのか? どう考えても本人だろうに。
「否む」
「な、なに? 断るってこと? アタシは勇者よ?」
それを止めれば受けてくれるだろうよ。
「お願いします!」
頭を深々と下げる。変なところで礼儀正しい。
いや、押し切ろうとしているのだろうか。
「弟子に勝て」
「え?」
「弟子?」
彼女は俺を見た。俺は翁を見た。彼はそのまま、森に入って行った。
「ちょ……ま……ジジィー!」
「――あっはっはっは!」
目の前で、神が呵々大笑しながら手を叩いた。
「それで、君はボコボコにされたと」
「然り」
「こんなに哀しい『しかり』はないよね。あっはっは! まあ、素人に勇者が飛んできたら勝てないに決まっているだろうに」
「思わぬ剛力で在った」
「剛力ね。なんせ彼女は『破壊者』って怪力スキルの持ち主だから」
「一振りの拳で、五体の骨が砕けた」
「マジ?」
「応」
「それは災難だったね。でも、癒してくれたんだろう? 勇者がポーション持ってないってことはないし」
「無し」
「え? 持ってなかったの?」
「急いて村へ駆けておった」
「でも、二人で稽古受けられたんでしょ?」
「否――師匠は、一年の後、弟子に勝てればと言い直しよった」
「え? 勝ったの?」
「罅で済んだ」
「また負けたかあ」
「師は、次は三年と――」
「災難続きだねえ」