兎狩り
「今より兎を仕留める。己も熟せるようになれ」
「はい」
「袖が短くては葉で切る。着ろ」
俺は半袖を脱ぎ、彼に渡されたインナーを着た。上から再び半袖を羽織る。 次いで彼を見ながらズボンを足元で縛り、背に籠を負った。
外に出ると、変わらず美しい自然が広がっている。どの木も太く、清廉な空気が通り抜けていた。
「少々歩くぞ。遅れるな」
少々どころではなかった。生い茂る木々を躱し、木の根の隙間に足を入れ、まるで人を縫うかのようにするすると翁は歩いて行く。俺は息も絶え絶えに、一人勝手に険しい山を歩いた。
「兎だ」
葉の陰から奥を覗き、翁が呟く。
――兎? あれが?
前に立つ『兎』は、決して兎では無かった。目は血走り、異常に発達した前歯が顎を超え、開いた口からは涎が垂れている。凶悪な顔だ。そして何より、巨体。俺の腰より高い。大型犬はあろう大きさだった。あれはカンガルーの化物だと言われても、俺は素直に納得すると思う。
「どうしますか?」
「動きを緩めるぞ」
そう言って、彼は小さな短刀を俺に渡す。
これは、忍者が持つ苦無か?
「仕留めよ」
「そ――」
それは無理、と言おうとした瞬間、兎がぶるりと震え、酷く気だるそうに首を振った。
少し動きが遅くなった、のか?
「心の臓、首、関節、弱味など数多と在る」
腕を掴まれ、茂みから放り出される。
「ちょっ……」
俺という獲物を見て、兎の口が裂けた。笑ったのだ。
「くそっ!」
首を狙おうとすると、兎が深く沈む。
何だ?
「足を断て」
背中から聞こえる翁の声で、俺は理解した。
これは尻尾の短いカンガルーだ。
それならば、恐らく蹴りが来る。
屈んでいるのはジャンプの予備動作――。
「うぐっ!」
力の限り後ろに跳んだ。鼻先まで、兎の太い足が迫ってくる。
なんて速さだ。これで遅くなっているのか?
「うおぉぉぉ!」
手に持つ苦無を振り、その足に突き立てる。
「直ぐ抜け。刺すより健を切るのだ」
「そんな無茶な!」
相手が退くのに合わせ、何とか引き抜く。
こんな短刀でどうしろって言うんだ。
手に着いた血を拭う。
「返り血を浴むな。血は獣を呼び寄せ、己が辿りを知らしめる。装束より外の物は、在らぬ動きや害を生む」
「そんなこと言ったって――」
「肉付きから血管を読め。傷から噴き出る軌跡を読め。或は、身に着くより疾く動け」
無理だろ。
再び兎が沈む。俺は前に出て、苦無を振り下ろす。
「く!」
こいつ、前歯を盾にし――。
「蹴られるぞ! 振り直せ!」
「うあああああ!」
幸いと言うべきか、俺の刃は兎の首元に入り、皮から肉を引き裂いた。翁の言葉が聞こえなかったかのように、全身に血を浴びる。
凄まじい切れ味だった。ただの金属には思えない。
「曝らすぞ」
彼は横に出て、近くの木へ兎を吊るす。そのまま腹を裂いた。すると、兎の身体が膨れ上がり、ぼこんと、内臓と血が塊となって宙に浮かんだ。
「これは」
「水遁――水気を自在に繰る。己も会得せよ」
そのまま塊をボールのように転がし、遥か遠くに放り投げた。
「きゃあぁぁぁぁぁぁぁ!」
耳を劈く悲鳴とはこのことだ。
「え?」
「人が居ったか」
声の方を見ていると、血だらけの少女が飛び出してきた。
「ちょっと! なんなの! なんなの! あー! もう、これ! なんなの!」
彼女は、俺と、翁と、木に吊るされた兎を見る。
「おまえらぁぁぁぁ!」
「――勇者との出会い、最悪じゃん」
邪神は、愉快そうに肩を震わせた。何処からか盃を出し、澄んだ液体を注ぐ。
「己では無い。師匠だ」
「言うねえ。でも、そんな女性と一緒に旅するんて、君も酔狂なもんだ」
「目指すは魔王――必然よ」
「呑む?」
「己との話で充分だ」
「つれないなぁ。旅では呑んでたくせに」
「貴様、矢張り覗いて――」
「当たった?」
「邪神が」
「言わないでってば。ごめんよ」
「勇者とは何だ?」
「え? 勇者? 魔王を倒す、人々の希望」
「戯言か」
魔王を生み出しておきながら。
「本当だよ。人と魔族は、対立しなくてはならない。人が、魔族が、平和であるためにね。『種族の神』は考えた。人は争いを止めようとしない。他の種族も同じだ。それなら、憎むべき敵がいて、絶対的な力を持っていたら、戦争どころじゃなくなるだろう。種族は手を取り、一丸となるだろう。だから『魔族』が生まれた。ただ、ぞれぞれ管理は必要だ。人には王がいる。亜人にも長がいる。なら、魔族も統治する者が必要でしょ?」
「魔族は、道化が為に生まれたと?」
「いや、魔族だって心がある。種族の一つとして、神の中でも尊重されているよ。一部の種族とは、友好関係を築いているしね」
「――待て。己が神と成りしは、精々三十か四十であろう? 魔王の父とは如何なる事か?」
「ああ。魔王も代替わりするんだよ。創るのは神の中でも当番制でね。ちょうど前の魔王が死んで、神になりたてだった末席の僕が、『今回』は選ばれたんだ」
「死した?」
「そうだよ。前の魔王は死んだ。君の師匠に殺されたんだ。『勇者』にね」
師匠が、勇者?
「もっとも、魔王を倒して『勇者』じゃなくなったけどね。『勇者』は魔王の状態によって変わると言ったでしょ? 後天性のスキルなんだ」
「師匠は、技能を、数多持ち合わせていたか」
「君だって――スキルの神は、君はスキルを3つは持ってるはずだって言ってたよ?」
俺は、再び自己顕現を行った。しかし、見えるのは忌み嫌っていた『跳梁跋扈』だけだった。
後天性の技能は見えんか。