魔王
師匠から、怒りや殺意は封じろと言われてきた。それらは己を曇らせ、判断を鈍くする、と。
今の俺には無理だ。目の前でみすみす師を殺され、何も感じぬ訳が無い。育ててくれた恩師が血溜まりに倒れている。そして、その横には手を濡らした女が立って居る。これを見て冷静で居られるものか。馬鹿にするな。俺は愚鈍だが、只の案山子では無い。断じて血の通わぬ棒切れでは無い。見よ、全身の血が沸騰している。今にも、身体から噴き出さんばかりではないか。
「往くぞ」
俺の声に、女はこちらを向いた。
返事を待たず、俺は駆け出した。後ろ足で鞘を蹴り上げ、刀を前に弾き飛ばす。回転して落ちてきた刃を、そのまま木遁で蹴り飛ばした。
「逃がすと思うな」
俺は腰を叩き、苦無を空中に撒いた。そして金遁を使い、全てを女へ差し向ける。印は組んでない。発声もしていない。だが、今の俺には無用と思えた。全身を駆け巡る血が、気が、手に取るように解ったからだ。
「えっ?」
女が驚いたような声を上げる。しかし、本当にこの女が師を殺したのか? まだ若い。二十歳そこそこだろう。殺気や、マリアに感じるような強さも無い。そんな女に、師匠が殺されたとは信じ難い。信じ難いが――
「危ない!」
俺の些末な戸惑いは、一瞬で無と還った。
女が声を出した。只それだけで、眼前に迫る刀も、空を切る苦無も、全てが力を無くし、地に落ちたのだ。
この女、強いのか? 否、この女が強いのでは無い。何も感じぬでは無いか。きっと俺が印と発声を怠ったからだ。ならば。
「火遁!」
俺は印を組み、劫火を発生させた。そのまま自身も中に飛び込む。
「だから危ないって!」
まただ。今度は炎が掻き消えた。が。
「まだだ」
俺は分身していた。二人分の鞘が、女の腹に伸びる。
「まったく!」
女は、『実体』の鞘を躊躇無く掴んだ。足で土遁は発生させていた。勇者にも攻撃を通した戦法だったのに、女は迷わず一撃を見極めたのだ。
「もー!」
鞘が砕け散る。
馬鹿な! オリハルコンを収めていた頑強さだぞ!?
驚く俺に、女が手を振り払った。
「ぐ!」
触れてもいないのに、空中に吹き上げられる。そのまま高速で木に叩き付けられる寸前、俺は空中で回転し、木を蹴って女に飛ぶ。
手元の苦無はあと三本――いけるか?
俺は一本を女に投げ、一本を落ちた刀に向けた。
「金遁!」
地への苦無は刀を叩き、宙へ持ち上げる。擦れ違いざま掴んで、残す苦無も女に投げた。
「なんなのよー」
酷く気怠そうに、女が浮かぶ苦無を爪で弾く。知った事か。俺は砕けた破片の中、女の顔目がけて蹴りを放つ。
「さっきから何してるのよー」
蹴った足に、女がそっと人差し指を立てた。
「ぐぅ!?」
それだけで足の肉が裂け、血が噴き出した。
「なんの!」
脛から太腿に裂創が生じるのも厭わず、今度は刀を横に薙いだ。
「ほい」
が、刃は届かず、再び空中に投げ出される。女は手を前に出しただけだ。足を損傷した俺は、成す術も無く地に落ちた。
「が! く――」
内臓がやられた。肋骨も折れた。
「ま、まだ、まだぁ!」
水遁を発動し、震える身体に鞭を打つ。
「えー、ちょっとー、やめてー」
刀を支えに立ち上がる俺に、女がげんなりとした顔で応えた。
「お弟子さん!」
誰、だ。
今にも閉じようとする瞼を押し上げ、ぼやけた視界で声を探ると、微かに黒い鎧が見える。
「ノワール、か?」
「誰です! なんです! この状況!」
「来るな!」
先頃までの、俺を羽虫としか思ってない動き――規格外の強さ。これはマリアより上だ。師匠が殺されたのも頷ける。何も感じなかったのでは無い。感じぬよう、身体が、本能が拒否したのだ。恐らく、感じただけで恐怖に狂い、死ぬ。ノワールの強さが如何程か知らんが、間違いなく殺されるだろう。
「ダ、ダークウォーター!」
霞んだ視界に、墨汁が吹き込まれる。身体が担ぎ上げられた。
「逃げます」
耳元に、ノワールの声が響く。
「だが、奴をまだ――」
「あれは魔族です! 今の状態で、まともに勝てませんよ!」
「そうよ?」
逆の耳から、女の声が脳に届いた。
「きゃっ!」
身体が揺さぶられる。ノワールが剣を抜いたのだろう。
「もー! ただ驚かそうとしただけじゃない」
鈍い音がして、支えられていた力が消えた。俺は咄嗟に小さな鎧を抱く。
「ノワール! どうした!」
「気絶しただけよ。行くならさっさと行きなさい。魔王が、わざわざ見逃してあげるって言ってんのよー?」
「ま――」
「そうよー? ほら、早く行きなさいよ」
「おのれ魔王が!」
俺は刀が振り回すが、宙を漂い、そのままノワールと共にバランスを崩した。
「よっと」
二人が、魔王に因って抱えられる。
「何をする!」
「お師匠さん? 殺したの私じゃないから」
「嘘を吐け! 血に染まっているでは無いか!」
「あー、復讐? そういうの止めてね」
どの口がほざく!
「うっぐぁぁぁぁ!」
身体よ。動け。どうした。今動かずして何とする。動け。動いてくれ。頼む。
「じゃあね」
「おのれがあぁぁぁぁぁぁ!」
俺とノワールは、ボールのように魔王に投げ飛ばされた。
「――復讐するの、止めてね」
「断る」
邪神の言に、俺は顔を背けた。
「魔王は嘘を言ってないよ。言ったろう? 魔王は、人を殺せないんだ。正確には、『今の魔王』は、だけどね。スキルにも『穴』がある。だから僕は『カルマ』をばら撒いた。人と魔族には『同族殺し』を禁止する。だが、人を超える魔族は、もっと厳しく管理しなくちゃならない。だから、魔王には『同族殺し』を設定せず、『異種族殺し』を禁止したんだ。言ったでしょ? 魔王に向かわないでくれって。魔王は君を殺せない。抵抗は出来るけど、延々向かってくるのを防御するしかないんだ」
「また空言を。彼の者は、血に濡うて居ったぞ」
「じゃあ、答えを言おうか」
「何か」
「君の師匠はね、病死だよ」