カルマ
修行を始めて二年と十一ヵ月と成った。俺のレベルは90を超え、冒険者としてもDへ変わった。一年足らずでFからDまで上がるのは早い方らしいが、自分としてはまだまだ鍛錬が足りず、先の勇者との試合に対し不安を覚えずには居られない。
「湯加減は如何ですか?」
「上々」
「それは何よりです」
師匠の湯浴みを見届けて、俺は夜空の下に出た。漸く水遁も印無しで扱えるように成った。師は違うのだろうが、俺の『印無し』は術が完成していない状態を意味する。つまり、未完成でも或る程度の効果を発揮出来ているのだ。
まだ覚束なかった頃を思い出す。弟子として、また術を身体に馴染ませるよう、家事は俺の役目だ。俺は、特に生活に必要な『湯を沸かす』というものが苦手だった。何度やっても上手くいかず、自らの未熟さを恥じ、歯痒く、幾度も涙を呑んだ。
勇者では無いが、矢張り『湯を浴びる』という行為は、心理的効果からも人に必要だ。だから風呂を用意しようにも、水は何も応えなかった。その度に水を浴びて涙を誤魔化した。何より悲しかったのは、師匠が行水に付き合ってくれていた事だ。彼は湯を沸かせるのに、俺が沸かせなくても、共に水を浴びてくれていた。その申し訳なさで、悔しさで、いつも泣きそうになった。
俺は手の平を、其処から続く腕を見る。その後、装束のインナーを整えた。今度は『紅蜥蜴』と呼ばれる魔物だ。火山に生息し、刺突以外の魔法、裂傷に耐性が在る皮膚を持っていた。此れを加工し、インナーに着ている。所謂ラバースーツだ。戦闘時には、胸周りに『鉄蜘蛛』が吐く糸を加工した鎖帷子を巻いている。装備は整えたが、形ばかりだ。まだまだ師には届かない。何より、勇者に届いているのかも見えやしない。
「ただいーまっと」
「リアムさん。また呑んで来たんですか?」
「いいじゃねえか。俺の金だしよ」
呼吸に酒気を混ぜて、ルーシーの兄が帰って来た。パーティに続いて、こいつの装備も諸経費無しで整った筈だが、剣は鉄のまま、何処にも行こうとしない。
「お師匠さんは?」
「お風呂です」
「そっかあ。じゃあ、俺もここで酔い覚まししとこうかね」
彼は、俺の横にどっかり腰を下ろし、そのまま寝転がる。
「風邪ひきますよ」
「へっ、そんなヤワじゃねえよ」
リアムは少しぼうっと空を眺めていたが、ゆっくり口を開いた。
「なあ」
「え?」
「お前、そんな強くなって、どうしたいんだ?」
「別に、どうにも」
「目的はねえってか?」
「――最初は、師匠に言われたから強くならねばと思いました。恩義も有るし、強くなければ生きていけない。そう思ってました」
「思ってた、か」
「ええ。昔が昔でしたから。俺は生まれてから、流される人生ばかりでした。人に言われるまま、人を言い訳にして、何も無い自分を、相手に乞われる意味が有る人間なんだ、と言い含めるようにしていた。そうしないと、自分を保てなかった。渇いて、叫び出したくて、逃げ出したくて、でも逃げたら何も無いんじゃないか、って。言い訳ばかり考えて、逃げ場なんて無いんだと思い込んでた。でも、此処に来て、修行して、自分が満たされていくのを感じました。師匠と暮らして、皆に会って、正直、俺は癒されたんです。生かされている、と言ってもいい――って、何言ってるんですかね。支離滅裂ですよね。忘れて下さい」
「いや、いいんじゃねえか。そう言えるのは、本当に救われた奴だけだ。人はな、幸せってやつをすぐ忘れちまうんだ。それが、どんなに大切かってこともな。幸せを噛みしめるってのは、人生にとって必要なんだ。だから言葉になってる。俺みたいな無学な奴でも知ってるくらいにな。流された人生だって? いいじゃねえか。人生は流れるもんだ。俺だって流れてる」
「リアムさん」
「なんだ?」
「あんた、見かけも人も良いんだな」
「今さら気付いたか?」
「いや、知ってたよ」
「だろ?」
「ははっ」
「――来月だったか? 勇者が来るの」
「ええ」
「勝てるといいな」
「勝つのは、一つの証明ですからね」
「証明?」
「この生活が、尊いものだと」
「俺がいるんだ。尊いに決まってるじゃねえか」
「言えてますね」
「さて、酔いも覚めたし、風呂入って寝るか」
「――而して、『業』とは?」
己は、神に問い掛けた。
「じゃあ教えてあげる。今は世界の原理だから、特別だよ?」
「疾く言え」
「まったく、リアムさんに笑われちゃうよ?」
「――邪神が」
「ごめんごめん。僕が悪かった。で、『カルマ』だけどね。これは人々を縛る呪いだよ。いくつか条件があるんだけど、一番大きいのは『同族を殺すこと』かな? 条件を満たすごとに、カルマが溜まっていく。カルマが増えれば増えるほど、魔物に襲われやすくなったり、病にかかりやすくなる」
「然らば――」
「言っただろう? 僕は悪人だって。全世界に呪いをかけたんだ」
「否。己は悪に非ず。世を憂い、戦を止めんとしたのであろう?」
「――びっくりした。君、優しい言葉も話せるんだね」
「撤回する」
「冗談だよ。でも、ありがとう」
「少しばかり、物思うただけよ。胸が塞がってな」
「ああ、感慨にふけっちゃった? 思い出させちゃったかな?」
「仔細無し」
「そう。じゃあ続けようか」