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皇子現る③

 答えるグアンの目が、せわしなく左右に揺れている。精神的に、かなり限界まで追い詰められているようだ。


 まったくもって、いい気味。


「そうか。それなら、神殿に戻るぞ」


 私の手を取り、自分の馬へと歩き始めた皇子を見て、黒ローブたちは狼狽の表情を浮かべた。


「しかし皇子、急ぎませんと……。ただでさえ寄り道をして一行から遅れているのですから」


「どうせあいつらはのんびり進んでいるんだから、すぐ追いつけるだろう」


「いやしかし。供の者は私たち二人だけですし、皇子の身になにかあったら……」


「一騎当千のお前たち二人が一緒なら、二千人の軍までなら対処できるはずだ。それに少人数のほうが目立たないだろ?」


(――なんて無茶ぶり)


 涼しい顔で答える皇子に、私は思わず突っ込みを入れそうになった。


 金糸で輝くマントを羽織っていれば、大人数・少人数かかわらず、目立つに決まってる。


 それに一騎当千といってもただの比喩で、どんなに強くても二人で二千人なんて到底無理だと思うし。


 黒マントも同じことを考えたようで、しかし言い返せずに複雑な表情を浮かべていた。


 誰も反論できないうちに皇子はさっさと馬に乗り、私に片手を差し出した。


 乗りこなすといえるほどではないけれど、乗馬はなんどか経験がある。でもこの馬は、乗ったことのあるどの馬よりも大きかった。筋肉も一回り大きいというか……なんだか少し怖い。


 それでも私の救い主になるであろう皇子の誘いは断れない。彼の手と取ってちらりと黒ローブを振り返ると、またものすごい形相でにらまれた。


 ――断れよ


 彼らの目はそう言っているように見えた。


 一騎当千と呼ばれている(らしい)二人の視線は怖かったけど、気づかないふりをする。


 無邪気な微笑み(に見えているといいんだけど)を黒ローブたちに返し、皇子に引き上げられるまま馬に跨った。


「では、いきましょう。嫌な思いをした場所にお連れするのは心苦しいが、私と一緒にいるほうが安全だから」


 耳元で、皇子がささやく。温かな息が耳朶にかかり、くすぐったいと同時に背中がぞくりとした。


 そんな反応を悟られたくなくて、小刻みになんども頷く。


 すると皇子は、供の二人が馬に跨るのを待たずに、道を戻り始めた。


「あの! 俺はどうすれば……」


 相変わらず汗で顔が盛大にてかっているグアンが、すがるような目をして皇子に尋ねる。


「お前は――この方に押し付けていた仕事の続きをすれば良いだろう? そこに置いたままでは、道行く人の迷惑になる」


 冷たい口調で皇子が答えると、グアンはいそいそとした様子で台車に向かい、私たちに背を向けた。皇子たちから離れられるのが嬉しいらしい。


 でも足は萎えたままで、なんどかもつれて転びそうになっている。


 これまで弱い者いじめは好きではなかった――というか、他人にそれほど興味がなかったせいもあって、加担したことは一度もなかった。


 でも今回ばかりは彼のそんな姿が楽しくて仕方がない。いつの間にかうっすら笑っている自分に気づき、慌てて表情を改めた。


 監禁された過酷な日々が、私の性格をより捻じ曲げてしまったのかもしれないと思いながら、よろめきながら台車を曳くグアンの背中を睨み付ける。


 が、その姿と台車が遠ざかるにつれて、もっと気になることが出てきた。


 ――もしかして、私、臭い?


 背後からは、皇子のすがすがしい森林の香りが漂ってくる。だからよけいに、作業の間に私の身体に染み付いた汚物の臭いが強く感じられた。


「あの……」


 羞恥のあまり、声が小さくなる。


「私、臭くないですか? 朝からずっとあれを運んでいたので、臭いが移っちゃったと思うんですけど……」


 グアンが去った方向を指さしながら言うと、後頭部に皇子が顔を近づけた気配がして、その後鼻から思い切り息を吸う音が聞こえた。


 ……止めて。わざわざ臭いを確認しないで。


 言わなきゃよかったと後悔していると、

「あなたの匂いなら、どんなものでも良い香りだ」

とまた耳元でささやかれた。


 ――んなわけないでしょう!


 声に出さずに突っ込む。


 それに堆肥は私本来の匂いじゃないってば! (ここ大事)



*******************



 こんなに近くにいるんだから、この臭いに気づかないはずがない。それに位置的に私が皇子の前に座っているわけだから、馬が歩き始めればその臭いは後ろへと流れていく。


 不可抗力ではあるけれど、私が動けばよけいに臭いが漂いそうな気分になってしまい、意味はないと頭でわかっていても息を詰めて体をこわばらせた。


「緊張せずとも良い。咎める者など誰もいないのだから、安心して私にその身を預けなさい」


 どうやら背後の男性は、彼が皇子だから私が緊張していると勘違いしたらしい。


 ――違います。


 今は身分の違いを気にする余裕なんかなくて、単にこの臭いが気になって仕方がないだけです。


 まあでも害のない勘違いだから、あえて訂正せず、軽く頷いた。でもやっぱり臭いが気になる。


 ああ、早く風呂に入ってすっきりしたい。


 神殿から台車を曳いて歩いてきた道のりは長かったけど、馬だとあっという間だった。


 白亜の建物は、日の光を浴びて神々しいほどに輝いて見える。


 外観は素晴らしいのに、あの中には冷たく暗い地下牢があるのだ。そのことを思い出すと同時に、「また閉じ込められるのでは?」という恐怖がこみ上げてきた。


 ――皇子は安心しなさいと言ってるけど、あの外見だけはきれいな長老に説き伏せられて、私を渡してしまうのでは? 


 それに今は私の外見を気に入ってくれているようだけど、私が呼ぶ厄災とやらの内容を聞いて、急に態度を変えるのでは? 


 不安のあまり、身体がこわばる。


 ――引き返して。それか、私をここで降ろして。


 さりげなく背後を振り返ると(揺れてるせいで首筋を違えそうになったけど)、後ろで横並びになっていた黒ローブふたりが私を睨み付けてきた。


 まだ怪しいやつだと思っているみたい。逆に私が彼らの立場だったら、こんな小汚くて臭い女がいたら同じ目で見るだろうから、その気持ちはわかるんだけど。


 ――とにかく、あそこに戻りたくない。


 密着している私の背中がこわばったことから、皇子はその緊張には気づいてくれたらしい。


 大丈夫だよというように、私を挟み込んでいる両腕でトントンと合図を送ってきた。返事をしようと思ったけど、今は何か言ったら舌を噛みそうなほどに揺れている。


 仕方なく、軽く首を横に振ってみた。……これで通じるかな?


 しかし皇子は気づいてくれなかった。逆に馬の足を速めた。


 ……なぜ。


 ――まさか、早く行きたいって勘違いされた? 


 んなわけないでしょう。虐待された場所に戻りたいなんてどMがどこにいますか。


 なんとかしてこの場から逃げ出したいと焦った私は、左右の地面にせわしなく視線を送りながら身じろぎをした。けっこう高いし、馬は小走りだし、いきなり降りたらケガしそう。


 どうしようかと考えあぐねるうち、とうとう馬は神殿の前に到着してしまった。蹄の音を聞きつけたのか、もともと白い肌をさらに蒼白にした長老が扉を開ける。


「殿下。なぜその者を……」


 表情には出ていないけど、かなり動揺しているようだ。いつもの慇懃無礼な様子は消え失せ、皇子相手に挨拶もそこそこにいきなり語り掛ける。


「この方がここの使用人にひどい扱いを受けている様子が目に入ってな。尋ねてみたら、なんの罪も犯していないのにこの神殿で監禁されていたという。神を祀るこの場所でなぜそのような非道な行いをしたのか、長老殿に確認しようと思って戻ってきた」


 そう言って皇子は馬から降り、私に手を差し伸べた。その手を取ると、長老が大きく目を見張って私たちの手を凝視する。


 あ、この人――こんな表情もするんだ。



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