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皇子現る①

「ちょっと、足が……」


 痛む足の裏を確認したら、茶色い汚れの中に、ぽつりと赤い傷口が見えた。


「それくらい、かすり傷だろ。ほら、早く歩けよ」


 グアンは弱者を虐げる強い自分に酔っていて、弱って立てずにいる私を小突き回す。腹の底からむらむらと黒い炎が立ち昇ってくるのを感じながら、ずんぐりとした小男を睨みつけた。するとグアンは鼻の穴を膨らませ、不遜な態度で私を見降ろした。


「なんだよ、おまえ。自分の立場を分かっているのか? このまま帰って二度と日の目を拝むことなく地下牢で過ごすってことでいいんだな?」


 ――べつにそれでも構わない。こんな労働、つらすぎる……


 今はもう、そんな気分になっていた。あの湿っぽくて暗くて臭くて寒い地下牢から出られないと思うと鬱になりそうだが、外に出れば出たで後にも先にも縁がないと思っていた過酷な労働が待っている。


 装備が揃っていれば、それなりにがんばれたと思う。せめてサンダルは欲しかった。普段からよく手入れして柔らかく整えられた足裏にはきつすぎる。こんなに遠い場所なら人力ではなく、あの牛を貸してほしかった。


 ――そう、牛。


 私を拾ったときは、牛が荷車を引いていたはずだ。


「どうして牛で引かないの? 私より早く運べるのに。道の途中でもいっぱい見かけたし……」


「運搬用の牛は今街に出ているし、途中にいたのは乳牛だ。乳牛は良い乳を出すのが仕事だから、荷車などひかなくていいんだ。今までは俺がやっていたんだが、おまえがどうしても仕事がほしいっていうもんだから、司祭様に相談して譲ってやったんだぞ。ありがたく思え」


「……」


 もう、言い返す気力は残っていなかった。痛む足をかばいながら、苦労して立ち上がる。地下に閉じ込められている間にずいぶん体力も衰えていたから、疲労で膝が震える。


「ほら、早く進めって。日が暮れちまう」


 グアンが再び棒で私をつついたときだった。


「ヒース皇子! そちらに行かれては……」


 いくつかの蹄の音に、慌てて制止する男性の声が重なった。そして、落ち着いた威厳のある声が続く。


「そこ。何をしている」


「はっ……」


 グアンの身体が硬直し、驚愕の表情を浮かべて口をパクパクし始めた。何をそんなに驚いているのだろうと思いながら振り返ると、馬に乗った二人の黒ローブと、黒と金のローブを来た男がこちらを見降ろしているのが見えた。


 ――この黒ローブ二人は、私を神殿(?)に運んだ男とは別の人のように見える。記憶がおぼろげで、確かではないが。


「なぜ、この女を虐げているのだ。主たる働き手である奴隷の虐待は父上が禁じたはずだが」


「……い……いえ! この女は奴隷などではなく、罪人なのです!」


 答えるグアンの声が緊張のあまり裏返っている。すると興味を引かれたように、黒金装束がさらに尋ねた。


「どのような罪を犯したのだ?」


「そっ、それは――」


 救いを求めるように、グアンが黒ローブ二人に視線を走らせる。


「ヒース皇子。不浄の近くにいては、どのような病をもらうことになるか分かりません。長老に尋ねることがあるんですよね? 早く向かいましょう」


「少し待て。――そこの女。おまえはどのような罪を犯したのだ?」


「皇子! 罪人と言葉を交わしては……」


「黙れ。私はこの女性に聞いている」


 黒ローブの言葉を遮って、ヒース皇子と呼ばれる男が私に問いかけた。なにがなにやら分からず呆然としていた私は、まっすぐ彼の顔を見上げて答える。


「分かりません。……しいて言えば、ここに現れたこと?」


 首をひねりながら答えた瞬間、ヒース皇子が目を見張って私を凝視した。


 喉をごくりと鳴らし、私に視線を据えたまま、ゆっくりと馬を降りる。ぎこちない動きで私に近づいてきたと思ったら、いきなりひしと抱きしめられた。


「ああ、美しい人。あなたがどのような罪を犯したというのだ!」


「は? え……えぇ?」


 エスカレーターから落ちて目覚めてからずっとブスと言われ続けていた私は、自分の耳を疑った。


(美しい? 私が? じゃあここの価値観が違うってわけじゃなくて……)


 混乱する私の目の端に、地面にくずおれるグアンの姿が映った。力が抜けたのか、棒が手から離れて地面を転がっていく。


 私をひしと抱きしめ続けるヒース皇子の背後では、黒ローブふたりが揃って口をあんぐりと開けて皇子をただ見つめていた。


「ああ……恐れていたことが……厄災がやってくる……」


 グアンがつぶやく。


 ――どういうこと?


 汚物の臭いが漂う中、樹木を想わせるすっきりとした香りをまとう皇子に抱きしめられ、私の頭は混乱を極めていた。

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