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外に出る④

 食事の回数でなんとか時間を把握していたが、途中から訳が分からなくなっていた。


 皇子が来る前は沐浴で一日の終わりと始まりを知り、湯でぬくもった体に古い毛布を巻き付けて眠りについていた。


 が、沐浴できなくなってからは、眠れる時に眠るといった感じだったから、だんだん時間の感覚が狂っていった。食事でなんとか把握していたが、それもだんだん判断がつかなくなり――。


 一日中暗闇の中、一人きりで生活していると、こんなにも精神的に追い詰められるものなのか。


 意味もなく涙がこみあげてきたり、叫びたくなったり。


 私をつなぎとめている細い糸は本当に、今にもプツリと切れてしまいそうなほどにもろくなっていた。


 だから、グアンから

「ほら、夕飯だ。それから、今夜からまた沐浴できるぞ。――俺も嬉しいよ。来るたびにどんどん臭うお前のところに来なくて済むんだからな」

と聞いたときは、彼の手を握らんばかりに感謝した。一歩踏み出したとたんに鼻をつまんで逃げられたが。


「ああ、それと。働きたいって言ってたよな? 長老様が、ご親切にもお前に仕事を与えてくださるらしい。なんでもいいって言ったのはお前なんだから、文句は言うなよ?」


 施錠しながら、グアンがそう言った。


「え? それって――外に出られるってこと?」


「そうだな。外にも出る。皇子の従者やらなにやら大勢いらしていたから、いきなりの大仕事になるかもしれんがな。おそらく明日から働くことになるだろう。


 その件に関しては、長老様から指示をいただき次第、連絡する」


 私はグアンに向かって、勢いよく何度も頷いた。嬉しすぎて、言葉が出てこない。胸元で両手を握り合わせ、幸せをかみしめる。


 おかげでグアンが意地の悪い笑みを浮かべていることに、まったく気づかなかった。


 その日の晩、心待ちにしていた沐浴で体についた垢を落とし、程よく温もったおかげで心も少し安定し、久しぶりにぐっすり眠ることができた。


 その翌日、朝食のあとしばらくして、グアンがさっそく働けと言って呼びに来た。


 自分のトイレも一緒に持ってこいというセリフも、恩着せがましい口調もまったく気にならないほどに私は喜び、足取りも軽くあとをついていく。


 しかし別の地下室に連れていかれ、目の前に置かれたものを見て絶句した。


「く――臭い」


 すさまじいほどの悪臭に、私は怯んで後ずさる。


「今回は客人も多かったから、量も多いんだよ。これを外の肥溜めに運ぶのが、お前の仕事だ。お前が手に持っているそれも」


 地下牢と同じように石壁で囲まれたその部屋には、たくさんの壺が置かれていた。


 ほとんど掃除されていない公園のトイレよりひどい臭いを放っていることから、その壺の中には汚物が入っていると思われる。


 ――こんな仕事だと思っていなかった。


 掃除とか、農作業とか、体力勝負の仕事を任されるものだとばかり思っていたのに。


「で、でも……どうやって運ぶのかな、これ」


「腕に抱えて上に持っていったら、手押し車に乗せて肥溜めまで持っていくんだよ」


「そういうのって、バキュームカーの仕事だと思うんだけど」


「はあ? なに言ってんだ、お前。もしかして、肥溜めを知らないのか? これを発酵させて肥料にするんだよ。常識だろ」


「じょ――常識って――いつの時代の話よ?」


 有機肥料などではありうるのかもしれないが、人間のものを発酵させるなんて、一般家庭では行われていないような気がする。……ここが教会か神殿だから?


「どんな仕事でも文句を言わないって言ったのは、嘘だったのか? ほかにお前にできるような仕事はないんだから、嫌ならまた地下牢に戻ってもらうだけだがな」


「……外に運ぶんだよね、これ。なら――やります。やりますとも」


「とりあえず、昼までに全部上に移動しろ。軽食を摂ってから、今度は肥溜めまで運ぶんだからな」


「手伝ってはくれないの?」


「するわけないだろ。お前の仕事なんだから。ほら、働けよ」


 グアンはいつの間にか手にしていた棒で、私をの腰をつついた。


「痛! 止めてよ、なんでそんなことを――」


「さぼらないようにお前を見張るのが、俺の仕事だからな。ほら、早く運べ。……それにしても、くっせえなぁ。俺は階段の上で待つことにする」


 私を壺に向かって棒で押しやったあと、グアンは顔を歪めて部屋から出ていった。


(どうしろっての、これ……)


 腕に抱えるなんて、とんでもないと思った。離れていても、こんなに臭うのだ。しかも、数十個ある。


「急げよ! それとも、牢に戻るか?」


 グアンの言葉に急き立てられ、意を決した私は一つの壺に手をかけた。


 ――外に出たい。太陽に照らされたい。清々しい空気を吸いたい。


 これを運べば、それがかなえられるのだ。


 臭いが漏れているのは、蓋が木製だからだろう。しかし隙間なくぴっちり締めてあるから、中身が飛び散ることはないようだ。


 そして、私はとうとう汚物のつまった壺を抱え上げた。――けっこう重い。五キロの米を運んだときのような重さ。


(いくら皇子ご一行様が来て人数が増えたからって――これ、ほぼ一週間分処理してなかったってこと? それにしたって多くない? 普段はそんなに人の気配はしないのに、じつはけっこういるのかな)


 半ば呆れながら、そして吐き気を抑えつつ、私はグアンの待つ階段へと向かった。


 階段を昇り、暗い廊下を抜け、裏口と思われる粗末な木の扉をグアンが開くと、私は久しぶりに太陽に照らされた外の風景を見た。その明るさが目に痛くて、思わずまぶたを閉じる。


「ほら、待望の外だぞ。眠ってないで、早く運べよ」


「眠ってませんが。ただ、光が目に染みて――ずっと暗いところにいたせいで」


 閉じたまぶたの裏が赤い。


 どんだけ目が弱っていたんだと悲しく思いながら、私は少しずつまぶたを上げていく。


 久しぶりに見た昼間の外は、表から入ったときの手入れが行き届いた荘厳な建物の雰囲気はなかった。


 雑草や低木が生え、隅には薪が積み上げられた、山小屋の周囲の風景といった雰囲気だった。木の柵がぐるりと周囲を囲っている。


 その向こうに、小さな荷車が見えた。腕に抱えている壺を乗せることができる数は、せいぜい三~四個。頑張って五個いけるかどうか、といった大きさだ。


 耐えがたい臭いを放つこの壺の数だけ階段を昇降し、午後はこの荷車で何度も往復することになる。


 外に出ても、壺の匂いは弱まるどころか強烈に辺りに広がっていく。


 かび臭い地下から解放され、外の新鮮な香りを胸いっぱいに吸いこむのを夢見ていたが、それはかなわなかった。

 

 しかし久しぶりに見る太陽に照らされた色鮮やかな外の景色のすばらしさといったら! 


 植物や空、土の色。すべての色がこんなに美しいものなのかと感動したのは、生まれて初めてかもしれない。


 飾り気のない裏庭に感動している私を、グアンが棒でつついた。


「おい、何してるんだよ。早く行けよ」


「だから突かないで。痛いって言ってるでしょ」


「痛くしようと思ってるんだからいいんだよ」


 グアンの態度のせいで感動が台無しになってしまった。


 その後の私は、外に出た喜びを糧に、黙々と働き始めた。柵の向こうの荷車の横に壺を置き、そしてまた地下へ戻る。


 階段は三十段程度だが、ずっと閉じ込められていて運動不足の私にとって、足枷の鎖を引きずりながらの昇降は体力的にひどくきついものだった。


 五個目を運び終えた頃には足が笑い始め、ちょっとした段差でも躓きそうになる。


「おい、気を付けろ。転んで中身をぶちまけるなよ。雨が降らない限り、この臭いは消えないからな。聖堂の中にまで広がったら、司祭様に叱られて……いや、それじゃ済まないな。俺もおまえも仕事がなくなってしまう」

 

 そう言われ、転ばないようにと慎重に足を運んでいたら、今度は

「遅えよ。上に移動するだけで日が暮れちまうだろ」

と突つかれる。


 さすがにキレそうになったが、ぶちまければ臭いはさらに強烈になるのだろうし、仕事を失えばまた地下から出られなくなる。結局自分が損するのだと考えて、ひたすら耐えた。


 そしてやっとぜんぶを運び終えたとき、疲れ果てた私は臭いを気にする余裕もなくなっていた。


 地下牢に戻されたあと、グアンがいつものように昼飯代わりのフルーツジュースを運んできた。


 それをちびちび喉に流し込みながら、午後はあの荷車で六~七往復程度だろう。


 今度は平地だし、午前よりはずいぶん楽なのだろうなと考えていた。


 が、まったく違った。


 午前の疲れがほとんど取れないうちに再び連れ出され、今度は荷車に壺を乗せる作業を始めた。


 荷車に壺を四個乗せれば、合計二十キロ程度。それを押しながら、しかも裸足で道を歩いていたので、なかなか進まない。


 たぶん、片道に三十分程度はかかっていたと思う。


 道中は緑豊かな景色が続いていたが、疲れ切った私は俯いてほとんど地面ばかり眺めながら歩いていた。


 グアンは途中にあった牧場から逃げ出そうとしていた牛も、その棒で突ついていた。


 電気は通っていないが、旧式の牛追い棒みたいなものなのだろう。


 よくよく見ると、肌を突き破らない程度に先がとがっている。


 先のとがった小石を踏んでしまったらしい。足の裏に鋭い痛みが走り、思わず足を止めてその場にしゃがみこむ。


「おらおら、早く行けよ、ブス!」


 調子に乗っているグアンが、何かの草を噛みながら、また私をつついた。


 埃っぽい道を歩き続けたせいで、体中が土埃にまみれている。地面についた手も薄汚れ、欠けた爪の先に入り込んだ汚れが黒い線を描いている。


 体力的にも精神的にも打ちひしがれた私は、ずっと地下牢で過ごしていたほうがましだったのではないかと思い始めていた。

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