沐浴する③
「ありがとう。じゃあ体を拭くから、あっちに戻って背中を向けて」
すると茶ローブはチッと舌打ちし、
「礼を言うなら、もっと心を込めて言えよ。せっかく持ってきてやったのに」
と吐き捨ててドアのもとへと戻る。そしてこちらに背を向けたまま、床に座った。
もう安心――と思って立ち上がったとき、大狼の視線に気づいた。
私の体をじっと見つめながら、荒い息を吐いている。頭を低く下げ、まるで襲い掛からんばかりの鋭い目で私をじっと見つめている。
――まさか。
獣のくせに、私を見て興奮してる?
それとも……食欲を刺激しちゃったとか?
獣のギラギラした視線に怯み、私は再び湯船に身を沈めた。
視界が歪み始める。
「なにしてんだよ、早くしろって」
私だって、早く上がりたい。
でも獣の目が気になる。
「ここ、三階だよね? 逃げようと思ったところでどうせ無理なんだから、ロウもそっちに連れてってくれないかな」
茶ローブに頼んでみた。
「ダメだ。お前がロウに見られてるほうがいいって言ったんだろが」
「そうなんだけど、でも――。ねえ。ロウって、人間にも興味があるの?」
「知らねえよ、そんなの。――ったく、お前はほんっと、自分の立場が分かってないな。
お前は、いわゆる囚われの身ってやつなんだよ。気に喰わないことがあるたび、いちいち文句を言える立場じゃないっつうの」
「――だって――」
言いよどむ私の声に、何かしら異変を感じたのだろう。茶ローブは仏頂面で振り向き、こっちにやってきた。
「なんなんだよ。完全にのぼせちまってるじゃないか。目がうつろになってるぞ。なのにどうして――あ…」
茶ローブも、ロウの様子に気づいた。最初は唖然とした様子だったが、また厭らしい笑いを浮かべて風呂の縁にぐったりともたれかかっている私を見おろす。
「おいおい、ロウ。番がいないのはかわいそうだけど、だからといっていくらなんでもこいつはないだろ」
狼は茶ローブの言葉など耳に入っていない様子で、金色の瞳で私を凝視している。
「司教様には内緒にしておいてやるから、せっかくだし、子作りの真似事でもしてみるか? そのかわり、これからは俺の言うことも素直に聞いてほしい。長いこと一緒にいるのに、俺にはぜんぜん気を許してくれたことがないし。これでもけっこう傷ついてるんだ」
茶ローブが、狼にとんでもない提案をした。ほてった頬を床で冷やしていた私は、慌てて頭を上げる。
子作りって――狼と?
「ばかじゃないの? なに言って――」
「お前もまんざらじゃないだろ。なんたって、相手はフェンリルのロウだ」
「フェンリルとかそんなの関係ないし。狼を相手にする趣味なんて持ってないから!」
彼らから少しでも離れたくて、腕で胸を隠しながらしゃがんだまま反対側の縁へと移動する。
ロウが、視線を私に据えたまま立ち上がった。
「どうだ、ロウ?」
茶ローブがもう一度尋ねると、狼は低く唸り、私のほうへ一歩近づいた。
――まさか、その気になってる?
洋服もバスタオルも、狼の近くにある。
――獣と子作りなんて、まっぴらごめんだ。
しかし逃げるとしたら、素っ裸で走り回らなくてはならない。
鎖は外されているが、頭の怪我が痛いうえにのぼせかけているというのに、逃げ切るはずなんてない。
狼が、湯の中に足を踏み入れた。一歩、一歩と私のほうへ近づいてくる。
ロウが近づくにつれて、濡れて温められた獣毛の臭いが鼻を突いた。
荒い息の、生臭い臭いも。
――こうなったら、喉笛噛みきられたほうがまだましかもしれない。
何としても抵抗しようと決死の思いを固めたとき、涼やかな声が響いた。
「ロウ、何をしているんですか?」
とたんに狼はビクリと身をすくませ、耳を倒した。ぎらついていた目は困ったように上目遣いになり、ゆっくりと後ろを振り向く。
私の貞操の危機を救ったのは、白ローブだった。
彼の姿を見たとたんに噴き出した冷や汗を何度も拭っている茶ローブには目もくれず、ゆったりとした足取りでこちらへやってくる。
狼は足の間に尻尾を巻き込み、そそくさと湯から上がった。
「見張れとは言いましたが、襲えとは言っていませんよ」
淡々とした口調で告げると、狼はしょんぼりと頭を垂れる。彼が反省したのを見て取ると、私に冷ややかな視線を向けた。
「顔が真っ赤ですよ。早く服を着なさい」
「はい。――でも、えーと…背を向けてもらえると助かるんですが」
なぜか私も白ローブに威圧され、丁寧な口調になる。
「私は別にあなたの体になど興味はありませんが――人の視線が気になるのなら、そうしましょう」
そう言って、白ローブは私に背を向けた。茶ローブも慌ててそれに倣い、狼は司祭の隣にぴったりと寄り添って機嫌を伺うように見上げる。
やっと私は安心して湯から上がった。が――すでに完全にのぼせて強いめまいを感じ、忘れかけていた足枷の重みもあってバランスを崩して勢いよく足を滑らせた。
滑って転んだはずみで、怪我した頭をまた打ってしまった。
あまりの痛みに、息が止まる。
その痛みにばかり気を取られ、気づくのが遅れてしまったのだが――。
ふと気づくと、私は素っ裸で倒れていた。バスタオルはしっかりにぎったまま、ばんざいの姿勢で。
音とうめき声で二人と一匹は振り向いていた。
白ローブは顔色一つ変えていないが、茶ローブは今にもこぼれ落ちんばかりに目を剥き出し、ロウは気でも違ったかのように口の端からだらだらと涎を垂らしている。
――まずい。非常にまずい。
私の精神力がガリガリと削られて減っていく。絶望しながら立ち上がり、今更とはいえバスタオルでしっかりと身体を隠した。
救いといえば、二人とも携帯電話を持っていなかったこと。
これが日本だったら、その辺にいる人たちに写真を撮られまくってネットで拡散されていたかも。そんなことになったら――婚約破棄はもちろん、一生嫁に行けない。
バスタオルで裸体が隠れると、茶ローブはあからさまにがっかりとした。ロウはまた私のほうへと足を踏み出したが、白ローブが咳払いをするとすぐにもとの位置へと戻る。
「あなたは本当に、厄災を呼ぶ女なのですね。露出の趣味まであったとは――」
白ローブの呆れたような口調に、私はカッとなって怒鳴り返した。
「見れば分かると思うんですけど! 転んだだけですけど! 見せたくて見せたわけじゃありませんが!」
しかし自分の怒鳴り声が頭の怪我に響いて、また痛みに呻く。
「せっかく私が治療したというのに、また傷が開いてしまったようですね。薬を塗りなおしますから、さっさと服を着て地下に戻ってください。――一人で着替えることができないなら、このグアンに手伝わせますが?」
そう言って、白ローブは茶ローブに手を向けた。
――なるほど。茶ローブはグアンという名前らしい。……知ったところで嬉しくもないけど。
「けっこうです。一人でできます」
白ローブの後ろで鼻の穴を膨らませて張り切り始めたグアンが気持ち悪くて、全身に鳥肌が立った。思わず身震いをしながら答えると、グアンはチッと小さく舌打ちする。
「はしたないですよ、グアン。何を期待していたのですか?」
すかさず白ローブが窘める。
――この人は実はいい人なのか。
ふとそんな考えが頭をかすめたが、即座に打ち消した。
――いい人のはずがない。私を厄災を呼ぶ女だと言って、ここに閉じ込めた張本人なのだから。
再び二人と一匹が背を向けると、後頭部に走るズキズキとした痛みを堪えながらタオルで体を拭き、汚れた洋服を着た。素っ裸を見られてしまった羞恥心が、胸の中でどんどん膨らんでいく。
――最悪だ。
今日起こった嫌な出来事の中でも、群を抜いている。
これ以上悪いことなど思いつかないし、起きるはずはない。
きっと、ここがどん底なんだ。
――この時は、そう思っていた。




