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深淵のアリス  作者: 沢森 岳
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5 インフレータ・フライト

錨を上げた郵便船は、次なる寄港地を目指します。

「発進シークエンス」

 先輩が、あまり見せない真面目な貌でコンソールに向かい、言葉を発した。


 宇宙港からの出港、そして星系内宇宙での加速を経てインフレータ・フライトへと移行するまでの間は、航海士が最も忙しいところであり、また腕の見せ所でもある。

 客船であっても貨物運搬船であっても、大抵の星間航行船は出港後に惑星の重力を利用したフライバイによって加速の一助とする。その星系における惑星の位置関係によっては2個以上の惑星を利用する事もあり、いかにスムーズにそして効率よく加速するかに航海士は注力する。


 ところで、外宇宙を航行する船の主たる推進機には、いわゆる「燃料」を使用するような噴射型の推進装置は使われない。船内の慣性制御機構との連携も困難になるし、そもそも光速の一割まで加速するのにも、どれほどの燃料を必要とする事か。

 そして加速した後には、大抵の場合同じだけの減速を必要とするわけで、運ぶべきモノよりも燃料の方が圧倒的に大きくなってしまうようでは実用的とは言えまい。まだ人類が地球上での活動に限定されていた遠い過去のように、他に有効な手段がないとなれば別であろうが。


 実際のところは、対消滅反応炉(バニシングリアクタ)によって生み出される膨大なエネルギーを以て、特定方向への大きな推進力を発生させるコイルを駆動する。これをベクターコイルと呼び、星間航行船は主推進機としてだけでなく姿勢制御や転舵用に大小取り混ぜて数十基を装備する。


 そういったわけだから、噴射炎をたなびかせて加速する宇宙船などというものは、見た目には絵になるのだろうが、それこそSF物語の中の存在でしかない。

 リーリス104も、係留アームを離れてゆっくりと、見た目にはさしたる変化もなく、するすると加速・前進して行く。


「バニシングリアクタ正常、ベクターコイル主機、出力2から3へ」


 レオンは、目の前で実行されている航行手順を目で追い、頭の中で反芻しながら小さくひとりごちた。航海士補佐から、”補佐”が取れるのはいつになるか。気長に、とは言いたくないがしかし、欠員を期待するのも不健全だな、とは思っている。


 UNPの国際星間郵便船は、人類域内での通信網の一翼を担う重要な役割もあり、航行速度だけは最速の部類に入る。船体の大きさの割には大出力の反応炉と推進機を装備し、加速力を高めるためにアフターバーナーも装備する。

 前述の通りベクターコイルは何も噴射しないが、エネルギーの変換効率は百%にはならず、熱を発生する。この余剰の熱エネルギーを推進力に再利用する機構がアフターバーナーと呼ばれ、コイルから遠くない部位の外殻に艤装される事が多い。これもやはり噴射するものは無いが、赤熱するその残像が、たなびく様に見えることはある。


「進路調整、フライバイルートへ。各部チェックよし。アフターバーナー展開」


 速度を優先してコンパクトに作られた船体が、貨物船などとは比較にならない加速力を発揮して速度を増してゆく。小惑星帯との距離を多めに取ったのはデブリを嫌ったからだ。やがて彼らの船はフライバイを経て充分に速度を上げたのち加速を終了し、インフレータを作動させて超光速航行へと移行した。


 インフレータとは言っても、風船に空気を詰め込んで膨らますものではなく、自身を含む一定範囲の時空間を、指数関数的に膨らませる機構のことを指す。時空間を膨らませると表現するが、よりわかりやすくは、時空が希薄になると形容する。端的には、周囲の通常時空間から見て「存在が希薄」になる。n倍に膨らませるということは、n分の一の薄さになることを指している。


 時空密度の低下した空間では、移動している物体は通常の空間よりも早く進む。いや、早く進まざるを得ない。まるでコマ送りのように、あるいは透過率を上げたレイヤーのように、n分の一しか存在できない。


 この世界の最高速度が光速である事に変わりはないが、このインフレーション時空間内での宇宙船は、結果的に、周囲の空間の光より早く進む事になる。

 時空密度が百分の一ならば、周囲に比した移動速度は百倍になる。その空間では光の速度は百倍になり、宇宙船の速度もまた百倍になるのだ。いわゆる「加速装置」とでも呼ぶべきもので、それが作り出すのは宇宙原初のインフレーション状態と同様と言われている。そして、これがインフレータと呼ばれる所以でもある。


 原初のインフレーションとは空間の指数関数的な膨張とされてきたが、三次元空間的な”端”のない宇宙の”膨張”とは、多分に概念的だ。勿論のこと、インフレーション宇宙を実証できるわけではないのだが、現在では、時空密度の指数関数的な希薄化こそがインフレーションの正体であるとされる説が有力だ。


 そう、時空間には、密度がある。

 移動速度を表す「距離÷時間」に掛かる係数だと考えるとわかりやすい。

 時空密度が十分の一なら、移動速度=(距離÷時間)掛ける十となる。


 そしてこの時空密度もまた相対的なものであり、0<時空密度<∞であるのがこの宇宙の範囲を表わす定義となる。あくまで時空密度は、その周囲との相対的な関係なのだ。

 また、この宇宙には、”端”と呼べるような、膨らんだ風船の内側のような三次元的な範囲はない。人類が数千年間観測し続けてもなお、視線の先には果てがない。が、ここまでがこの宇宙です、といえる境界はある。


 無数にある。

 どういう事かといえば、ひとつは所謂ブラックホールだ。


 シュバルツシルト半径または事象の地平面こそが、この宇宙の果てである。事象の地平面の向こう側にある特異点では時空密度∞となり、もはやこの宇宙ではない。一面的には、我々が存在するのは風船の外側の空間であり、風船の外側表面こそが宇宙の果てなのである。風船の外側にとっては、風船こそが空間の端っこなのだ。


 だから、この宇宙の範囲というのは、ブラックホールの外側、とも言える。そもそも人類に認識できるのが三次元だからといって、宇宙が三次元である義務はない。この宇宙の三次元的切片は無限である、というのが現在の定説である。


 一方、光速は、おおよそ秒速三十万kmである。

 そして光速がこの宇宙の最高速度であることも、変えようのないファクトだ。


 だが、時空密度の小さな空間では、そうでない空間よりもたくさん光が進む。そして、光だけでなく全てが同様にたくさん進む。進むことができる、ではなくて、進まざるを得ない。時空密度十分の一の時空間内では、十分の一しか”存在を許されない”から。


 宇宙船は、自身を含む一定範囲の空間の時空密度を低下させながら移動するが、星間航行を行うレベルでインフレータを稼働させているときは、時空密度制御を安定させるために加減速を最低限度しか行わない。移動速度を上積みしようとして加速し、かえって制御を乱す結果となっては元も子もないわけで、現状で、人類は時空密度で数万分の一程度までを実用的に運用している。


 つまり、宇宙船の推進機によって光速の数%~数十%程度まで加速し、その後慣性航行に移ると共にインフレータを作動させて光を超える移動を実現しているというわけだ。例えば、光速の十%に達した後で時空密度一万分の一に制御すれば、結果としては光速の千倍で移動することになる。


 つまるところ、宇宙船の速度性能は、推進機の加速力とインフレータの時空密度制御能力で決まってくる。軽いほうが加速力は大きいし、小さいほうが時空密度の制御は安定しやすい。

 公表されている情報では、宇宙船の実質上の速度性能は、軍用などの特殊なタイプでも光速の五千倍といったところか。この数字は残念な事に、ここ数百年の間変わっていない。科学技術の進歩は緩やかながらにも続いているが、次なるブレイクスルーはまだ見えてきていないというのが実情だ。


 一方、iフライト中のリーリス104の実質的な最高速度は光速の三千倍程度である。ただし当然ながら航路のすべてを最高速度で航行できる訳でもなく、減速するのにも加速時と同じだけの時間と距離を必要とする。


 瞬間移動を意味するワープ技術や、別時空を通り抜けるワームホールといったものは未だ物語の中にしかないので、宇宙船はひたすら宇宙空間を飛んで行く。当然ながらブラックホールや星系などの障害物は、充分な距離をとって回避しなければならない。そういった訳だから、例えば千倍速といっても、千光年の距離を1年で航行するというのは、現実的ではない。


 俊足のリーリス104をもってして、行先のクリフォード星系まではUN標準時間で十五日ほどといったところ。赤色巨星や星雲などを大きく避けるように設定された航路は、まだ洗練されているとは言い難い。

 いずれはこの閑散とした航路も、フライトデータが蓄積されればある程度は最適化されて、所要時間も徐々には短縮されることであろう。レオン達の航海も、その一つ一つがデータの蓄積には役立っているのだ。


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