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深淵のアリス  作者: 沢森 岳
10/33

10 百年前のメモ

百年前に何があったのでしょう。明日は何があるでしょう。

 彼女が手渡便で送ったのは、筆跡鑑定の依頼だったそうだ。

 この別荘には、約百年前のUN本部爆破事件で行方不明となったクレイオ・ランツフォート博士の執務室がある。あった、ではなく、ほぼそのままの状態に今もなっているそうで、お嬢様はそこである物を見つけた。

 それがクレイオ博士の日記、というか手帳で、その最後と思しきページの記述が博士本人のものかどうかを確認したかったらしい。何故ならその記述の日付が、事件のあった日よりも後のものだったからだ。


 行方不明になった事件よりも後の日付のメモを残している、ということになる。


 UN本部爆破事件というのは、百年も前の出来事だが、一般人であれば知らぬ者など居ないほどの、あまりにも有名な爆破テロ事件である。事もあろうに、デルフィにある人類統一機構UN本部に建つビルの一つが丸ごと、爆発物によって倒壊してしまったのだ。


 相当数の人々が死亡あるいは行方不明になった凄惨な事件だが、公開されている情報が奇妙なほどに少ない。

 だから、誰もが知っているが、誰も詳しくは知らない。そういう事件だった。


「日付に関しては、単なる記述ミスではないのかとも思うのだがな」

「しかしながら、科学者とは、そういったミスを嫌う人達ではありますな」


 賛意と共に軽くうなずき、グラハムは続ける。

「問題はそれに加えて、そのページに何かを秘匿していることを示唆する文言がある事なのだ」


「ほう、それは確かに、興味をそそられます」

「物なのか情報なのかも曖昧だが、そもそも本当に何かが在るのかどうか」


 ここでやっとレオンが口をはさむ。

「それで、筆跡鑑定という訳ですね」


 ゆっくりと、無言でグラハムが頷いた。手渡便のケースが、大きさの割に軽かったのも道理だ。しかし、であれば筆跡鑑定の結果は、当分得られそうもない。受け取った本人が鑑定依頼など全く意に介さず、そのままにしてココまで迎えに来てしまったのだから。


 わざとらしく、でもないのだろうが、クーゲルが唸った。

「…うーむ…」


 三人ともが無言になったところで、これまた古そうな掛け時計が、穏やかに時報を奏でた。


 その時計を眺めて、グラハムが言う。

「お茶にしよう」

「御意」


「お茶の用意ができたら、すまないがレオン君、メルファを呼んできてくれないか」

 ふーっと息を吐きながら、グラハムは背もたれに体を預け目を閉じた。


「はい、わかりました」


 妹を心配する兄の気持ちは、なかなか理解してもらえない、ってとこか。

 むしろ、妹の方に危機感がまだ醸成されていなんじゃないかな。つい先ほど、狙われている可能性を告げられたばかりだ。少し待ってみるのがいいでしょ。


 利発な子だから、などと言われているところからすると、いずれは理解してくれるのではないか。いつまでも、というわけにはいかないが。


 メルファ嬢は、クレイオ博士の執務室に籠りっきりで調べ物をしているらしい。

 ご機嫌斜めでないことを願いつつ、クーゲルからの合図を頂いて、レオンはその執務室へと向かった。


「失礼しまーす。入りますよ~」


 重く大きな木製のドアはなぜか半開きで、それでも先ずはノックをしたが、いつまで経っても返事はない。仕方なくレオンはドアを開けて中に入ることにした。

 訪ねるべき部屋を間違えたかとも思ったが、更に奥へと通じるドアまで開きっぱなしで、そちらから物音と声が聞こえる。声といっても、何やらぶつぶつと文句を言っている様子である。


 うわあ、声を掛けづらいなあ。


 ふと視線を泳がすと、窓際にある大きな執務机の手前に応接セットが並んでいて、テーブルの上に幾枚かの紙の資料が重なっていた。

 いちばん上の紙に書いてあるのは、


 ”破棄してしまうのは余りにも惜しい。いつか、”


 文章はそこまでだ。走り書きのようだ、と感じた後でこの紙がノートか何かを精密コピーしたものだと気づいた。そして、数行分のスペースを空けて方程式のような数式が書いてある。こちらは走り書きではなさそうだが。


 ん?


 これが例の、何かを隠しているようだと言っていた文章か。この文だけでは確かに、さっぱりわからない。下に書かれている数式は関係あるのかな?


「この式は、なんか似てるな…」


 何だったかな、と記憶を手繰ろうとしたとき、奥の部屋のほうからドサッと何かが床に落ちたような音と共に、小さな悲鳴が聞こえてきた。


「そうだ、俺はお嬢様を呼びに来たんだ」


 本来の目的を思い出したレオンは、奥の部屋へと続く扉に駆け寄ってその中を窺った。

「大丈夫ですか?」


 そこは、今レオンのお邪魔している執務室と同じくらいの大きさの書庫だった。

 壁面以外にもいくつかの書架が並び、小さな図書館といった様相だ。その書架のうちの一つの前でお嬢様は数冊の本を抱えていたが、抱えていたうちの一冊を床に落としてしまったらしい。


「ゆ、郵便屋さん?どうして…」


 何故ここにいるのか、と不審に思うのも無理はない。まずは行動だ。

「おれが拾いますよ」


 そう言って床に落ちた本を拾う。彼女に対して接近しすぎないようには注意した。そして、ここでもやはり精一杯の営業スマイルだ。

「はい、どうぞ。どこに置きますか?」


「あ、ありがとう。その棚の上に置いてください」


 両手に重そうな本の束を抱えたまま、彼女の視線がレオンから一番近い書架を指す。

 このタイミングは逃せない。本を置いたレオンはさらに一歩引いたうえで話しかけた。


「お茶にしませんか?それで呼びに来たんです。皆さんお待ちですよ」


 彼女がふう、と小さく息を吐くのが聞こえた。抱えた本を同じ棚の上に置く。


「…そうね。お茶にしましょう」

 そう言って微笑んだ。


 嗚呼、素敵な笑顔です。


「良かった。じゃあ、先に行って伝えておきますから」


 レオンは速やかに退出した。まだ彼女との距離感が掴みきれていない現状では、望む通りの回答を得た以上、長居は無用といえよう。見惚れている場合ではない。

 彼はいつもの歩調をことさらに意識して、広い階段を降りていった。


 ほどなくして、同じ階段をやや軽いステップが小気味よく降りて行った。


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