1-E 合宿当日
2日後の朝、勉強合宿が始まった。
早月が晴日の家を訪れたときには、すでにらんと影郎が、到着していた。
晴日は、居間のテーブルにあったものを全て撤去し、机をきれいに拭いた状態で、待っていた。
木製で、周りにいすを6つは置ける長卓だ。
らんと影郎は、黙々と勉強している。いま早月と、これを出迎えた晴日も、席についた。
リビングルームの入り口に、最も近いのが影郎。彼を起点として時計回りに、晴日、早月、らんと並んでいる。嶺には、らんの隣の席を、空けてある。
「ねえねえ、早月ちゃん。聞いて聞いて!」
晴日がやけに嬉しそうに、口を開いた。
「どうしたの?」
「影郎、理系なんだって!」
「ホントに? やたっ!」
早月は思わず、ガッツポーズをする。
「何でそんなに喜ぶんだ?」
影郎は若干、呆れているように見える。
「実はね、ボクたち4人とも、文系なんだ」
「ほう」
影郎は一言、相槌を打つのみ。
「だから、せっかく勉強合宿をやっても、数学とか物理になると、お手上げなの」
「知ってる? 早月ちゃん、1学期期末テストの物理でね――」
晴日が口を挟む。
「わーっ! 言わないでよお!」
早月は、無我夢中で晴日の口を塞いだ。
「はんどぅってんはっはのお」
晴日は右手の指を、3本立てる。これでは、30点だったことが丸分かりだ。
早月は諦めて、晴日を解放する。情けないやら、やるせないやら。
「…………」
影郎は黙ったまま、早月ではなく晴日を見つめる。
「どうしたの?」
「なあ。そういうことは、ベラベラ喋らないほうがいいんじゃないか?」
影郎が静かに諭した。
「言われとる」
らんが笑う。
「ひどい……」
晴日がふくれっ面をした。
「どっちがひどいんだようっ!」
早月が断固抗議する。
「ところで、全員が文系って、宇吹さんもなのか?」
影郎が尋ねる。
「そうねん。やから、あんたおってくれると助かるわぁ」
らんがまた、例の甘えるような仕草をした。
「それ、みんなで集まって勉強する意味、ないんじゃないか?」
「そんなことないで。得意科目、ばらけとるから」
「と言うと?」
「ウチが漢文、晴日が日本史、早月が英語、嶺が現代文。特に早月の英語はいつもパーフェクトやさかい、めっちゃ的確なアドバイスくれるで」
「ち、ちょっとらん。やめてよっ!」
早月は、全身が熱くなるのを感じた。きっと鏡を見たら、顔が真っ赤だろう。
ちなみに、らんはああ言ったが、実は彼女と晴日は、古文にも強い。難解なことで知られる『源氏物語』だって、すらすら読んでしまう。
何でも、これが分からないと、陰陽道や宿曜道の運用に、支障をきたすらしい。
「へえ。俺、現代文と日本史が苦手なんだ。分かる人がいてくれて、心強いよ」
「そうなん。じゃあやっぱ、これから毎回でも来たらええで。世の中ギブ・アンド・テイクやろ?」
その後、4人は数学の勉強を始めた。
昼過ぎには、嶺が到着して、これに加わった。
夕方5時ごろ、呼び鈴が鳴った。
「誰よ、こんな時間に?」
晴日がインターフォンに近寄った。
インターフォンには、モニタがついている。玄関にあるカメラの捉えた映像が、映る仕組みだ。
「何だ、シンゴか」
晴日はモニタを一瞥する。そして、インターフォンの受話器をとることもなく、居間を出た。
早月とらんは、直ちに後に続いた。釣られて、嶺と影郎もそれを追う。
ドアの外には、辰午が立っていた。両手に、惣菜店のナイロン袋を、いくつかぶら下げている。
家の前を走る道路には、黒い「イリアッド」が停まっている。
早月、らん、嶺は、玄関先まで辰午を出迎えた。晴日と影郎は、靴を履きまではせず、中から辰午に顔だけ見せた。
「差し入れ、持ってきたよ」
辰午は袋をさし出す。
「おお、シンゴ。気ぃきくやん」
らんがそれを受けとった。
「ありがとうございます」
嶺は律儀に頭を下げる。
「おや、そちらのかたは?」
辰午は目で、嶺を示した。
「ああ、クラスメイト。宇吹嶺ゆうねん」
らんが嶺の背中に手を添える。
「はじめまして」
嶺は再度、一礼する。
「そうか。君が宇吹嶺くんか。いつも、らんたちの話に出てくるから、1度お目にかかりたいと思っていたんだ。らんたちに、ずい分とよくしてくれてるみたいで、僕としてもありがたいよ」
辰午は、嶺に向かってほほえんだ。
「いいえ。よくしてもらってるのは、わたしのほうです。今日だって、部活が忙しくて、試験勉強がちっとも進んでなかったところを、合宿に呼んでもらえて、すごく助かってるんですよ」
「嶺。こっち、桜井辰午。ウチらのバイト先の上司ねん」
らんは嶺に、辰午を紹介した。
嶺はすでに、らんたちが魔法使いであることも、仕事の内容も知っている。それでなくても、辰午個人のことを、嶺に隠す必要はない。
「え? じゃあ、この前らんちゃんが言ってた『怖い上司』って……」
嶺がそう言いかけたとたん、らんの顔がサーっと青ざめた。
「らん。僕のこと、一体どういうふうに紹介したのかな?」
辰午は笑っている。笑ってはいるが、どこか薄ら寒い。
「あ……、う……」
らんは答えに窮して、うろたえた。
「らんちゃん、大丈夫?」
嶺は心配そうに、らんを見る。
「ほ……、ほら怖いやろ?」
らんは嶺のほうを向いて、ごまかした。
「差し入れ、何人分買ってきたの?」
早月が尋ねる。
「4人分」
辰午は、右手の指を4本、立てて見せた。
「今ここ、5人いるんだけど」
「たぶん、足りると思うよ。全員が晴日と同じぐらい食べると想定して買ってきたから」
「やったね!」
早月はまたも、ガッツポーズをした。
「ちょい待ち。それ、ふつうの人を基準にしたら10人前くらいちゃう? よう食べきらんわ」
らんが袋の中を、恐る恐るのぞきこむ。
玄関の奥から、晴日が何やら喚いているらしい。
が、ドアの外では聞きとれない。
「じゃあ、後は君たちだけでね」
辰午が立ち去ろうとする。
「シンゴ、ウチらに勉強おしえてくれる気、ない?」
らんが、辰午の着ているスーツの裾をつかんだ。
「まだ仕事があるから。それじゃあね」
辰午は車に乗って、この場を離れた。相変わらず、スピードは出ていなかった。
「逃げたで」
らんが、早月の耳元で囁いた。
「今から、女の人に会いに行くんだよ、きっと」
「そやな。間違いないわ」
「辰午さん、て言ったかしら。ちょっと男前じゃない?」
嶺が、らんに耳打ちした。
その瞬間、らんは飛び上がる。
「何ゆうとんねん? ああ見えてシンゴ、まだ独身なんやで? 色目なんか使うたら、カン違いするやん。止めとき」
「え、なになに? 『シンゴはウチが狙っとるんやから、横から手ぇ出さんといて』ですって?」
「はあっ!? そ、そんなことゆうてへんわ、アホぅ!」
リビングルームに戻った後も、2人は少しの間、辰午について話をしていた。