11-B シャハルとの戦い(2)
最前まで、天をつく1本の火柱だったものは、巨大な怪物に姿を変えていた。
顔は、60才前後の男のものだ。
骨張った荒々しい容貌で、眉間が極端に隆起している。
亜麻色の髪とひげが、頭部をぐるりと囲む。ライオンのたてがみのようだ。
頭頂から、2本の角が生えている。鼻筋程度の大きさで、全く目立たない。
体つきは、闘士のように筋骨隆々だ。特に腕が太く、筋肉が盛り上がっている。
赤茶けた皮ふを、髪と同じ色の体毛が、びっしりと覆う。
背中から、コウモリの翼が生えている。同じつけ根から2枚ずつ、計4枚。
背の高さは、正確には分からない。近くに、比較の対象となるものがないからだ。
ただ恐らく、彼の拳が人間の身長に相当するだろう。
悪魔と聞いて、真っ先に思い浮かべるような、醜悪な姿。人間大だったときの気品は、どこにも残っていない。
「何をしてくるんだろう? みんな、気をつけて」
早月は武器をふるいながら再度、仲間に警戒するよう呼びかける。
らんと嶺も、攻撃を再開する。
敵の翼に、腹に、ももに、再び火が灯っていく。
巨人は身をよじったり、羽ばたいたりして、火を振り払おうとする。
だが、そうするそばでさらに、らんたちが点火する。
式神は、めくら滅法に辺りを踏み荒らす。だが、その場所に影郎らはいない。
憤怒のあまり、我を忘れているのか。変身した時点で、知性が失われたのか。そのどちらかであるように見える。
――神さぶる三つの砦の攻略者に、これらの讃美を捧げよ。強弓と疾く飛ぶ箭で武装せるかたにして、糧の授け手にして、何人にも剋されざるかたにして、征服者にして、造物主にして、いと利き武器の使い手であられるおかたに。其神が僕どもの讃頌に、お耳を垂れたまわんことを。
其神は、地に生うる者どもの上に敷かれたる則によりて、天に由来する者どもを服せしめる統治権によりて、知る所となります。三つの砦の攻略者よ。讃頌によりて汝命をなだめんとする、僕どもがはつこをお護りください。僕どもが住居に、おいでください。しかして僕どもにとり、疫病よりの守り手とおなりくださいませ。
天より放たれ、壌を横切る、汝命の燃ゆる得物が、僕どもを避けて通らんことを。汝命が所有に属するもの、風の需求にそぐうものは、千の薬にてあります。僕どもが息やうまごらに、禍いを与えたもうな。
三つの砦の攻略者よ。僕どもを損ない、または唾棄したもうな。僕どもが、生命をいや増さしめる贄の儀に加わることを、お許しください。しかして恒久に、祝福をもって僕どもを慈しみくださいませ――
晴日は、大自在天への祈りの言葉を誦した。
そのとき、彼女の手に握られた円盤が見せた変化は、他のいずれの〈アストラ〉によるものとも異なった。
真ちゅう色の環は、鉛色からコハク色、コハク色から薄紫、薄紫から鉛色と、絶えず放つ光を移ろわせた。
「行くわよ!」
晴日は力いっぱい、圈を投擲する。
〈マヘシュバラストラ〉を宿した円盤は、晴日の手を離れるや否や、3つに分離した。
3つの武器は、それぞれが先ほど帯びていた、3種類の色に輝いた。
鉛色のそれは、影郎たちから見て左斜め前、琥珀色のものは、右前に飛翔した。そしてさながら、獲物に食らいつく猛獣のあぎとのように、シャハルを挟撃した。
他方、薄紫の環は、彼に向かい直進する。
右から襲いかかるものは、砂ぼこりを巻き上げる。中央のものは、周囲に電流と思しき火花をまとう。
暴風雨の、3つの破壊の作用を表す武器が、同時に命中した。
辺りが光に満ちる。
影郎は思わず、目をぎゅっと閉じる。
わずかに遅れて、爆音が響く。
「うおおおおおおおおおお!」
怪物の絶叫も、これに加わる。野太く、それでいてしわがれた声だ。
不意に辺りが、暗く静まり返る。かと思うと、相手の体がぐらついた。
このまま倒れるかと。影郎は思った。が、実際には片膝をついただけだった。
しかし、すぐには立ち上がりそうにない。両肩で激しく息をつき、4枚の翼は力なく垂れ下がる。
全身の毛があちこち焼けこげ、今も煙が立ち上る。
(晴日、〈ナラヤナストラ〉のほかにも、こんな強え武器、隠しもっていたのか)
影郎は驚いた。
「とどめ、刺そか。――晴日」
らんが促す。
晴日は再び、〈スルヤストラ〉を起動する密言を吟じ始めた。
その間、他の3名は手負いの巨人に、追い討ちをかける。
〈烈焔陣〉は今や、一面が火の海と化していた。
多節棍がいく度となく、敵の体を打つ。
嶺も次々と、式神の急所に矢を射こんでいく。
怪物は恨めしそうに、こちらを睨みすえた。
とはいえ、もはや反撃する力は残っていないかに見える。
「終わったわ」
晴日がらんたちに、準備が整った旨を告げる。人さし指には、白くきらめく環がかかっていた。
嶺も1本の矢を手にとる。その矢尻は、青白く発光している。
「よし。ウチの〈烈焔陣〉、さっきからずっと最大火力やさかい、3人でタイミング合わせてな」
らんは扇を、シャハルに向けたままだ。
「どうせなら、らんが合図してよ」
早月は、先刻まで相手をめった打ちにしていた。だがこれを中止し、フレイルの一端を手元に引き寄せた。
「ええで」らんが笑う。「せーので行こか」
「頼んだよ」
早月は巨人に目を転じる。
晴日と嶺は、無言でらんにうなずいて見せた。
「行くで。せー……、の……、でっ!」
らんは言いながら、桧扇を夜空に向ける。炎に対し、もっと高く上がれと命ずるかのように。
晴日は、〈スルヤストラ〉の装填された真白き圈を、投げ上げる。
早月は〈ケン〉と〈リシュ〉を込めたフレイルを、今いちどうち振った。
嶺は、青い光をもらす矢を、クロスボウで放った。――矢には先ほど、晴日が〈アグネヤストラ〉を宿していた。
各々の武器は、すでに火だるまとなっていた敵に殺到し、着弾した。
それに呼応するかのように、式神の足下で〈烈焔陣〉の炎が、ここを先途と乱舞する。
5つの魔法により引き起こされた猛火は、シャハルを幾重にもとり巻き、〈十絶陣〉の中央、〈紅沙陣〉にまで達した。
影郎はとうの昔に、汗でびっしょりだ。
晴日たちの顔が、火に照らされてオレンジ色に染まる。何となくきらきらしているように見える。
炎は、いつまでも燃え続けた。
まさか、相手がこの攻撃に耐えるとは、思えなかった。が、念のため晴日たちは、次なる一手の準備にかかる。
もしもまた火炎旋風が起こりそうになったら即、〈バルナストラ〉や〈三昧神水の法〉で鎮火だ。
「どうや? 嶺」
「まだ生きてるわ。でも苦しんでる。体中焼けただれてるし、翼はもうぼろぼろよ。放っておいても、そのうち力尽きるんじゃないかしら?」
「しぶといやっちゃ……」
らんと嶺が、火柱の内部について話し合う。
そのとき、ものが燃焼する音に混じって、巨人の声が聞こえてきた。
「惜しいのう。愚かよのう。余の提言を受け止めておれば、この世の王にもなれたものを。余は憐みすら覚える。なれらほどの者が、1人として己にかしずく者のおらぬ世に生きねばならんことがな。これは死にゆく余からの、せめてもの慰藉だ。余やいにしえの神々をも上回る力を持った者に対する、賞誉と敬重の印だ」
声が途切れるが早いか、〈紅沙陣〉の中心部に、黒い穴が開いた。ちょうど、らんの立っている地点だ。
そのとき、影郎はらんの、数メートル後ろにいた。
そこから見ると、らんの立つべき場所に、真っ黒な円ができている。
直径は彼女の倍ほど。影郎の位置からは、らんの姿は見えない。
「らんちゃん!」
らんの左にいた晴日が、叫びながら漆黒の輪にかけ寄る。
早月も同様だ。
「何なん、これ!?」
穴の向こうから、らんの声が聞こえる。ただごとではないような、狼狽した声音だ。
「らん!」
影郎は、暗闇の真ん前に、回りこむ。
黒い円は、厚さが1ミリメートルにも満たない平面だ。ふちは炎のように、揺らいでいる。
らんの体は、その面を境界として、これよりも後ろが切りとられている。耳やかかとは、すでに消えてしまった。
徐々に、穴が大きくなっている。らんはその中に、吸いこまれていく。
「らんちゃん!」
嶺も影郎と同じく、親友の正面まで走る。
「助けて!」
らんは右手を伸ばす。
それを早月が捕まえる。
「絶対、離しちゃダメだよ!」
「あかん! やっぱええ。早月、手ぇ離さんと」
今や、らんの体は顔と右腕だけになっている。
「バカ言わないで!」
早月は踏ん張って、らんをとどめようとする。
「らん! 前に命拾いしたの、ムダにする気かよ!?」
影郎がらんに手を伸ばした。その時――
らんは拒絶するように、早月の手をふり払った。そして、ひと呼吸ののちに、闇に消えた。
「らああああああああん!」
他の4人が叫ぶ。
その間に、円は消失する。
「ら……、ん……?」
4人はふらふらと、その場に座りこんだ。




