11-A シャハルとの戦い(1)
影郎は内心、嶺が新たに加わったことを、手放しには喜べなかった。というのは、これまで彼に期待されていた役割がことごとく、嶺ならば確実にこなせるからだ。
トゥスクルとは、つまるところ寄り人の一種だ。できることは、影郎と大して変わらない。しかし、嶺にはイトゥレンカムイという、専属のパートナーとなる神がいる。そのため、任意の時に安定して、力を発揮できる。
要するに、あらゆる面で影郎と同等か、彼を凌駕しているのだ。
嶺は、典儀課に任官した翌日には、思いのままに魔法が使えることを実証した。
そしてその週のうちに、武器としてクロスボウを与えられた。
石弓にしては、非常に小型だ。弦を緩めた状態で、弓の部分が長さ30センチメートルほど。弓を翼に見立てて、本体にオオワシのレリーフが施されている。
3月上旬、影郎、晴日、早月、嶺の4人は、奥多摩の山裾で、夜刀神と対峙した。
らんはそのとき、学校に通える程度までは、回復していた。だが、戦闘への参加は叶わなかった。
そしてそのヤトの神を、嶺は1人で一蹴してしまった。敵の攻撃が絶対に届かない高高度から、矢を浴びせたのだ。
極めて情けない話だが、影郎が彼女に対し、少しも嫉妬していないと言えば、嘘になる。
むろん、嶺がいるからといって、直ちに影郎がお役御免になるというわけではない。人員はいくらあっても、十分すぎるということはないからだ。
それでも、相対的に彼の重要性が薄まったことは、否めない。
こうして、新入りが手ごろな実戦経験を積めたところで、影郎たちはついに、3月16日を迎えた。最後の敵、シャハルが襲来する日だ。
らんはどうにか、この日までに傷を癒やした。
影郎、晴日、らん、早月、嶺の5人が布陣したのは、江東区南端の埋め立て地だ。
影郎が饕餮の群れに対し、魔法が発動せず、晴日とらんの足手まといになるという、嶺とは対照的にぶざまな初陣を飾った場所だ。
また、去年の7月ライナと共に、九頭竜と戦ったのも、ここだ。よって、影郎たちが、この埋め立て地を利用するのは、今回が3度目となる。
空き地の広さは、縦横ともに200メートルを優にこす。真冬だというのに相変わらず、雑草がたくましく繁茂している。
空き地の真ん中にらんは、〈十絶陣〉を展開した。
その中央に、5人は立つ。前列が左から、晴日、らん、早月。後列が影郎と嶺だ。
晴日は、直綴に似せた真紅の衣。
らんは、狩衣と指貫を模した、山吹色の服をまとう。
早月は、ダッフルコートのような紺碧の外套に、身を包む。
嶺は、小袖という和服の一種を着流している。
若葉色で、丈がかなり長い。帯は、チェーンをあしらったモダンな意匠だ。それがちょうど、よいアクセントになっている。
5人が対するのは、南の方角だ。
空き地の先は海。彼らが立っている場所からでも、水平線を見わたせる。
午後6時前に、太陽は西の海に没した。
東や北の空は今、黒と紺の中間の色だ。空一面が、これと同じ色に染まるのも、時間の問題と見える。
「嶺、どうや?」
らんが後ろをふり向く。
「まだ何も見当たらないわ。今、観音崎まで飛んで、折り返したところよ」
嶺は、微動だにせず答える。
その全身を、緑色の光が覆っている。それはあたかも、山おろしが木の葉を吹き上げるかのように、渦巻いた。
本人によれば、憑き神の力を借りて、遠くや遮へい物の向こうで起こったできごとを、透視することができるという。
「そうか……。まあ、疲れへん程度にな」
「ありがとう」
海辺だというのに、この日は風がほとんど吹いていなかった。
そのせいもあってか、夜でも心持ち、暖かく感じられる。あまりに静かで、時折り波の音まで、聞こえてくる。
日の入りから、数十分が経ったころだ。
とつぜん嶺が、正面を指さした。
「みんな、あれを見て!」
他の者は一斉に、埋め立て地のへりに、目をやる。
視線の先は、〈十絶陣〉のわずかに外だ。すぐ後方は海。その場所の、地面からほんの少しばかり離れた虚空に、黒い球のようなものが浮かんでいる。
大きさは、サッカーボールよりもひと回り小さい程度。高さはせいぜい、大人の膝くらいだ。
玉かと思ったそれは、影郎たちから見て、左斜め上に伸びた。さながら巨大なペンで、大気を黒く着色しているかのようだ。
筆先は、時計回りに円を描いた。直径は、成人男性の身長ほど。
(武部さんが、〈サモンズ〉をやったときと同じだ)
影郎は思った。
同時に、灯巳が2度、目の前にあるのと似た図形を描くのに立ち会ったときと、同様の気分を催した。同じものを、かつて見たことがあるような感覚だ。
他の4人は早くも、戦いに備える。
晴日は圈をさし上げて、密呪を唱え始める。らんは桧扇で、ぴたりと漆黒の輪を指す。早月は、フレイルにルーン・ストーンと、オガム・スティックをはめこんだ。嶺は、クロスボウに矢をつがえる。
黒い円が完成すると、その曲線が内側に向かって、拡がっていった。まるで、インクが紙ににじむような光景だ。
円の中が完全に真っ黒になって間もなく、そこから1人の男が現れた。
若く、端正な顔立ち。赤褐色の髪と目。足首まで届く白い衣。
紛れもなく、シャハルだった。
前回みたときと異なり、彼は燦然と光を放っている。影郎たちの目につく範囲に限れば、これよりも明るく輝くものは、晴日が持つ圈のほかに、何もない。
その威容は、まさしく神と呼ぶにふさわしい。
祈祷文を詠む晴日の目が、憎悪もあらわに、彼をきっと睨みつける。
「行くよ!」
早月はフレイルをうち振り、男の脳天に叩きつけた。
棍は、命中するのと同時に、勢いよく燃え上がる。炎が敵を包みこんだ。
使用されたのは、〈松明〉と〈ナナカマド〉の組み合わせらしい。
「まだピンピンしてるわ」
嶺は、クロスボウをライフル銃のように構え、矢を射た。
矢は次から次へと、途切れることなく発射される。
辰午によると、クロスボウは通常の弓と比べ、射程や命中精度で勝る反面、連射速度に難がある。
だが嶺がこれを使用する限り、その欠点はなきに等しい。
伝統的には、太刀を手にしたときに発揮されるのだが、この敏捷性も、〈トゥス〉の産物なのだそうだ。
式神が、〈十絶陣〉のラインを踏みこえる。
そのとたん、彼の周りに炎の壁がそそり立った。らんの〈烈焔陣〉が発動した。
これとタイミングを合わせて、早月が再度、燃え立つ振り杖を叩きつける。
――輝く日輪の乗り手の杯に、お神酒をあふれるまで注ぎなさい。贄の儀の主宰者に、不滅の命をお与えになるかたに。されば其神は、おん自らその民草を庇護し、養われましょう。そして万の処にて、光を放たれるのです。
その光は天性より強く、懇篤に遇せられました。ゆえに今や永劫、天のみ柱にかかり、敵、竜、魔、修羅の誅戮者となられたのです。
その光、光の中で最上のもの、優良さにおいて、何者にも後れをとらざるかたは、総ての征服者、富の獲得者、強靭なるおかたと称せられます。万物の照臨者として閃耀する、力強き日輪の乗り手は、その莫大なお力を、尽きせぬきらめきを開示なさいます。
その光輝にて世を悉く照らし、もって汝命は上天に、燦然たる座を占められました。そのご暉光によって、万国の神祇に向けられた敬虔な行いは、あまねく力づけられ、生きとし生けるものは養われるのです――
晴日はようやく、呪文の詠唱を終え、〈スルヤストラ〉を投げつけた。
日天の武器は相手の頭上で炸裂し、辺りに閃光と高熱とをばらまく。
そう。晴日たちは、シャハルの弱点を火の魔法だと予測していた。
「あいつ、何か喋ってるみたい」
嶺は攻撃の手を緩めることなく、告げた。
言われてみれば確かに、炎が燃え盛る音と共に、何やら男の声が聞こえる。
非常に聞き心地のよい声質だ。まるで歌っているみたいな、一種のリズムと旋律を伴っていた。
眠たくなるというよりも、いつまでも聴いていたくなるような美声だ。
「待て、類まれな呪法の才の保持者よ。余の言葉を聴くがよい。そうすれば、なれらは必ずや己の価値と可能性を自覚するだろう。自分の本当の使命を見出すだろう。なれらほどの者が、その機会より自ら遠ざかるのは、実に惜しい」
式神は語った。
「耳を貸しちゃダメだよ。灯巳ちゃんもああやって、命をさし出すように仕向けられたんだ」
早月が皆に、注意を促す。
「なれらが『いにしえの神々』を尽く破ったのは、まこと天晴れであった。今やなれらこそが、神に最も近い位置にあると言っても、過言ではない」
敵はまだ何か、訴え続ける。
――諸神と人とのみ使いに、お神酒を奉ります。されば、僕どもに敵意を向ける者の貨財を、其神が食み尽くさんことを。僕どもをいかなる窮途からも、脱せしめんことを。舟筏にて瀬を渡すごと、諸々の禍害の果てる処へと、運び出されんことを――
晴日は矢を手にとり、〈アグネヤストラ〉の明呪を口ずさむ。シャハルの巧言が聞こえないようにするためか、いつもより声量が大きめだ。
その間にもらん、早月、嶺の3人は、火柱の中心を目がけて、射撃を続行した。
「なれらが今の世に甘んずるのは愚かだ。それほどまでの力があれば、なれらはこの世を統べる、王のごとき存在になれるだろう。世界を好きなように作り変えることさえ、夢物語ではない。誰から何を奪い、誰にそれを与えるかはもちろん、自然の諸法則までもが、なれらの意に従うだろう。全ては思いのままだ」
紅焔の中から、男の声がなお響く。
(嘘つけ。鉄砲の弾さえ防げないんだぞ?)
早月の警告に反して、影郎は相手の弁舌に耳を傾けていた。聴きながら、心の中でそれをあざ笑った。
「何を恐れているのか? 顔も知らぬ有象無象に対し、気兼ねでもしているのか? なれらは確かに、欲すれば一切の反抗を許さず、誰からも畏怖される絶対者として、ふるまうこともできよう。しかし、望まぬならばそれもよい。皆人をなれらの思い描く幸福に導いて、彼らより自発的な好意と称揚を受けるのも、一興だ」
「黙っててよ!」
ついに、晴日たち4人は一斉攻撃を放った。
〈スルヤストラ〉、〈烈焔陣〉、〈ケン〉、〈リシュ〉。4つの火の魔法が、いちどきに敵に叩きこまれた。
嶺の矢もこれに続く。
焔が一段と激しく燃え上がる。その音で、シャハルの饒舌は完全にかき消される。
付近はすでに、真夏のような高温だ。
影郎は、額の汗をぬぐう。
紅蓮の壁が膨れ上がる。天にも届かんばかりの高さだ。〈烈焔陣〉が存在する区画は、ほとんどがそれで覆い尽くされている。
「あれ?」嶺が口を開いた。「あいつ、大きくなってるみたいよ」
「嘘ぉ!? どうなっとるん?」
らんが驚いて、嶺に目を向ける。
「らんちゃん、見て!」
晴日が火炎を指し示す。
見ると、燃える塊が、一瞬だけねじれるようにぐにゃりと曲がった。その後、大きくふるえて、炎をまき散らした。
火の粉が四方八方に飛び、いずれも地面に到達する前に消えた。




