10-E トゥスの話
その日の午後6時、嶺たち4人は上野駅から地下鉄で、帝室庁の庁舎に向かった。
部活動が終わるまで、晴日らは学校の図書室で、待っていたようだ。
庁舎は、東京タワーのほぼ真下だ。上空から見たときも、そうだった。
早月は気をきかして、真っ先にらんのいる部屋に、嶺を案内してくれた。
「らんちゃん! 会いたかった」
嶺がらんのベッドにかけ寄る。
「おお、嶺。早月からメール貰うたで。ここで会えるなんて、夢みたいやわ」
らんは右手でスマートフォンの角をつまみ、それを左右に振る。
嶺とらんが、互いに体の調子を尋ね合っているうちに、晴日たちが部屋のすみから、らんを除いた人数分のスツールを持ってきた。
嶺を含む4人はめいめい、着席する。
間もなく、辰午が入室する。晴日たちが彼に、ことの次第を詳細に説明した。
「わたしも、らんちゃんたちと同じ仕事がしたいんです。どうか、わたしもここで働かせてください!」
嶺は辰午に頼んだ。
「こちらとしては願っても――」
辰午の返事をらんが遮った。
「ちょい待ち。あかんって。ウチらの仕事、めっちゃ危険なんやで。現にウチは……、いや。権藤くんはまだ意識、戻ってへん。正直、あんたにはこんなことに関わって欲しないねん」
らんが自身に言及しかけて、途中でやめたのが、早月を気づかったためであることを嶺が知ったのは、後日のことだった。
「ありがとう、らんちゃん。そう言ってくれて」
嶺は、自分の身を案じてもらえたことが嬉しかった。
二つ返事で承諾されるよりも、よっぽど幸せな気分だ。だが、ここで引き下がるつもりはない。
「え?」
らんは首を傾げた。何について礼を言われたのか、分かっていないと見える。
「らんちゃんなら、そういうふうに言うんじゃないかって、カムイも予想してたわ。でも、わたしも魔法使いよ。条件は晴日ちゃんも早月ちゃんも同じのはずだわ。わたしだけ仲間外れにしないで」
「それはそうねんけど……。もちろん、魔法のことはきっちり教えるよ。灯巳ちゃんとおんなじことになったら、かなわへんから。やけど、何もこんなことせんでも――」
らんの言う灯巳が、12月に魔法に失敗して死亡した人物であろうことは、嶺にも察しがついた。
「それに、らんちゃんにとってケガをしてほしくないのは、晴日ちゃんも早月ちゃんも同じでしょ? わたしなしで4人で戦うよりも、5人で臨んだほうが、1人1人に及ぶ危険は、小さくなるんじゃないかしら?」
「う……」
らんは言葉に詰まった。
――少しの間、代われ。オレもこいつらに、言いたいことがある――
憑き神が嶺に囁く。
嶺は、彼が自分の体を借りて、らんたちに何か伝えたいのだと、何となく分かった。
(いいわ)
嶺は心の中で、返事をする。
にわかに、体から力が抜けた。だがほどなく、元の姿勢に戻る。
嶺は、最前よりも己の思考力や判断力が、ちょっとだけ落ちたように感じた。だが、それを自覚し得る程度には、意識がはっきりしていた。
『やい、てめえ。さっきから黙って聴いてりゃ、危険だの魔法は教えるだの、ご託を抜かしやがって!』
嶺はらんに指を突きつけ、荒っぽい口調で言った。彼女がやったというよりも、憑き神がそうさせた。
らん、そして周囲にいる4人の目が、点になる。
(あ、こら! 何やってるのよ。手を下ろしなさい!)
嶺は憑き神に抗議する。
彼は、しぶしぶ手を引っこめた。
『いいか。てめえらにいちいち言われるまでもなく、オレは相手が手に負えないと思ったら、迷わずてめえらを見捨てて、この女だけ逃がすぜ。オレとしちゃ、てめえらがどうなろうと、知ったことじゃないんでな。それなら文句はないはずだ。あと、〈トゥス〉のことはこのオレが知り抜いている。この女が何も学ばずとも、オレがいる限り、てめえらが恐れているようなことは起こらん。てめえらが余計な情報を吹きこむのは、かえって有害だ』
「嶺ちゃん!? どうしちゃったの?」
晴日はまだ、状況がよく飲みこめていないらしい。
『まだ分からんか? この中にも、似たようなことができる奴がいるだろうが。――その男だ』
嶺の体を借りた憑き神は、影郎を指さす。
またも、嶺が直ちに手を下ろさせる。
「影郎と……? あっ、緑の光。もしかして〈帰神法〉!? じゃああなた、誰なの?」
『こいつのイトゥレンカムイだ。こいつの体に宿って、トゥスクルとしての力を与えているのが、このオレだ』
「嶺ちゃんの体を、どうするつもり?」
『そいつは、とんだごあいさつだな。どうするもこうするもない。オレはこの女の平穏ぶじ以外に、関心はない。だが当のこいつが、てめえらも安泰でなきゃ気が休まらないときた。だから、オレの力を貸してやったまでのことだ。何なら今すぐ、こいつと交代してやろう』
そう言うと嶺の頭から、憑き神に由来する部分がすっと抜けた。
嶺はまたも一瞬だけ脱力する。そうなるが早いか、嶺固有の心が、体のすみずみまで拡がった。
「ご、ごめんなさい! 今のはその……」
嶺は、顔を真っ赤にして、皆に謝った。横柄な態度をとったことが、申しわけない以上に、恥ずかしかった。
先の言動は、憑き神が勝手に嶺の体を使ってやったことだ。だが彼女は、自身が極めて軽率にした行為として、これを知覚した。
「大丈夫、ちゃんと分かってるから。いま言ってたみたいに、影郎も同じようなことするんだよ。らんが前に言ってなかったっけ? 霊媒体質だって」
早月が笑った。
影郎は、複雑な面持ちをする。
「それにしても、〈トゥス〉とかイトゥレンカムイとか、聞いたことのない単語ばかりだったな。文脈からすると、〈巫術〉に関係するもののようだけど。嶺くんは聞いたこと、あるかな?」
辰午が尋ねる。
「すいません。わたしも昨日、カムイから初めて聞いたんです」
「カムイ? あ、そうか。さっきも口にしてたね」
「はい。昨朝、夢の中で話をしたんですけど、そのとき、自分のことはそう呼べって」
嶺は、なぜ辰午がこの単語に興味を示したのか、理解できなかった。
「カムイっていったら、アイヌ語で神様のことだよ。動植物も器物も自然現象も、1つ1つの個体が、それぞれ別個の神として敬われているんだ。――ああ。きっとイトゥレンカムイの、『カムイ』の部分もそうなんだろうね」
「おばーちゃんの本には書かれていないの?」
晴日が辰午に問う。
「僕が読んだものに限れば、なかった。でも僕、日本語と英語とフランス語と中国語で書かれた本は全部、いちおう目を通してあるんだよ。アイヌ語はカタカナで表記するから、もしアイヌ語で書かれた本があれば、僕が気づくはずだし……。きっと芽実さんも、アイヌの魔法には、ノーマークだったんじゃないかと思う」
「すげ……」
影郎が呟いた。
辰午が日本語を除いて、3か国語も理解できることについて、言っているのだろう。
「とりあえず、さっき出てきた言葉だけでも、インターネットでサクっと調べてみるよ。専門的な本で探すのは、時間が要りそうだから、見当だけでも、つけておこうかと思う」
言うなり、辰午が立ち上がる。
「どこ行くん?」
らんは、何やら不満げな顔をした。
「典儀課のオフィス。ここにパソコンなんてないし」
「ここでスマホ使うて調べたらええやん」
「画面が小さいから、効率が悪いんだよ」
「年寄りはこれやからあかんな。ほら、行った行った」
らんは、シッシッと手を振る。
本心とは真逆のすげない仕草に、嶺は吹き出しそうになった。
「はいはい」
辰午は腹を立てることもなく、退出する。
「さてと。ボクたち、放課後は毎日ここに来て、授業の内容をらんに教えてるんだ。嶺もどう?」
早月はカバンから、教科書などをとり出しながら、嶺に問う。
「もちろんよ」
嶺は即答した。ふと、このメンバーで勉強するのは、夏の合宿以来だなと思った。
5人はこの場で、今日の復習を始めた。
辰午は1時間も経たないうちに戻ってきて、調べものの結果を告げた。
いわく、〈トゥス〉はアイヌ語で巫術、トゥスクルはその使い手をいう。イトゥレンカムイとは、トゥスクルに憑依して、託宣を下したりする神のことだ。
また、叙事詩においてイトゥレンカムイは、英雄の武器に宿り、その者に超人的な能力を付与する。
例えば、目にも止まらぬ速さで、相手に太刀を浴びせる。空を飛ぶ。姿を消す。遠くのできごとを把握する。以上のようなことを、可能にする。
まさに、嶺が〈トゥス〉を獲得して、2日間のうちになしてきた所業が、尽く列挙されていた。
その上で、辰午は再度、嶺にSSSへの任官を勧め、嶺はこれを快諾した。
今度は、らんたちも異を唱えることはしなかった。
特に誰からも指摘されなかったから言わなかったが、嶺は密かに、今年度いっぱいで、体操部も弓道部も、辞めることに決めていた。
少なからず、もったいない気はする。
とはいえ、元々しつこく入部をせがまれて、断りきれずに始めたものだ。未練はない。
「ねえ、みんな」嶺は改めて、らんらに向き直る。「実を言うと、みんなが魔法使いだって知ったとき、みんなとの間に、壁ができたような気がしたの」
「何でえ!?」らんは、嶺の肩に手をかける。「『魔法が使えるかどうか』ら、そんな重要なことなん? ウチからしたら、あんたがバク転できることがうらやましいわ。それでおあいこなんとちゃう?」
「大して重要じゃないってこと、自分も魔法が使えるようになって、ようやく分かったの。ほとほとバカだわ、わたしも。――それでね。わたしがその壁を意識しないでいられるように、みんなが気を使ってくれて、わたし、それに気づくたびに、すごく嬉しかった」
「気ぃ使うなんて当然やん。一緒におらせてもろうとるんは、こっちのほうねんもん。ウチからしたら、ウチと街に行ったりご飯食べたりするの楽しいって、あんたに思うてほしいだけやで。あんたのそばに、できるだけ長うおれるようにな」
「ありがとう。――でもわたし、嬉しいのと同時に、心苦しく感じてもいたの。みんなに余分に労力を使わせたのが、申しわけなくて。それで結局、壁そのものが消えることは、なかったわ」
「そうやったん……。あんたがそのことでそんな悩んどったこと、ウチ、ぜんぜん気ぃついてへんかったわ。それでもあんた、ずっとウチらのそばにおってくれたんやな。『ごめん』っちゅうたらええんか、『ありがとう』がええんか、分からんな」
「でも、それも昨日までよ。これでやっと、本当にみんなと同じになれた気がする。わたし今、最高に嬉しいわ」
「あんたから、そこまで目ぇかけてもらえるなんてな。やっぱウチら、つくづく果報モンやわ」
らんは笑った。
その後らんたちは嶺に、典儀課の組織や、仕事の内容を教えた。
それがひと段落すると、5人は勉強の続きを始めた。
こちらも終わって、嶺が家路についたのは、終電間際だった。今度は、空を飛ばずに電車で帰宅した。




