1-C 灯巳と晴日の出会い
灯巳は翌日も、早朝から教化活動に従事した。
自身が「過去の哲学」に共感したことなど、1度もない。だけどこれをしなければ、両親の立場が悪くなる。そうなると、八つ当たりされるのは自分だ。
この日は少々遠出をして、千葉県市川市の家庭を訪問した。
大半は、留守と居留守の判別がつかなかった。扉を開けてもらえた回数は、ゼロだ。インターフォンから、きのう女学生に言われたような悪態をつかれたのは、1回や2回ではない。
午後2時ごろ、灯巳は市川駅の付近にいた。駅の北側にある大通りを東から西へ、駅のあるほうへ進んだ。
この1日で、何キロメートル歩いたか知れない。土踏まずが痛い。
(何で、わたしだけこんな目にあうの?)
灯巳は思った。
灯巳には、友達がいない。作ろうとしたことがない。再光教会は、「正義の戦士」以外の者と親しく関わることを、許していないからだ。
小学生のとき、1回だけクラスメイトを家に連れてきたことがある。その夜、灯巳は親から、ベランダに締め出された。
物心がつく前から、「過去の哲学」を徹底的に教えこまれた。
だが、学んだことが役に立った経験は、皆無だ。それどころか、学校で習ったことと食い違っていて、困惑するケースばかりだ。
父母は、「先生の言うことのほうが正しくないのだから、気にしなくてよい」と、いつでも言う。ところが、そうだと信ずべき理由が、提示された試しはない。
灯巳は、家では「過去の哲学」を、学校では授業の内容を、ひとまず正しいものとして行動した。そして、それなりにうまく立ち回ることができた。
学校の成績は、一貫して学年トップだった。担任の先生は、有名私立高校への進学を、強く勧めた。
しかし、母は頑として聞かなかった。
灯巳だって、人の役に立ちたい。誰かから感謝されることがしたい。
そのためには高校や、できれば大学か専門学校にもかよって、より多くのことを知ったほうが有利だ。
だが灯巳には、それさえも許されない。反対に、まともに相手にされず、挙げ句の果てに、疫病神のように追い返されるような活動に、従事させられている。
過去に、親の借金を苦にして、子が自殺するという事件が、テレビで報じられたことがある。
コメンテーターとして呼ばれた大学の教授が、相続放棄という言葉を出した瞬間、母がテレビの電源を切った。彼の言うことは正しくないから聞いてはいけない、という。
なぜ、人がふつうにできることを、灯巳だけしてはならないのだろうか。友達を作ることも、高校に通うことも、テレビを観ることも……!
「もうイヤだ、こんな生活」
何か、甘いものを口に入れたい。そう思って灯巳は、目についたカフェに入った。
もしこんなところを、親に見られでもしたら、大変なことになる。
だがまさか親まで、川崎から市川に来るはずがない。もしいたとしても、都会の飲食店みたいに混んでいる所で、灯巳を見つけるのは困難だ。
灯巳が入店したときは、半数近くのテーブルが空いていた。
灯巳はカフェラテを受けとって、3階の奥、窓ぎわにある2人用の席についた。
その直後、次から次へと客が押し寄せた。そして、あっという間に満席になってしまった。
灯巳は、足首をぶらぶらさせながら、何も考えず、ぼんやりと過ごしていた。
足の痛みがひくまでは、この場を動かないつもりだ。
「あのー……」
不意に、誰かが灯巳に声をかけた。
視線を上げると、卓の右に女の子が1人、立っている。
見たところ、年は灯巳と同じ16才前後だ。長いまつ毛と、まん丸い目が、特に印象に残る。黒い髪を、肩甲骨のいちばん下の辺りまで、伸ばしている。
ブラウスにタイトスカートという、割りかたフォーマルな出で立ちだ。
ごく最近、何か悲しいことがあったのか、どこか愁いを帯びた表情をしていた。
「何かご用でも?」
灯巳は尋ねる。
「もしよかったら、相席させてもらえないかしら? 座る場所がなくて……」
少女は、上目づかいに頼んだ。カップアイスをのせたトレーを、両手で持っている。
アイスは恐らく、最も大きなサイズのもので、カップラーメン並みの容器に、満杯近くまで詰められている。
彼女の体格でこれを完食できるのか、はなはだ疑問だ。
右腕のひじには、トートバッグを2つぶら下げている。
灯巳は、辺りを見回した。
なるほど、空いている席は1つもない。予備のスツールを出してきて、4人用のテーブルを、5人で囲んでいる所も、少なくない。
灯巳と同じように、1人で2人用の机を使用している者も若干いる。けれどいずれも、心なしか決まり悪そうに見えた。
「どうぞ」
灯巳は、卓の反対側にあるいすを勧めた。
「ありがとう。――あ。私、天宮晴日っていうの」
晴日と名乗った女の子は、頭を下げた。
「わたしは武部灯巳」
灯巳も、自分の名前を告げた。
カフェで相席したぐらいのことでは、ふつう名乗ったりはしない。だけど、相手が自己紹介をした以上、こちらもやらないと、気まずい。
晴日は灯巳と対面する席に座り、いすの脇にトートバッグを置いた。
灯巳は、中身をそれとなくのぞいた。
バッグの1つからは、ハンガーを10本ほど束ねたものや、浴槽を磨くものと思しきブラシ、それからインセンスオイルの詰め替え用ボトルなんかが、飛び出している。
もう1つの口からは、コーヒー豆の袋や、クッキーの箱などが見える。
彼女は、この近辺に住んでいるようだ。
それで食料や日用品が不足してきたため、久しぶりに電車に乗って買い出しに行ったが、疲れたので帰りに、腹ごしらえを兼ねてここに立ち寄った。
灯巳はこのように推量した。
晴日はスプーンでアイスをすくい、口に運ぶ。
そのおいしそうに食べること。全身で生の喜びを、満喫しているかのようだ。
数分のうちに、アイスは半分以下まで減った。体積でいえば、灯巳のカフェラテのほうが多くなっている。
「あの……」
今度は、灯巳から話しかけた。
晴日は、スプーンを口に入れたところだった。
灯巳が卒前と声を出したのに驚いたのか、一瞬だけ目を大きく見開く。そして、アイスをごっくんと飲みこんだ。
「なあに?」
晴日が尋ねる。
灯巳は再びためらった。だが、意を決して問うた。
「これはあくまで一般論で、仮定の話よ。もし、人に伝えたいことがあるのに、相手がそれを聞くことを拒絶したら、どうすればいいかしら?」
宗教の勧誘をおこなっている、などということは、おくびにも出さない。
そんなことをしたら、これまで灯巳が見てきた何百人もの人間と同じ反応を、目の前の少女もするだろう。
「話かあ。私だったら、聞いてくれない人に、聞かせようとはしないかな。たとえ仲のいい友達でも。みんなそれぞれ興味のあることも、直面している課題も違うのに、他人の考えなんてむりやり聞かされたら、イヤになっちゃうもの。私のクラスにも1人、よくそれをされて、困ってる人がいるわ」
晴日の回答は、灯巳の期待するものではなかった。これは灯巳の悩みの解決策ではなく、彼女の希望が度をこえたものだと、きっぱり言っているようなものだ。
「そうよね、やっぱり……」
灯巳は視線を落とした。
自分たちだって、「過去の哲学」が誤っている、などとする意見には、徹底して耳を貸さないようにしている。だから同様に、他人に傾聴を強いることができる立場にもない。
「何かあったの?」
晴日が灯巳の顔をのぞきこんだ。伏し目がちな彼女を、気づかっていると見える。
「ううん、何でもないの」
灯巳は、努めて明るく答えた。
自分が抱えている問題の核心部分など、言えるはずがない。布教が成功しなくて親に辛く当たられ、身も心もすり減っているなんて――。
「そう? ならいいんだけど」
晴日は、これ以上深くは追及しなかった。
「もう1つ、訊いていいかしら? 仮に、親が強い信念を持っていて、それに沿った行動をしろと子供にも言うとするでしょ。だけど、子供は親の考えていることが理解できなかったら、子供はどうすればいいと思う?」
「ごめんなさい。私、小さいころに両親が死んじゃってて、そういう状況が想像もできないの」
晴日の表情が曇った。回答は、灯巳の思いもよらないものだった。
「わたしこそごめんなさい。そんなことも知らずに――」
灯巳は、即座に謝る。
「あ、気にしないで。私、今はぜんぜん平気だから。友達もいるし、学校も仕事も楽しくやってるし」
先ほど、晴日が浮かない顔をしたのは、単に灯巳に対し、有益なアドバイスができなかったためらしい。
だが、親身になって考えてもらえただけでも、灯巳には十分ありがたかった。
それにしても、友達がいて学校にも通えるというのは、灯巳にとってはうらやましいことこの上ない。
その後2人は、雑談に興じた。今日や明日の天気、市川駅付近の街並み、8月の暑さなどについてだ。
2人は時間を忘れて語らった。いつの間にか、窓の外が暗くなり始めていた。
「あっ! もうこんな時間。そろそろ帰らなきゃ」
灯巳は腕時計を見て驚いた。
「本当。私も観たい番組があったのに」
晴日のほうは、スマートフォンで時刻を確認する。
2人は慌てて、帰る支度を始めた。
「ねえ、灯巳ちゃん」
晴日は屈んでトートバッグをつかみ、身を起こした。
「どうしたの?」
「メールアドレスを、教えてくれたりしないかな? 今日お喋りできて、とても楽しかったから、また会えたらいいなって思って」
晴日は言った。
灯巳は一瞬、躊躇した。再光教会に属さない人間と仲よくするのは、厳しく戒められている。
だが、数秒と考えることなく、灯巳の心は決まった。
この出会いを、これっきりのものにするのはイヤだ。
これからも悩みを相談したい。相手が困っていたら、お返しに自分も助けてあげたい。
灯巳は晴日の申し出を、快諾した。
この日、2人はこれで別れた。