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4-E ロー・ボール・テクニック

 翌週の月曜、影郎たちは授業が終わると、日常業務のため、典儀課に向かった。


 オフィスに入るが早いか、晴日は奥のコーヒーメーカーを目指して突進、した。


 影郎、らん、早月は、適当な事務机にカバンを置き、座席に座った。

 すぐには仕事を始めず、伸びなどをしていると、晴日がコーヒーを手にやってきた。飲み物を入れている器が、先週の土曜日に買ったばかりのマグカップだ。


「あんた、それここに持ってきたん?」


 らんがカップに注目する。


「そうよ。そのために買ったんだもの」


「ここにだって、コーヒーカップくらいあるのに……」


 早月は憎々しげに呟く。


「だって、ここのカップ、ぜんぶ無地で殺風景なんだもん」


 晴日が反論する。


(そういや、そうだったな)


 影郎は思った。

 オフィスに常備されているコーヒーカップは全て、真っ白で柄がない。

 落としても割れない材質だと、以前聞いたことがある。が、やはり何か物足りない気がする。


「晴日。可愛いカップじゃない」


 初恵がオフィスに入ってきた。


「でしょ? 見てよ、ほら」


 晴日は自慢げに、絵がプリントされた面を初恵に向ける。


「……てあら? 前言撤回よ。何そのムササビ? 見たことないわ」


 初恵は、カップがよく見える距離まで晴日に近づくと、当初の感想を、あっさりと翻してしまった。


「ひどい……」


 晴日がむくれる。


「初恵さん、厳しいなあ。ウチ、『デザインは悪ない』思うとったんに」


 らんが言った。


「どこで買ったの?」


 初恵は、晴日の器を指さす。


「聴いてよ、実は――」


 早月は初恵に、晴日がマグカップを買うに至った経緯を、こと細かに語った。

 その間、初恵は極めて真剣に、説明を聴いていた。


 早月が話し終えると、初恵が言った。


「それは典型的なロー・ボール・テクニックね」


「ロー・ボール・テクニック?」


 影郎ら4人が、一斉に聞き返す。


「あら? 誰も聞いたことがない?」


 初恵に言われて、4人は顔を見合わせる。皆、キョトンとした顔つきだ。


「何なんですか、それ?」


 影郎が尋ねた。


「ロー・ボール・テクニックっていうのはね、交渉をするときの技術の1つよ。最初は魅力的な条件を提示して、とりあえず相手のOKを引き出すの。だけど、後から何かと理由をつけて、その条件を撤回していくのね。そしたら、結果的に大して有利なとりひきでなくなっていても、相手は承諾してしまうのよ」


「今回のだと、4割引きの1200円で晴日の気を引いて、後で『実はこの商品は1割引きなんですよ』って言って1800円で買わせるのが、当初の条件を撤回するのにあたる、てワケね」


 早月は手を叩いた。


「そういうこと。相手としては、すでに交渉が成立して、欲しいものを手に入れた気分になったのに、『やっぱりこの条件じゃないと、商品を売りません』なんて言われたら、交渉がふりだしに戻って、ややこしく感じるでしょ? それに、いったんOKしてしまった手前、「やっぱりやめときます』なんて言うのは情けないし。ロー・ボール・テクニックは、そういった心理的傾向を利用しているのよ」


 初恵はホワイトボードに、ロー・ボール・テクニックの抽象的な定義と、今回晴日が遭遇した事例を、対比して書きこむ。


 晴日はもはや、ちっとも嬉しそうではなかった。

 自分が悪徳商法に引っかかったと分かり、腹の虫が収まらないようすだ。ひょっとしたら、知らぬが仏だったのだろうか。


「それって詐欺とちゃうん?」


 声からして、らんも晴日と同じくらい、苛立っているようだ。


「詐欺ではないわ。一応ちゃんと、売る前にお店の人は1800円であることをはっきり伝えて、晴日はそれに納得して買ったんでしょ?」


 詐欺にはあたらないと言いながら、初恵の顔色にも、公憤のようなものが見え隠れする。


「っちゅうか何なん、『ロー・ボール』って?」


「文字通り『低い(たま)』よ。本来ならとろうと試みもしないような高いボールを、とれそうな低いボールのように見せて投げることで、相手にとろうという気を起こさせるのに似ているから、そう呼ばれるようになったんだって」


「スポーツにたとえるんやったら、もっと核心を的確についた例とか、ないん?」


「知らないわよ。もうそういう名前で定着してるんだから、今さら変えようとしても、混乱するだけでしょ?」


 初恵は白板に、キャッチボールをする棒人間を書きこんだ。


 晴日は、黙ったまま立ち尽くす。

 マグカップの中では、コーヒーがとうに冷めていた。


「だまされないための対策とかって、ありますか?」


 影郎が問う。


「それはもう、新しく提示された条件が気に入らなかったら、断るしかないわね。いちど決まったはずの約束を、向こうが反故にしてきた時点で、こっちが誠実である必要はないでしょう?」


「何か、悔しい」


 晴日はうつむいている。そのほおを1筋、涙が伝った。


「晴日は頭がいいんだから、こういう商売のしかたがあると知った以上は、もう二度とだまされないでしょ? まあ、ロー・ボール・テクニックは、ビジネスの本なんかには、必ずといっていいほどのっている、初歩的な技術だから、会社なんかを代表して交渉に当たるような人が引っかかったら、問題だけど」


 初恵は晴日を慰めた。


 この日、晴日、らん、早月の3人は、終始不機嫌だった。

 影郎にとっては、気をつかって神経がすり減ること、この上なかった。

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